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【つの版】倭国から日本へ15・遣隋使

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

『日本書紀』推古紀によると推古15年(607年)7月、小野妹子を大使とする使者が「大唐(隋)」へ派遣されました。これが日本書紀に記録される最初の遣隋使となります。その様子はどう記されているのでしょうか。

◆女◆

◆王◆

日本書紀巻第廿二 豐御食炊屋姬天皇 推古天皇
http://www.seisaku.bz/nihonshoki/shoki_22.html

小野妹子

小野妹子(おのの・いもこ)は誰かの妹ではなく男性で、冠位十二階のうち大禮(第五位)の冠位にありました。小野氏は孝昭天皇の末裔とされる和邇氏の分族で、近江国滋賀郡小野村・山城国愛宕郡小野郷を本拠地とする地方豪族です。同祖の春日氏の女性が敏達天皇の夫人となって春日皇子らを産んでおり、妹子も彼女の兄弟か同族ではないかとも言われますが定かでありません。子孫は平安時代まで繁栄し、小野篁小野道風らを輩出しました。

『隋書』にある開皇20年(西暦600年)の倭使も彼だったかどうかはわかりません。確かなのは『日本書紀』に「推古15年(607年)7月に大唐(隋)へ派遣され、翌年(608年)4月に使者を連れて帰国した。同年に使者を送って再び派遣され、翌年(609年)に帰国した」とあることです。つまり彼は、倭国と隋を何度か往復しています。どのようなルートをとったでしょうか。

(推古)十五年…秋七月戊申朔庚戌、大禮小野臣妹子遣於大唐、以鞍作福利爲通事。十六年夏四月、小野臣妹子至自大唐。

倭国の都から山東半島の東端の成山角まで水陸3000里(1600km)、河内までは陸路で1日程度ですからほぼ海路として、1日平均50kmで進めば32日。そこから西へ進み、洛陽を経て隋の都・大興城(長安、陝西省西安市)まで1480km。1日30kmとして50日かかり、片道で水陸3080km、82日(2ヶ月と22日)かかります。7月1日(新暦8月)にヤマトを出て瀬戸内海を進み、8月に南風に乗って百済へ出発しても、隋都到着は9月となります。

ただ煬帝紀によると、この頃(大業3年9月以後)煬帝は洛陽を東都(東京)として滞在していたため、小野妹子と煬帝が会ったのは洛陽のようです。とすると倭使が魏晋の都へ訪れたのと同じルートで、成山角から1074km、1日30kmとして36日ほどで済みます。片道水陸2674km、2ヶ月あまりです。

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大業4年(608年)3月壬戌に「百濟、倭、赤土、迦羅舍國並遣使貢方物」とありますから、洛陽で年越しして煬帝に謁見し、「日出處天子」云々の国書を献じます。叱責を受けたものの返答使をつけられ、山東半島から百済を経て、4月(おそらく末頃)に筑紫(竹斯)へ帰って来ます。

唐國號妹子臣曰「蘇因高」。

小野妹子は唐(隋)では「蘇因高(そ・いんこう)」とチャイナ名っぽく呼ばれていたようです。小野の野を省き、小を音読みし(中古音:siᴇuX)て蘇(suo)とし、妹子(いもこ)に音をはめて因高(ʔiɪn kɑu)としたわけですね。隋書に記述されていないので日本書紀編纂時の造作かも知れませんが。「我氏にんで位となる」みたいな含意もあるかも知れません。

隋使到来

卽大唐使人裴世淸・下客十二人、從妹子臣至於筑紫。遣難波吉士雄成、召大唐客裴世淸等。爲唐客更造新館於難波高麗館之上。六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津、是日以飾船卅艘迎客等于江口、安置新館。於是、以中臣宮地連烏磨呂・大河內直糠手・船史王平、爲掌客。

