【つの版】邪馬台国への旅01
ドーモ、三宅つのです。歴史好きの多分に漏れず、つのも邪馬台国や卑弥呼についてはいろいろ調べたことがあります。ここではそれについて書き連ねて行こうと思います。全くつのの道楽趣味であり、学術論文でも何でもありません。Wikipediaをはじめとしてインターネット上にはその手の素人記事がやたら転がっています。これはそのひとつになるでしょう。
なお、ある程度の基礎知識があることを前提とする記事であるため、全くわからない方は下の記事にざっと目を通しておいて下さい。あまりにぐだぐだしていますが、実際こんな感じであることは伝わります。詳しく知りたい人は自分で図書館へ行ってちゃんとした学術書を読んで下さい。
◆蒼◆
◆天◆
序
結論から言えば、つのは邪馬台国(邪馬臺國、ヤマト)の中心地は奈良盆地に存在したと考えます。考古学的証拠も揃って来ていますし、九州から奈良になんらかの勢力が「東征」ないし「東遷」したような証拠もありません。強いて言えば倭人諸国を代表する権威と権力が、2世紀末から3世紀初めにかけて、北部九州から邪馬台国に遷ったとは言えます(人間も多少は動いたでしょう)。倭人諸国連合の盟主が「倭王」「倭国王」です。卑弥呼は「邪馬台国の」女王でもあったでしょうが、同時に「倭の」女王でした。
前方後円墳が奈良盆地を起源とし、北部九州を含む全国各地に広まっていく事実や、魏紀年銘鏡の分布、土器の編年、その後の歴史から鑑みて、邪馬台国を中心とする倭王の政治勢力が、そのまま大きく断絶せずにヤマト王権となり、古墳時代に日本列島の広範囲を統治した倭国を形成していったと見てよいでしょう。すなわち卑弥呼の共立、邪馬台国を中心とする倭人諸国連合の形成こそは、現代まで続く日本国家の原型を形作る重要な契機です。ここで右翼とか左翼とか言い出さないで下さい。つのはノンポリです。
中国側の史書には多くの問題点がありますし、『日本書紀』は倭国改め日本国の独立と正統性を主張するため中国に対抗して作成された史書であって、卑弥呼も倭の五王の朝貢も意図的に無視しています。考古学の成果を含めて材料を元に推論を積み重ね、慎重に過去の事実を解明していくのが学問というものです。しかし人生は短く、不毛な議論や車輪の再発明をしていてはきりがありませんので、つのの個人的考察をアーカイブしておきます。
あくまで「ドシロウトが推測した」だけですので、完全な断定はしません。違っていても一切責任は持てません。あなたが九州説や東遷説、パプアニューギニア説やムー大陸説などを熱狂的に信仰していても押し付けることはしません。コメントに反論を綴ったりDMを送りつけたりしないで下さい。つのはこれをここに置いておくだけです。あなたの頭で考えて下さい。あなたの上司や同僚、家族と論争して疎遠になっても、つのは知りません。
覚悟はいいですか? では、ひとつひとつ噛み砕いて行きましょう。
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魏志倭人伝
蜀漢で生まれ晋に仕えた陳寿(233-297頃)による歴史書『三国志』のうち、魏志の烏丸鮮卑東夷伝の東夷伝の倭人の条を日本ではこう呼びます。東夷伝には夫余、高句麗、沃沮、(嶺東の)濊、韓(馬韓・辰韓・弁韓)、そして倭人が含まれます。後漢書東夷伝、魏略逸文や晋書・梁書・隋書なども参考にしますが、ほぼ同時代の記録としてこれが基礎テキストとなります。それぞれがどういうテキストかは各自でお調べ下さい。
陳寿の書いた原本は見つかっておらず、筆写や印刷によって千年以上も流通したため、当然いろいろな異本や誤記があります。版本によっても違いがあり、邪馬臺國ではなく邪馬壹國(邪馬壱・邪馬一)、臺與でなく壹與だとする説も一時流行しましたが、後漢書や梁書、隋書にみな「臺」とあるので、壹は臺の誤字に過ぎません。宋代の刊本で誤字が生じたらしく、これを引用した史料は皆同じ間違いを犯しています。詳しくは下記をご覧下さい。今日びヤマイチ国とかヤメイ国とか言ってるのは九州説信者の中でも筋金入りのヤバイ人なので、近寄らない方がいいでしょう。
記事タイトルは視認性の観点から邪馬台国としますが、マスメディア風に略字で書くのは惰弱なため、記事文中では邪馬臺國と書きます。同様に卑弥呼でなく卑彌呼、台与ではなく臺與とします。壹與を壱与などと表記するのも近代の略字です。めんどいのでその他は概ね普通に書きます。壹に豆が入っているからってトウと読むとかいう憶測はやめておきましょう。
史料の原記録者は当然魏晋代の漢字音で倭語の発音を聞き取りしたため、現代日本語の漢字音(呉音や漢音)で読むのも問題です。魏晋代は秦漢代の上古音から唐代の中古音に変わりゆく時期ですが、本格的に中古音になるのは胡族が華北に流入した4世紀以後のことです。記録者は地理的に燕(幽州、北京から遼寧)の方言を用いていた可能性が高そうですね。現代の中国語や現代韓国の漢字音で読んでも無意味です。ヤマタイコクなどと読み始めたのは、九州説の言い出しっぺになった新井白石です。
ここまではいいでしょうか。では、そろそろ本文に入りましょう。
帶方郡
倭人在帶方東南大海之中、依山島爲國邑。舊百餘國、漢時有朝見者。今使譯所通三十國。
