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夏の盛りによせて

小学生の頃、「戦争の話を聞く」という宿題があった。
私の血縁関係の中で、戦場に行った、と知っていたのは母方の祖父だけ。祖父母の住む家の居間にはとても大きな感謝状が入っている額縁があって、「戦争に行ってくれてありがとう」というようなことが書いてあった。ただ、その額縁のことをはじめ、戦争の話を聞いても何も教えてくれなかった。
こんな宿題が出たんだけど、と母に相談したら、「じいちゃんに電話して聞けばいいじゃない」と答えが返ってきた時にはどうしたものかと本当に頭を抱えた覚えがある。どうせ聞いても教えてくれないよ、と。
というか、正直な話、私は祖父のことが怖かった。良いように言えば威厳がある、語弊を恐れずに言えば頑固で無口で食事の時には一口食べると祖母に味付けについて文句を言っていた祖父と、面と向かって話をした記憶があまりない。祖母は温厚な人だったので、祖父母の家に行くことは決して億劫ではなかったのだけど、行っても黙って祖父の近くに座っているか、私が別の部屋に移動してしまうかだったから、というのも、聞いても教えてくれなかった理由の一つかもしれない。
それでも、代替案があるわけないので、恐る恐る電話したら、気が乗ったのか、それとも面と向かってじゃないのが良かったのか、祖父はとても饒舌に戦争の時のことを教えてくれた。

これは、その時に聞いた話。

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祖父は、3回戦争に行った。
満州事変と、支那事変と、第二次世界大戦。
満州事変と支那事変は、実際に戦地に赴いたらしい。そして、その度に帰ってきた。
そもそも、祖父は志願兵というものらしく、18歳だかの時に陸軍に召集されたということを言っていた気がする。召集されたのは、私が住んでいた地域に配備されていた陸軍だった。私の地域から祖父の地域まで、車で2時間半、山を3つこえた場所。当時の祖父は、どれほど遠くまで来ていたのだろうと不思議な気持ちになったのを覚えている。
海外に赴いた時の話は、申し訳ないがあまり記憶に残っていない。もしかしたらあまり話にあがっていなかったのかもしれないし、小学生の私にはよくわからなかった言葉がたくさんあったかもしれない。そして、もしかしたらそのあとの話があまりにも記憶に残っているせいなのかもしれない。

今から76年前。
祖父は、岡山にいた。
だんだん日本も苦しくなってきて、もちろん被害も大きくて、人手が足りなかったのだろう、遠く離れた新潟から岡山の軍需工場に祖父は駆り出されていた。
そこは日本国軍におけるトップシークレットの兵器を作っていた関係上、機密が漏れないように厳重なつくりになっていて、分厚い鉄の扉が閉められていた。
そこで、祖父は文字通り三日三晩、寝ずに兵器を作り続けた。完成が急がれていて、寝ている暇なんかなかったそうだ。
なんとかかんとか目途を付け、ふらふらの体で祖父は当時寝泊りしていた宿舎に戻った日の夜、祖父がいた工場は空襲に遭った。
機密が漏れないようになっていたせいで、中にいた人たちは逃げられなかった。もちろん、外にいた祖父も、何もできなかった。
軍需工場が焼け落ちてしまい、仕事がなくなった祖父には帰宅命令が出た。汽車でごとごと揺られながら帰ることになったが、途中空襲がある度に汽車は止まる。ひどい時には数日間、足止めをくらうこともあった。
やっと長岡まで帰ってきたところで、足止めをくらった。1週間くらい足止めされた後、ようやく汽車は出発した。
汽車が出発して数日後、長岡は大空襲に遭って、焼け野原になった。あの日、汽車が出発できていなかったら、空襲の被害に巻き込まれていたし、あの日より遅かったら祖父は家に帰ることができなくなっていた。
そんな九死に一生を得続けた祖父は、生きて帰れたことが不思議なくらい、無事に帰ってくることができた。
祖母は正直、長岡大空襲で祖父は死んだと思っていたらしい。大空襲のせいで手紙も届かず、連絡ももちろん無く、情報も一切入ってきていなかったそうだから、死んだと思ったのも仕方ない。だから、玄関先に立っている祖父を見て、信じられなかった、と言っていた。

そして、祖父が帰ってきてすぐ、戦争は終わった。

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後にも先にも、私が祖父から戦争について聞いたのは、あの電話一度きりだった。再び祖父に話を聞いても、戦争のことは話してくれなかった。それが面と向かってだったからなのか、それとも悲しい記憶に祖父自身が蓋をしてしまったからなのかはわからない。
祖父は晩年、畑作業をして、井戸を掘り、手芸や工作を楽しみ、時折書道をたしなみながら、最後の最後まで祖母と一緒に暮らしていた。年の瀬が迫る中、祖父母が同時期に体調を崩して同じ病院に入院した時には、個室にいる祖母のところに大部屋にいる祖父が毎日通っていた。そして、祖母が退院した後、入れ替わるように同じ個室に祖父が入り、年が明けてすぐの寒い雪の日の夜、祖母と、子どもたちと、孫に囲まれて、眠るように息を引き取った。
3回も戦地に赴いた経験があったからか、祖父は自分が死んだ後のことを全て書き残していて、自分が死んだことを伝えてほしい人、葬儀の場所、葬儀の時に出す仕出しを頼む料理屋とその種類、香典返しなど何から何まで書いてあったらしい。私はその書き残されたノートをちらっとしか見ていないけれど、ぎっしりと文字が書いてあった記憶がある。
そして、形見に関してはいろいろ記述があった後に、「勲章は、孫たちで分けてほしい」とあった。
祖父母の家の居間に飾ってあった額縁には、賞状と一緒に、十数個の勲章が飾られていた。
それは全部、戦争に行ったことで祖父がもらった物だ。
「こんなん、分けてほしいって言われても、勲章なんか分けられないじゃんねえ」と、母がぽつりと言った。

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祖父亡き後、祖母やいつも祖父母の相手をしてくれていた人たちから聞いた話によると、祖父と祖母は東京駅で待ち合わせをしてデートをしていただとか、祖父母が暮らしていた家の屋号は祖母の名前をそのまま付けたものだとか、その他にもいろいろ、祖父が祖母のことを溺愛していた話を聞いて、もしかして祖父はそれほど怖い人じゃなかったのかもしれないと、ただちょっと、気持ちを表すのが不器用というか、苦手というか、そういうものだったんじゃないかと思った。そして、祖父に何を言われても祖母がずっとにこにこしていたのは、祖父のそんな気持ちを知っていたからなのかもしれないな、とも思った。
そんな祖母も既に祖父の元へ旅立ってしまったので、本当のところがどうだったのかはわからないけれど、お盆を迎えて、そしてそろそろ帰る頃だという今日、終戦記念日ということもあって無性に祖父母のことを思い出したので、忘れてしまわないうちに書き記しておこうと思い立って、今こうして記憶をたどりながら文字に起こしている。

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