到着の報告を受けると、迎えの使者として難波吉士雄成が筑紫へ派遣され、また難波の高麗館(こまのむろつみ、高句麗使の迎賓館)の近くに隋使を迎える館が築造されます。これらの館は大阪市中央区の天満橋と天神橋の間、あるいは高麗橋の付近にあり、大坂城のすぐ北西です。歴史的にはこうした迎賓館を「鴻臚館(こうろかん)」と呼びます。妹子と裴世清は1ヶ月あまりかけて瀬戸内海を東へ進み、6月に難波津に到着しました。

6月15日、隋使が難波津に入ります。倭国は飾り立てた船30隻をもって江口(中之島)で迎え、新築の迎賓館に入らせ、中臣宮地連烏摩呂、大河内直糠手、船史王平を接待係としました。隋書に「倭王遣小德阿輩臺、從數百人、設儀仗、鳴鼓角來迎」とあるのはこれです。阿輩臺(北史では「何輩臺」)はこのうち大河内直糠手(おほしかはちのあたひ・あらて)でしょう。冠位十二階では第二位の「小徳」です。時に、ここでトラブルが発生します。

爰妹子臣奏之曰「臣參還之時、唐帝以書授臣。然經過百濟國之日、百濟人探以掠取。是以不得上。」於是、群臣議之曰「夫使人、雖死之不失旨。是使矣、何怠之失大國之書哉。」則坐流刑。時天皇勅之曰「妹子、雖有失書之罪、輙不可罪。其大國客等聞之、亦不良。」乃赦之不坐也。

妹子が「私は唐(隋)帝の書を授かりましたが、百済国を通る時百済人に掠め取られ、上奏することができません」というのです。なんということでしょう。群臣は会議して「大国の書を失うとはなんたる怠慢。流刑にすべき」と言いましたが、天皇は「罪はあるが、安易に処罰すべきではない。大国の客にも聞こえが悪い」と仰せられ、罪を不問としました。

本当ならば倭国や百済が隋に問責されるべき大事件ですが、隋書には全くそのような記述はありません。だいたい国書ですから隋使の裴世清が大事に持っているはずで、小野妹子が持っていたとしても倭国の友好国の百済がそんなことをするはずもありません。たぶん隋の天子が倭王を「倭国王」として冊立するという文書(と印綬)だったのを、受け取ると(倭国には、少なくとも日本書紀の編纂時の日本国には)都合が悪いということで、紛失したというていにしたのでしょう。まあ隋書には冊立のことはありませんし、倭王多利思比孤も隋の官位や冊立を求めていませんが。

1ヶ月半あまり後、8月3日に唐(隋)の客が難波津から京(ヤマト地域)に入ります。飾り立てた馬75頭を遣わして海石榴市(つばいち、桜井市金屋)の路上に迎え、額田部連比羅夫(ぬかたべのむらじ・ひらぶ)が挨拶の言葉を述べます。隋書には「後十日、又遣大禮哥多毗、從二百餘騎郊勞」とありますが、哥多毗(かたび)は額田部のこととしても、10日後ではありませんし馬の数も違います。また河内からせっかく造った小墾田宮へ行くのにわざわざ桜井市を経由するというのもやや奇妙です。

皇帝問倭皇

8月12日、唐(隋)の客を朝庭に召し、使いの旨を述べさせました。隋書に「後十日」とあるのは難波館からではなく、一時的に海石榴市に留め、その十日後に小墾田宮へ招いたことをいうのでしょうか。案内役として阿倍鳥臣と物部依網連抱を遣わし、隋使がいよいよ宮にやって来ます。大唐(隋)からの進物が庭の中に置かれ、使者裴世清は自ら書を持ち(隋の国書は百済に奪われるはずもなく彼が持っています)、二回再拝して読み上げます。

其書曰「皇帝問倭皇。使人長吏大禮蘇因高等至具懷。朕、欽承寶命、臨仰區宇、思弘德化、覃被含靈、愛育之情、無隔遐邇。知介居海表、撫寧民庶、境內安樂、風俗融和、深氣至誠、遠脩朝貢。丹款之美、朕有嘉焉。稍暄、比如常也。故、遣鴻臚寺掌客裴世淸等、稍宣往意、幷送物如別。」

