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【つの版】ユダヤの秘密02・大食抗争

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

7世紀中頃、イスラム帝国の勢力はカフカースに到達しますが、その北にはハザールという部族連合がありました。ハザールはイスラムの侵入と戦いつつ、ブルガールを破って黒海北岸を手中に収め、東ローマ帝国にも介入する大国となります。対するウマイヤ朝は財政危機に悩まされていました。

◆ウマ◆

◆イヤ◆

南北抗争

720年にウマル2世が崩御し、アブドゥルマリクの子ヤズィード2世が即位すると、ホラーサーン総督イブン・ムハッラブが反乱を起こします。彼はクーファへ進軍しイラクをも制圧せんとしますが、ヤズィードの派遣した軍勢に敗れ、反乱は鎮圧されました。しかし税収は減少し続け、税率を上げれば反乱が起き、鎮圧するための軍事費がかさむ、という悪循環に陥ります。

この混乱に乗じて、721年冬から722年にかけてハザールがアルメニアに侵入し、アルメニア総督の軍勢を撃破します。将軍アル=ジャッラーフは迎撃してデルベントに到り、ハザール領内に侵攻して首都バランジャルを襲撃し、莫大な戦利品を獲得します。しかしハザールの主力はサマンダルに撤退し、カフカースの山岳民族を煽動して背後を脅かしたので、アラブ軍は深入りを避けて撤退しました。723年から724年にかけて、アル=ジャッラーフはハザール軍を打ち破りつつティフリス(トビリシ)やアラニアを服属させ、トビリシの北のダリアル峠を確保しました。

724年にヤズィード2世が病没すると、弟ヒシャームが跡を継ぎます。彼は各地の反乱を鎮圧し、自らの兄弟マスラマをアル=ジャッラーフの後任としてアルメニア総督としますが、マスラマはしばらくジャズィーラ(北メソポタミア)にとどまり、部下のアル=ハーリスをハザール戦線に送ります。

726年、ハザール軍が大規模な反撃に出ると、マスラマも戦線に出て迎え撃ちます。しかし冬の寒さや長雨で戦況ははかばかしくなく、728年までにハザール軍はカフカース以北を回復します。マスラマは更迭されてアル=ジャッラーフが再任し、729年から730年にかけてトビリシ経由で北上しました。しかしハザール軍はアラブ軍を避けてカフカースの南へ侵攻し、アルダビールを包囲します。ここはアゼルバイジャン地方の首邑でした。

ややこしいですが、現アゼルバイジャン共和国は古来アルバニアと呼ばれており(バルカン半島のアルバニアとは無関係)、その南の現イラン領アーザルバーイジャーンが本来のアゼルバイジャン(アトロパテネ)です。

仰天したアル=ジャッラーフは即座に転進し、アルダビール救援に向かいましたが、王子バルジク率いるハザール軍に全滅させられ戦死します。アルダビールや周辺地域は略奪され、一部のハザール兵はヴァン湖のほとりやイラク北部のモスルにまで達し、デルベントもハザールの手に落ちました。

ウマイヤ朝の将軍サイードは必死に反撃してハザール軍を追い払い、領地や捕虜を奪還しました。731年からはマスラマ率いるアラブ軍が本格的な反撃に出ます。彼はまずアルバニアを制圧し、デルベントを迂回して北側の各地を攻撃しました。ハザールのビハール・カガンとバルジクがこれを討つべく進んで来ると、マスラマは迎撃し、精鋭部隊がカガンの天幕を襲撃してバルジクを討ち取ります。カガンの軍勢を撃退すると、水源に毒を流してデルベントのハザール軍を追い出し、奪還します。マスラマは各地の要塞にアラブ軍を駐屯させ、防衛体制を整えて凱旋しました。

732年3月、カリフ・ヒシャームはマスラマを更迭し、従兄弟のマルワーン2世を後任とします(アブドゥルマリクの兄弟ムハンマドの子)。マルワーンはデルベントを拠点として防衛体制を確立し、バグラティオン家のアショト3世をアルメニアの君主に任命し、軍事力の提供を引き換えに自治を認めます。連年の戦乱によってカフカースの南北は疲弊しており、マルワーンも後任のサイードも数年間は目立った軍事行動を起こしませんでした。

この頃、ウマイヤ朝を共通の敵とする東ローマとハザールの間に同盟が成立しました。ビハール・カガンの娘チチャク(テュルク語で「花」の意)はキリスト教に改宗してエイレーネー(平和)と改名し、皇帝レオーン3世の息子コンスタンティノス5世に嫁ぎます。彼女は750年頃に跡継ぎとなるレオーン4世を生み、彼はハザロス(ハザール人)と呼ばれました。

735年、ヒシャームはアルメニア・アルバニア総督にマルワーンを再任しました。マルワーンはハザールと和平条約を結んで地盤を固めると、737年に和平を破ってハザールへ侵攻します。アルメニアなど周辺諸国の援軍を合わせた軍勢は、デルベントやトビリシを各々進発してカスピ海沿いに北上し、イティル(ヴォルガ)川の河口部まで到達しました。

