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最果タヒの「六等星」を考察する

先日、といってもこれを書き上げるのが遅すぎてだいぶ前になってしまったけれどとにかく先日、大阪・心斎橋PARCOで開催されていた、最果タヒ展に行った。

最果タヒさんと言えば、Little Glee Monsterの『夏になって歌え』の作詞を手掛けられた方ということは知っていて、そこから名前を見かけると何となく気になって、1冊2冊ほど詩集を手にとって読んだことはあるが、完全に「にわか」だった。

(『夜景座生まれ』は、鮮やかで暗く、わからなく、好きだった)


絵画や彫刻などの展覧会はなじみがあるが、詩の展示というのは、東京のあいだみつを美術館ぐらいでしか、足を運んだ経験がなかった。

実際、ブースの中は現代アートと最果タヒさんの詩の融合で、独特な雰囲気が全体に漂っていた。正直、私がすべての展示された詩を「正しく理解」で来たとは到底思えない。一文字一文字読み、追いながら、考え、解釈し、「自分の解釈、考察は浅はかな読み方ではないか」などと頭を抱えながら、最終的にその「わからなさ」自体、いや、”この「わからなさ」に対して思いを巡らせる営み”込みで詩なのだと感じたのだった。

ところで、展覧会の半券にも、ポスターにも、つづられた一編の詩。

われわれはこの距離を守るべく生まれた、夜のために在る6等星なのです。


この一編は、読みかえすほどに考えさせられる。

詩を考察する、と言うのも邪道でしかないが、自分がこれを読んで思うとりとめもないことを、これから書いていこうと思う。


距離を”守る”とは

一番引っかかるのは、「距離を守る」という部分である。

今コロナ禍で言われているソーシャルディスタンスのような意味の、距離を「保つ」ではなく、ここでは「守る」なのである。

おそらく、ここでの「距離を守る」の対義語は、「触れる」ではなく、「距離(という概念)が守り切れずなくなる」ではないか。

しかし、距離は物体ではない。しかし、距離というものは概念として確かに存在しているものではある。

何が距離を”距離たらしめる”のか

ところで、私たちが「距離がある」としたときに、物質でない、距離という概念は、何をもって「ある」と言えるのか?

例えば、家から学校まで、一定の距離がある。

距離の概念そのものは、家と学校の間にあるように思える。しかし実際に家と学校の間には、通行人だったり公園だったり空気だったりがあるだけだ。

また、そこに距離そのものがあるとするなら、家と学校が仮に爆破されてなくなったとして(学生の時誰もがいちどは思うやつです)、そこに「距離は存在し続けることができるだろうか」。


空間が何一つ変わっていなかったとしても、そこに「距離はなくなってしまう」。概念と言うのは結局意味付けなのだから。

この例で言えば、距離を距離たらしめるのは、そこの空間に何が含まれていようが、何があろうがなかろうが、「家と学校」である。


もし夜に距離がなかったら?

上の話で言えば、距離を距離たらしめるのは、そこに存在するものだ。

夜が存在できるのは、そこに物があるからだろう。

例えば月。例えば星。例えばアンドロメダ、エトセトラ。

もしこの空間を定義するあらゆるものがなかったら

夜とは何だろう?

空間? 宇宙には空気すらないのに

暗闇? 光と言うものがあってもなくても「光がない」「暗闇がある」どちらも、これらの存在ありきだ。

夜は夜だけでは夜でいられないのだ。


私たちは、六等星

私たちが、夜を夜たらしめる星に重ねられているのは、なんとも

誇らしいような、安心するような、不思議な感覚になる。


全ての人のまなざしが消えた世界を、誰が世界と認識するのだろう。

死んで無くなっても世界は続くだろうが、続いている世界はどう認識され、存在するのだろうか。

私は何もできなくても、六等星の輝きで

誰から褒められるような存在でなくても、

ただまなざしを世界に送り、そこに存在するあらゆる空間、あらゆるものを認識し、意味付けし

「距離を守り」「空間を守り」、そうやって

世界を守っているのかもしれない。


そう思うと、平凡すぎてどうしようもないこの人生も

ひとまず生きているだけで壮大な役目を果たしているのだから、と

すこしありのままに生きられやしないか。


私たちが見ているもの、在る姿が、世界を作っている。



余談だけれど、まなざしの話

本来ここで文章を終えるところだったが、余談。

ここからの話は、本題を書き上げるまでに時間がかかりすぎて、その期間の間に考えることがあり頭の中で考えていたこと。あえて書き足そうと思う。


上に、

ただまなざしを世界に送り、そこに存在するあらゆる空間、あらゆるものを認識し、意味付けし

と書いた。

どうやってもまなざしを注いでもらえない、認識されないものは

何物とも定義されない。

夜があってもなくても、何も夜の中に存在せず、夜を認識しなければ、

守られず、無となるように。


人生は何だってある宝箱 兼 パンドラの箱だ。

まなざしを向けられず、あるはずなのに、概念すらないものが

この世界にはたくさんある。

そして、そこに光を当てること、誰かが気づくこと、まなざしを向けることで

無かったものは、あるものになっていく。

例えば貧困、LGBTs、国籍、環境、肚の底の探り合い、自分の内面、精神


色々な考え方があるけれど、蓋をするのではなく、

まずまなざしを向けて、あるのにないと思い込んでいたことに

気づくことから始めないか。


そして何となく、これからの世の中は、

いろんなことに光が当たりまなざしが当たり、膿が出され、

色々なものをそれぞれの人がそれぞれのタイミングで気づき学び取り、

問題を「あるもの」として、真摯に受け止めて、解決に向かっていく

そんなムーブメントが一層加速していく予感がしている。


現に、すでにSNSやメディアでもそんなトピックは増え始めているし、

増えなくてはならない。


むしろ、人生何周目ではないけれど、地球が太陽の周りを何周目で、

まだ同じ次元?と言うことでは情けないではないか。


ひとまず六等星として、精いっぱい世の中に身を置き、

しっかり、見ることから。


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