「皇帝、倭皇に問う」との挨拶で始まっていますが、チャイナの天子が他国の君主に「皇」など使うはずもありませんから、もとの文では「倭王」に決まっています。あとの「知介居海表」の皇も当然「王」です。この時代には「日本」の国号も「天皇」の称号も存在しません。推古が最初に天皇号を用いたとの説もありますが疑わしく、確実には7世紀後半からです。日本書紀編纂者としては「日本天皇」と書きたかったでしょうが、流石に他国の国書をそこまで改変することはやめたのでしょう。日本書紀は漢文で書いてあるため、漢文の知識があれば誰でも読むことはできます。

文意は「倭王よ、よく遠くから我が国へ朝貢してくれた。朕は喜んで返答使を送り、これらの品々を下賜いたそう」という程度のことです。日本書紀に倭国が他国へ「朝貢」したと書かれているのです。「チャイナ側がそう言っているだけで、そんなつもりはない」とか言い張ることは出来ますが、チャイナ側は当然そう認識しています。倭国がチャイナの天子と対等外交をしようというのは、そもそも無理なのです。やるのなら北魏や契丹や金やモンゴルのように華北を制圧して脅しつけるか、匈奴のように天子を大ピンチに追い込んでから釈放するしかありません。まあハッタリかまして国内的なメンツは保ったかも知れませんが、隋を中心とする国際秩序としては、礼儀をわきまえないと下位に置かれるのは仕方ないでしょう。

儀式は粛々と進み、阿部臣が国書を受け取り、大伴連が承って机の上に置き奏上します。隋書にあるような隋使と倭王の応対は一切書かれていません。そして儀式は終わり、一同は退出します。この時、皇子・諸王・諸臣はみな冠に金の飾りをつけ、衣服には錦紫繍織や五色の綾羅を用い、服色と冠色を合わせたといいます。隋使に文明国であることをアピールしたのです。その数日後、8月16日に使者を饗応して宴会を催しました。宮中晩餐会です。

隋使帰国と第三回遣隋使

9月5日、隋使らを難波の大郡(迎賓館)で饗応しました。そして11日、隋使らは帰国の途につきます。これに随行して、小野妹子を大使、吉士雄成を小使(副使)、鞍作福利を通訳とする第三回遣隋使を送り、返礼させることとしました。また天皇(倭王)は唐帝(隋帝)に挨拶の書状を送ります。

天皇聘唐帝、其辭曰「東天皇敬白西皇帝。使人鴻臚寺掌客裴世淸等至、久憶方解。季秋薄冷、尊何如、想淸悆。此卽如常。今遣大禮蘇因高・大禮乎那利等往。謹白不具。」

無礼千万にも「東の天皇、つつしんで西の皇帝に申し上げる」と書かれていますが、当然このような書状を送るはずもありません。あくまで唐(隋)とは対等なのだとしたい日本書紀編纂者の思惑です。高麗の『三国史記』ではチャイナの歴代王朝を宗主国として敬意を払い、多少は自国に都合よくチャイナの歴史書を書き換えているにせよ、自国の王をチャイナの天子と対等だとして皇帝だの天皇だのと呼ぶことはありません。

これは倭国が幸運にも海の彼方にあり、夜郎自大にも勝手にそう名乗って小天下の天子を気取っていても攻め込まれる心配が少ないせいであり、地続きのうえ山東半島からもアクセス可能な朝鮮半島諸国は、やらない方が賢明です。とはいえ国書に皇帝だの天皇だのと書けば国際問題ですから、この時点では倭王と称していたでしょう。日本書紀が書かれたのは720年、唐の最盛期です。隋とかいう実質二代で滅んだ王朝より「大唐帝国」と対等なのだ、と主張したい日本国と天皇が、このような表記をしたに過ぎません。

新唐書宋史では「日本国の王は天皇と自称している」と書いていますが、これは日本国の僧侶・奝然がもたらした『王年代紀』によるもので、国際的には天皇や天子・皇帝ではなく「日本国王」として承認されています。

