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ミニマリストへの道 第2章 「きゅん」を基準にする

断捨離をするときに、私なりの基準を設けた。 

「きゅん」

「これがあることで、わたしは家にいる時に幸せを感じられるだろうか?ときめくだろうか?」という

肌感覚

である。

理屈で考えると「いつか使うから」と思う。

かといってその手前の認知処理段階である感情で考えても結局、情に流される。

そのため、理屈や感情が起こるもっともっと手前で判断を下さないと、何も進んでいかない。


結局、仕方なく(?)肌感覚というインスピレーションに頼ることになってしまった。


具体的な手順 ―わける

捨てる、捨てないで分けると、名残惜しくて手放せないから、

「きゅん」と、「きゅんほどではない」に、

つまり、絶対残すものと、保留に一旦分ける。

(保留としたもので、ないと生活に困るものは、さすがにときめかなくても昇格させて残す。生きるためです。何のための断捨離か忘れてはなりません)


具体的な手順 ―さらにわける

実はここからがなかなかの道のりで、保留としたものをどうするのか、という肝心の問題が結局のところ残ってしまうので、

保留としたものを、売るのか、誰かに譲るのか、捨てるのか、どのように手放すかについては、さすがに理性で判断していく。


(既にミニマリストとしてすっきりした生活を送れている人からしたら、この手順の非効率さ、じりじりとした感じに耐えられないと思う…!

これはミニマリズムのバイブルではなく、所謂そして所詮、汚部屋からの脱却ルポなのだと諦め、寛容に見ていただきたい)

売る

「現金な奴」なので、やはり少しでもお金になればうれしいし、メルカリなどの活用は自分にとっては欠かせない。ひとまず迷いつつも写真にとって出品リストにアップし、手は動かし続ける。今のところ、本が4冊売れた。

譲る

メルカリで売って、見ず知らずの人にお迎えしてもらうこともいいが、もっと身近に欲しいと思っている人がいれば、その人に価値を提供することが自分なりのその人への恩返しになるかもしれないし、生の声で感謝の言葉をもらえるのは純粋にうれしい。その場合は譲るという選択をする。

捨てる

手に取って一瞬で「ああ、もうこの子は十分頑張ったよ」と思うようなものもある。ありがとうと言ったら、次の瞬間にはごみ袋に一思いに入れる。

例えば、何周も読み込んで夜遅くまで勉強して、ブラックコーヒーがちょっと零れてしまったような参考書。その最たるものだ。

誰もコーヒーのついた古本は買ってくれないし、後輩に譲るにしてもさすがに恥ずかしい。もう資格は合格して取ってしまって内容は頭に入っている。復習することがあったとしてもこの分野の本は一番詳しく網羅している1冊だけ手元にあれば、まず仕事には困らない。

捨ててもう手元にはないが、正直名残惜しくはある。でも、さよならではなく、ありがとうと言って手放したことを思い出せば、少し心も軽くなる。


モノが(少し)減った我が家

物を減らすと意外なことに気づく。

声が反響する。歌うと気持ちがいい。

広くて恵まれた間取り。自由度も増し、場所がないからとあきらめていたことも挑戦できそう。

そして、自分の手で自分の生活を改善しているという、「自分の人生 自分のもの感」。

精神的に豊かな生活を自分に保証するということは、自分はその生活の質に似つかわしい、生きる価値のある人間なのだと、自分自身を赦すことだ。


やったことは、モノを減らしたこと、たったそれだけ。


今後ますます晴れやかに軽やかになっていく我が家、温かく見守っていてください。

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