ヴォルガ(Volga)とはスラヴ諸語で「湿気」を意味し、イラン系スキタイ語のラ(Ra「湿気、流れ」)を意訳したものです。テュルク諸語ではこの川をイティル(Itil「大きな」)と呼びました。遥か内陸の森林地帯からカスピ海へ流れ下るこの大河は、交通の大動脈として極めて重要です。

ハザール軍を打ち破ったマルワーンは、ビハール・カガンに「クルアーンか剣か、貢納か」を迫ります。マルワーンとしては貢納が望ましいのですが、ビハールは「クルアーンを」と答え、イスラム教徒(ムスリム)になると申し出ます。異教徒であれば聖戦の対象になるため、いっそ改宗すれば無益な戦いを挑まれず、交易もスムーズに行くわけです。

やむなくマルワーンは彼の改宗を認め、ビハールはウマイヤ朝カリフの宗主権を認めて、カフカース以南への侵略を行わないと約束しました。ここにアラブ・ハザール戦争は終結したのです。ビハール・カガンはヴォルガ川の河口付近に新たな首都を置いてイティルと名付け、交易の拠点としました。

阿抜革命

ハザールを服属させたとはいえ、ウマイヤ朝の財政問題や格差問題は解決しませんでした。各地では反乱が頻発し、これに乗じてウマイヤ家の支配を覆そうとするアリー派(シーア派)の動きがまたも活発になります。

740年、ザイド・イブン・アリーがクーファで蜂起します。彼はカリフ・アリーの曾孫、フサインの孫で、父は曽祖父と同じくアリーといいます。このアリーはカルバラーの戦いに加わらなかったので生き延び、714年に逝去するまでマディーナで静かに暮らしました。伝説ではサーサーン朝ペルシアの皇女がその母であるとされ、後世にシーア派からザイヌルアービディーン(崇拝者の宝石)の称号を奉られています。

ザイドは兄弟ムハンマド(アル=バーキル)とアリー家・シーア派の指導者(イマーム)の位を争い、クーファの支持者の声を受けて武装蜂起しましたが、事前に情報を察知したウマイヤ朝のイラク総督により数日で鎮圧されてしまいます。ザイドは捕縛・処刑され、マディーナにとどまったバーキルは難を逃れますが、ザイドの残党はザイド派を形成しました。

743年にヒシャームが崩御すると子のワリード2世が即位しますが、ワリード1世の子ヤズィード3世が反乱を起こして殺害し、カリフ位を簒奪しました。同じ名前が多くてややこしいですが、覚えなくていいです。アルメニア総督マルワーン、ホラーサーン総督ナスルらはヤズィード3世の即位を認めず、ヤズィードは即位から半年で病死します。弟イブラーヒームも反乱により半年で退位させられ、744年にマルワーンが擁立されて即位しました。

すでに60歳近く、実績も充分でしたが、ウマイヤ朝は反乱が頻発して末期状態でした。マルワーンは首都をダマスカスからハッラーンに遷しますが、これを拒んだシリアの民が反乱を起こし、ヒジャーズやメソポタミアではハワーリジュ派が武装蜂起し、さらに東ローマがアナトリア東部に侵攻します。マルワーンは各地を転戦して反乱軍や外敵に勝利し、748年までにシリア・エジプト・メソポタミア(ジャズィーラとイラク)及びアラビアを確保しますが、東のイランからアッバース家が率いる反乱軍が迫っていました。

アッバース家は、預言者ムハンマドの叔父アッバースを祖とするクライシュ族ハーシム家の一門です。血縁関係ではウマイヤ家よりムハンマドやアリーに近く、名門として敬意を払われていました。アッバースの曾孫ムハンマドは、反ウマイヤ家運動を密かに推し進め、死海南部の村フマイマに隠れて各地に秘密宣伝者(ダーイー、工作員)を派遣しました。743年にムハンマドが逝去すると、その子イブラーヒームが跡を引き継ぎます。

イブラーヒームも各地に工作員を派遣して同調者を募りましたが、ホラーサーン(イラン東部)へ向かったアブー・ムスリムは特に多くの同調者を集めました。安い俸給で辺境での兵役を強いられていたアラブ系の兵士や、隠れ潜んでいたシーア派の人々、差別と重税にあえぐペルシア人らが続々と彼のもとに集ったのです。

748年2月に彼らは武装蜂起し、メルブ、ニーシャープールなどホラーサーンの主要都市を制圧しました。革命軍は雪玉式に膨れ上がり、同年9月にはクーファに入城します。しかしイブラーヒームはこの頃ウマイヤ朝にアジトを襲われて獄死し、弟のアブドゥッラー(アブー・アル=アッバース)らはクーファへ逃れ、革命軍からカリフに推戴されました。