ともあれ、小野妹子らは隋使と返礼の書状を届けるため出発します。さらに留学生として倭漢直福因、奈羅訳語恵明、高向漢人玄理、新漢人大圀、学問僧の新漢人日文南淵漢人請安、志賀漢人慧隠、新漢人広済ら8人を同行させました。みな漢人や訳語(通訳)で、渡来帰化系の人物です。

漢人とは「あやひと」と読みます。本来は弁韓の安羅国(あや)を経由して渡来したチャイナ系弁韓人で、4世紀末から5世紀末にかけて倭国にやってきました。これを東漢/倭漢(やまとのあや)人といいます。この氏族の祖を阿知使主(あちおみ)といい、漢の霊帝の子孫と自称していました。秦韓(辰韓)系の秦(はだ)人とは文化や言語が異なっていたのでしょうか。

これに対し、6世紀以後に半島や大陸から渡来したチャイナ系の人々を「今来/新来(いまき)の漢人(あやひと)」といい、旧来の東漢/倭漢とは別の氏族として分けました。当然漢語はペラペラで、漢文知識も持っています。漢文や国際知識に疎い倭人を行かせるよりは馴染みやすいでしょうし、倭国のメンツも立つはずです。小野妹子は翌年帰国しますが、彼らは20年から30年も滞在し、舒明天皇の時代に続々と戻ってきて先進文明を伝えました。

国際交流

この後、数年間に渡り倭国は平和で、新羅・百済・高句麗との関係も良好となり、多くの文化が伝えられたと記されています。

推古16年(608年)には新羅人が多く帰化しました。倭国が隋と正式な国交を結んだため、新羅も倭国と対立し続けると国際社会での立ち位置が危ういと思ったようです。なお、この頃にはハレー彗星が隋で観測されています。

(大業)三年春正月…丙子、長星竟天、出於東壁、二旬而止。…二月己丑、彗星見於奎、掃文昌、歷大陵、五車、北河、入太微、掃帝坐、前後百餘日而止。…(大業四年)九月…戊寅、彗星出於五車、掃文昌、至房而滅。(隋書煬帝紀上

また『隋書』東夷伝流求国条によると大業4年、煬帝は流求(台湾)へ朱寛を派遣して慰撫させましたが、流求は従わず、朱寛はその布甲を取って帰還しました。時に倭国使(小野妹子ら)が来朝しており、これを見せたところ「これは夷邪久国(屋久島か)の人の用いるものです」と言った、とあります。倭国と屋久島など南西諸島との交流は古くからあり、ゴホウラガイやヤコウガイが倭地にもたらされていました。台湾と屋久島とは遠く、交流があったか定かではありませんが、妹子らはそう判断したのでしょう。なお流求は本来台湾を指す語で、沖縄(琉球)にあてたのは後世のことです。

明年、帝復令寬慰撫之、流求不從、寬取其布甲而還。時倭國使來朝、見之曰「此夷邪久國人所用也。」(隋書東夷伝流求国条)

推古17年(609年)4月、筑紫大宰府から「僧侶10名、俗人75名の百済人が肥後国葦北郡の港に停泊しています」と報告がありました。なにゆえ来たのかを尋ねると、「百済王の命令で呉国に遣わされましたが、争乱があって入国できず本国へ帰る途中です。暴風に遭って貴国に漂着し、喜んでいます」とのこと。そこで対馬を経由して百済に帰国させましたが、11人は倭国に在留することを望み、飛鳥寺に住まわせられました。

東シナ海を漂流して葦北郡に漂着するのは道理ですが、この頃に呉国(江南の南朝)は存在しませんし、隋では南北を結ぶ大運河を掘って華北と江南を結ぶ大工事の真っ最中です。何かあったのでしょうか。この年は隋の煬帝の大業5年にあたりますが、特に争乱の記事はありません。