倭人は帯方郡から見て東南の大海の中に住んでおり、山島に依って国邑を為している。古くは百余国あり、漢の時に朝廷に詣で天子に拝謁する者があった。今(魏)、使者と通訳を通じて接触があるのは三十国である。
出発地点は帯方郡です。これは後漢末の建安年間(西暦196年から220年)、遼東太守の公孫康が楽浪郡の南部7県を割いて設置したもので、前漢の武帝が置いた真番郡の北部にあたります。所在地は諸説ありますが、郡の政庁が置かれていた帯方県は現在のソウル南部とする説が有力です。百済の最初の都である河南慰礼城(漢城)はここに置かれました。これは高句麗が4世紀に帯方郡を占領した時に置いた駐留軍が、本国が滅びかけた時に反乱を起こして建国したためです。漢江南岸には百済の土城遺跡や古墳があります。
「舊百餘國、漢時有朝見者」というのは、『漢書』地理志下の燕地条に「樂浪海中有倭人、分爲百餘國、以歳時來獻見云」とあるのを言います。実際に糸島や出雲からは楽浪郡のものという硯が発見されていますし、漢代の貨幣や銅鏡なども広く見つかっています。弥生時代後期、日本列島には既に多くの倭人の国が存在し、交易したり争ったりしていたのです。西暦57年、後漢の光武帝はそのひとつに金印を授け、半世紀後の安帝の時(107年)には倭国王帥升が朝貢しました。「今使譯所通三十國」というのは、これから見ていく邪馬臺國などです。
狗邪韓國
從郡至倭、循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里。
帯方郡から倭に至るには、海岸にしたがって水行し、韓国を経て、南したり東したりし、その北岸の狗邪韓国に到着する。七千余里である。
狗邪韓国は洛東江下流に存在した弁韓(弁辰)十二国のひとつで、のちに加羅とか金官国と呼ばれる小国です。現在の慶尚南道金海市です。倭人も当然いたでしょうが、韓の一国であり、倭人諸国のうちには含まれません。倭人はしばしばこの地に渡って交易し、鉄などを輸入していました。
里数について
さて、1里は何メートルでしょうか。秦漢魏晋では1里=300歩、1歩=6尺です。1尺は魏晋の頃に24.1cmほどで、1里は約434mとなります。これは『三国志』本文の里数に当てて地図に落とし込んでも納得の行く数値です。
しかし、ソウルから金海市まで7000里(3038km)もかかるでしょうか?試みにGoogle Mapsでソウルから真南に4000里(1736km)南下し、東に3000里(1302km)進むと、宮古島の200km南東から曲がって小笠原島の南西300kmぐらいの海上になります。東夷伝韓条に韓は方4000里(1辺4000里の方形)とありますから、日本列島の新潟以南をすっぽり覆い、沖縄や小笠原諸島を含む広大な海域になります。明らかに尋常ではありません。
これはこの地域の里が短かったというわけではなく、里数が単純に誇張されていると考えられます。夫余や高句麗などもそうですが、東夷伝における里数は漢魏の置いた郡の境域外にあってはどれも誇大で、地図に落とし込んでみると約5倍に誇張されています。これは重要なので覚えておいて下さい。
史書には嘘や誇張、誤解や誤伝が当然あります。もし中国の里の数分の一しかない「短里」が東夷に存在したとすれば、記録者によって特筆されない理由がありません。魏晋の一時期だけ存在したとも、遼東公孫氏が使っていたとも、史書のどこをどうひっくり返しても出てきません。また5倍どころではない数字や誇張されていないであろう数字も出てきます。数字や方角にこだわりすぎるとメキシコで死にます。くれぐれも気をつけて下さい。
すなわち7000里は1400里(607.6km)です。韓は方4000里と記されますが方800里(347.2km)となり、帯方郡から南に800里、東に600里(260.4km)進めば狗邪韓国です。すなわちソウル(帯方郡治帯方県)から漢江(帯水)を西に下って江華島に出、黄海を半島の西岸沿いに南下し、珍島から東へ進めば金海市に着きます。内陸を進まないのは、馬韓諸国が魏に反乱を起こしたりして危険なためもありました。
Google Mapsでは、朝鮮半島の地名はなぜかハングルとラテン文字でしか表示されません。理由はお察しください。内陸を行く場合は南漢江を遡り、忠州を経て鳥嶺で小白山脈を越えて聞慶に出、洛東江を下って金海に向かいます。このルートにはかつて真番郡の県城が並んでおり、弁韓では残された入植者の子孫によって中国語が話されていました。
ただし、実数とはいえこの数字はだいたいの数かつ、机上での計算に過ぎません。朝鮮半島の西岸・南岸は瀬戸内海のような多島海になっており、潮流は複雑で風向きも変わり、地図に定規を当てたようにまっすぐ南下や東行するわけにはいきません。当時のチャイナの船には既に帆がありましたが、基本は手漕ぎです。風と潮流を利用しても、1日に海上を進めるのは数十kmが限度です。帯方郡から狗邪韓国まで半月ぐらいはかかったでしょう。季節的には南風が強い頃を避け、海が荒れ過ぎない頃に南下したいところです。
◆船◆
◆鮫◆
きりが良いので今回はここまでです。次はTSUSHIMAに渡ります。
【続く】
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