彼は革命軍に対して「私は惜しみなく財を与える者(サッファーフ)である」と告げ、これが彼の称号(ラカブ)となります。

マルワーンは兵を率いてイラクを攻め、750年にサッファーフの叔父アブドゥッラーと戦いますが敗北を喫し、辛うじてシリアへ敗走します。これによってシリアの住民は一挙にアッバース家側になびき、マルワーンはパレスチナを経てエジプトへ逃走しますが、ついに追い詰められて殺されました。彼の首級とカリフの記章はサッファーフのもとへ送られ、ウマイヤ朝は滅んでアッバース朝が始まったのです。

ダマスカスにいたウマイヤ家の人々はほとんど皆殺しにされますが、ヒシャームの孫アブドゥッラフマーンは命からがらシリアを脱出し、母方のベルベル人を頼ってモロッコまで亡命します。そしてアンダルス(イベリア)を征服してコルドバでアミール(首長)と号し、ウマイヤ朝の命脈を保ちました。これがアンダルスのウマイヤ朝(後ウマイヤ朝)です。

黒衣大食

ウマイヤ朝とアッバース革命については、チャイナの史書『旧唐書』西戎伝大食国条にも記述があります。

龍朔初年(661年)、大食は波斯と拂菻を撃破し、始めて米面(米麺、穀物やパン)を持つようになった。また将兵は南に婆羅門(インド)を侵略し、諸胡国を併呑し、勝兵は40余万に及んだ。武則天の長安年間(701-704)、使者を遣わし良馬を献じた。景雲2年(711年)にも方物を献じた。
玄宗の開元初年(713年)に遣使来朝し、馬と宝石細工の帯などを献じた。その使者は謁見する時に立ったままで拝礼せず、役人がこれを叱責したが、中書令の張説は「大食の習俗は独特です。義を慕って遠くから来たのですから、罪となさいませぬよう」と上奏したので、天子は特にこれを許した。
のちまた朝貢した時、なぜ拝礼しないか尋ねると、「我が国では天神(アッラーフ)のみを拝み、王に謁見しても拝礼いたしませぬ」と答えたが、役人がしばしば叱責したので、使者はついに漢(唐)の法に従って拝礼した。この時、大食は西域の康国(サマルカンド)や石国(タシュケント)などを臣属させており、境は東西1万里、東は突騎施(トゥルギシュ)と接していた(そのような大国の使者も唐は平伏させたのである)。
また云うには、隋の開皇年間(581-600)、大食族の中の孤列種(クライシュ族)が代わって酋長となった。その中にふたつの姓があり、ひとつを盆泥奚深(バヌー・ハーシム、ハーシム家)、ひとつを盆泥末換(バヌー・マルワーン、マルワーン家/ウマイヤ家)と言った。奚深(ハーシム)の子孫に摩訶末(ムハンマド、マホメット)がおり、勇敢で智慧多く、人々は彼を立てて君主とした。東西に征伐して領地を開くこと三千里、云々。
摩訶末(実際はムアーウィヤ)から十四代を経て末換(マルワーン2世)に至った。彼は兄の伊疾(ヤズィード3世と2世を混同)を殺して自立し、また残忍で、下々はこれを怨んだ。呼羅珊(ホラーサーン)の木鹿(メルブ)の人である並波悉林(アブー・ムスリム)は義兵を挙げ、これに呼応する者はみな黒衣をつけ、旬月の間に衆は数万に満ちた。鼓を鳴らして西へ行き、末換を生け捕りにして殺した。ついに奚深種(ハーシム家)の阿蒲羅拔(アブー・アル=アッバース、サッファーフ)を求め得て、これを王に立てた。末換以前を「白衣大食」といい、阿蒲羅拔以後は改めて「黒衣大食」という。

ウマイヤ家の旗印は無地の白旗、アッバース家の旗印は無地の黒旗だったといいますから、おおむね正確です。

なお革命からまもない751年には、アブー・ムスリムがマーワラーアンナフル(ソグディアナ)制圧のため派遣した軍が唐の軍とタラス河畔で衝突し、勝利を収めました。唐側の援軍のカルルク族が寝返ったのが勝利の決め手ですが、これによりマーワラーアンナフルはイスラム帝国の版図となります。なお製紙法がチャイナからイスラム世界に伝わったのはこの時ともいいますが、中央アジアがイスラム領化したことの方が重要でしょう。ただソグド人やウイグル人はその後もゾロアスター教やマニ教、仏教等を信じています。

この時のアリー家の長はバーキルの子ジャアファルですが、彼はどの勢力にも属さず中立を保ち、学者として静かに暮らしたため、誰も手出しできませんでした。アリー家の者をカリフとすべしと進言したアブー・サラマは暗殺され、アッバース家の人間が各地の総督に任命されます。アブー・ムスリムはそのままホラーサーン総督とされました。クーファはシーア派の勢力が強すぎ、ウマイヤ家と同じシリアに都を置くのも問題なので、サッファーフはクーファの北のアンバール近郊に新たな都市を建設して首都としました。

このような混乱に乗じて、ハザールは勢力を回復します。そして後世の文献によれば、この頃ハザールの君主がユダヤ教に改宗したとされます。

◆馬鹿◆

◆生残◆

【続く】

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