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理性と情緒を落としてしまったのですが

何の話かと思っていた。
君が「今日夜空いてる?」って言うから。
大学の講義が終わり、新宿に待ち合わせた。5月の18時30分はまだ少し寒い。やけに馬鹿でかい電光掲示板が「今日の夜は雨がパラつく」と予報していた。猫が客引きを啓蒙する喧騒の中、僕は待ち合わせた店への急いだ。
先に来ていた君はこの気温だと少し寒そうだった。しかめた顔をして「何分待たせんの、寒いっての」と言う顔は少し可愛げがあった。
生一つ。」
「あたしは生飲めないから、角ハイで。」「まだ生飲めないのかよ、ガキだな。」
そんな話から今日招かれた訳を聞いた。どうやら彼氏とうまく行ってないらしい。何で僕に相談するんだ、って言っても僕の大学で話せる女は彼女しかいない。
初年度のオリエンテーションの時間を間違えて、僕に「先生に電車が遅延しましたって言っていて!」とDMを送ってきたのが最初でもう3年になる。1年生の頃から僕と彼女は水と油のような性格で、こうしてよく"セラピー"を開くような仲になるとは考えてもいなかった。どう言うわけか、彼女曰く、「話を聞いてくれる空気感」が気に入られたらしい。全く今でも謎だが。
ただ、彼女に彼ができてからは久しかった。

「ねぇ、聞いてんの?」

いや全く聞いていなかった。
「えっ、それでなんだっけ。」誤魔化した。
「もう、だから、絶対に浮気してんのあいつ。みてよスクショ、これ彼氏のスマホからエアドロしたやつだから。」
彼女は手に持った画面の割れたスマホを突き出すと、別の女と彼氏が話している内容のスクリーンショットが見えた。
確かに浮気をしていた。泣き出しそうな顔を堪えて作った怒り顔は僕には透けて見えた。
「ありえないよね、まじで今日は飲む。」え一笑えないって。うつ伏せた顔に僕は苦笑すると、お気に召さなかったのか
「タバコ行ってくる」と彼女は席を立ってしまった。

気持ちよく酔っ払ってしまった。店を出たら霧雨が降っていた。しかし街の傘をさす人たちは少なく、人どよめきや騒音がアルコールでクリアに聞こえて、ある居酒屋の前では人がい、ある路地裏では男女がキスをしていた。そんな繁華街を包む霧雨が夜の東京を醸し出していた。
彼女が隣でタバコをまた吸い出した。上る紫煙は曇り空と溶け込み火だけがバチバチと音を立てて燃えていた。甘く煙たい煙が僕の前を横切り、僕は顔の前で手を振った。
「え、待ってごめん。タバコ苦手だったよね。」彼女が言った。
「いいよ、もう慣れてる。」タバコの煙がどうしても苦手なぼくは取り繕った。

鬱気な顔をした僕を見てから彼女はもうない空の箱を見つめていた。
「ねえねえ、みてみて。」
ふと横を見て何をし出すかと見つめると彼女はおもむろにその空箱を火をつけ出した。
「えっ、やばっ。待って、やばいって。」
僕はこの街の中で堂々とそれに火をつけ出した女に絶何した。その女は「ははは」と声を出して笑っていた。めちゃくちゃだ。めちゃくちゃだった。

でも君は楽しそうだった。

炎の光に濡れた笑った君の顔がよく映えていた。と思った。霧雨は降っていた。
僕はただ、その暴行に手をつけず、ただ、ただ少しだけ、その顔を見つめていた。

帰路につき、彼女は京王線に乗り、僕は総武線で錦糸町まで。家まで青砥車庫行きの最終バスに乗った。
僕は少し熱った頬を持ちかえり、おもむろにスマホを開いた。街の光は窓ガラスについた水滴で乱反射して酩酊した目に飛び込んで転がった。ブルーのイルミネーション、赤の常夜灯、ピンクのネオン。それらは僕を淡い感情にさせた。スマホはその感情をくっきりと写すにはうってつけだった。
「今日は楽しかった。ありがとう。」彼女にダイレクトメッセージをした。
すると、すぐに返事が返ってきた。
「ありがとね!まじでイライラしてたから助かった」調子のいいやつ。僕のこと何だと思っているんだ。少し癪に障りつつ「また彼氏と喧嘩したら呼んでよ、まぁ喧嘩したらだけど」と送った。
「大丈夫!今さっき迎えに来てくれて誤解だったってわかったから!今もうラブラブだから!笑」と、返ってきた。

ああ、なんだ。

あぁ、よかった。

ああ、僕は

ぼくは

「すみません、財布を落としてしまったのですが」「すみません、今すぐにでも下ろしていただけません
か」
僕は今すぐにでも走り出したかった。もしも、そうしなければ僕が情けなくて無くなってしまうと思った。
もしも、そうしなければいつまでもこの瞬間に生きると思った。もしも、そうしなければ生きている心地がしなくなると思った。もしも、そうしなければ僕が僕でなくなると思った。もしも、そうしなければ、走らなければ、走らなくては。

バスの運転手は狼狽えたような声で「あぁ、少し待って。車庫まで来てくれる。」と僕に伝えた。
僕はもう走り出したかった。気が触れてしまいそう
だ。「うわあああぁっあっ」僕はついに、小声だが、情けない、高い声で細く発狂した。理性と狂気が火花を立ててせめぎ合っている。散らした炎が僕をアツくさせて、脳の溶けたのが鼻から垂れた。羞恥と本能で頭に血が昇って顔を熱くさせた。感情の糸が絡まって片結びになり、極彩色の色を成した。その糸はなんだか今プッツンキレそうな瀬戸際だった。

僕はその次のバスストップでバスから飛び出した。

霧雨で街の形が曖昧になる東京の中で、僕だけは輪郭を得たかった。
走った。走った。通り過ぎた赤信号も、寂れた中華屋も、崩れそうな雲を支えるスカイツリーさえ曖昧だった。しかし、ひた走るこの体さえは輪郭を保っていた。
走った。走った。あぁ、そうだ。今日は楽しかったんだ。それでよかったんだ。僕は何者だ。と、考えてしまう僕は誰の何でありたいか。それはきっと、それでも僕なのか。考えるのをやめるな。それはきっと僕なのだ。僕を僕たらしめた君はきっと僕なのか。
走った。走った。メガネのガラスは息と雨で曇り、視界はぼやけ、どこを走っているのかもわからなかった。
走った。走った。なぜ僕が今走っているのかわからなくなって来た。曖昧になってきた。なぜ"曖昧"になるのが怖くなるのかも、何もかもどうでもよくなってきた。
走った。
走った。
走った。
転んだ。

随分と気絶していたようだ。墨堤通りを走る車はトラックとタクシーしか見なかった。濡れたダメージジーンズのようにほつれた激情を霧雨は冷ます。5月はまだ夏には早すぎるようだ。

ぐしゃぐしゃに濡れた膝をついて僕はなんだか祈っていた。どうか、どうかこんな日々がまだ続きますように。どうかタバコが少し吸えるようになりますように。どうかまた彼女に会えますように。

糸は水溜まりに溶けてぐちゃぐちゃになっていた。なんだ、水溶性だったようだ。

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