ところで唐突に筑紫大宰府が出てきますが、何の解説もありません。魏志倭人伝の時点で北部九州諸国を監督する「一大率」がいたのですし、その後もヤマト王権は筑紫を半島・大陸との窓口として重要視してきました。筑紫君磐井の反乱もありましたが、彼の本拠地は博多や豊前ではなく筑後地方で、糟屋郡に領地はあったものの地方豪族に過ぎません。

磐井の乱が鎮圧された後、宣化元年(536年)に那津に官家(倭王直轄地)が置かれました。また筑紫へは新羅征討を名目として盛んにヤマトから将軍が派遣されており、現地に置かれた将軍府が「大宰府(総督府)」として発展したのでしょう。一種の「幕府」ですが中央政権からは独立しておらず、遠隔地である筑紫諸国を統括し、朝貢品や使者を検分して河内・ヤマトへと送る役割を持っていたようです。要は一大率と同じです。

9月、小野妹子らが帰国しましたが、通訳の福利は帰国しませんでした。死んだともありませんから、留学生・学問僧ともども通訳として隋にとどまったのでしょう。小野妹子もこれを最後に史書に現れなくなります。

『隋書』煬帝紀に「(大業)六年(610年)春正月己丑、倭國遣使貢方物」とありますが、『日本書紀』にはこの時の使者について書かれていません。留学生や学問僧によるものでしょうか。この時も煬帝は東都洛陽にいます。

推古18年(610年)3月、高句麗王が僧の曇徴、法定らを贈りました。曇徴は五経に通じており、また絵具や紙・墨、碾磑(水力を用いた搗き臼、唐臼)の作り方を伝えています。

7月には新羅と任那から使者が筑紫に到来し、9月に都へ招かれ、10月に到着しました。倭国では隋使らと同じように飾り馬を率いて使者らを迎え、迎賓館に入らせてから案内人を遣わし、朝庭において恭しく謁見の儀式を執り行いました。使者たちは盛大にもてなされ、年内に帰国しています。任那は滅亡していますが、金官国や大加羅国の旧王家は新羅の臣下として一応存続していますから、倭国の機嫌を取るためそこから派遣されたのでしょうか。

推古19年(611年)5月、菟田野(宇陀)で薬猟(くすりがり、鹿の袋角を採り薬とする狩猟)を行いました。群臣はみな衣冠の色を位に応じて揃え、冠には各々の位に応じた飾りをつけたといいます。こうしたことの繰り返しで冠位の秩序が定着して行きます。8月には新羅・任那が朝貢しました。

推古20年(612年)正月7日、天皇は群臣に酒を賜り宴を催します。蘇我馬子が寿ぎの歌を捧げると、天皇も歌を返して蘇我馬子を讃えました。2月には推古天皇の母である堅塩媛を改葬し、欽明天皇の陵に合葬します。皇后でもないのにこうしたのは、推古と蘇我氏の権威を高めるために他なりません。5月には羽田で再び薬猟を行い、また群臣に衣冠を揃えさせました。

同年、百済からの移民が多くやって来ましたが、顔や体に白斑や白癩があり異様だったので怪しまれ、海中の島に置き去りにされかけました。しかしその中の芝耆摩呂(しきまろ)という人が「私の皮膚がまだらなのを嫌うのなら、白斑の牛馬を国の中に飼えませぬ。また私には多少の才能があり、築山を作るのが得意です」と技能をアピールしました。倭国では面白がって彼らを用い、須弥山(仏教で世界の中心に聳える山、その模型)と呉風の橋を御所の庭に築かせ、彼を路子工(みちこのたくみ)と呼んだといいます。

歴史上のいわゆる癩病(らい病)とは様々な皮膚病も含み、ハンセン病ばかりではないようですが、患者は外見が異様になることから忌み嫌われ、感染病と誤解されて隔離・迫害されました。ただ王侯貴族でも罹る人がいましたし、このような才能を示して社会的に認められる人も存在しました。

また同年には百済人の味摩之(みまし)が帰化し、呉国の伎楽の舞(くれのうたまい)を伝えました。彼はヤマトの桜井で少年たちに伎楽の舞を教え、真野首弟子と新漢済文が習って次の世代へ伝えたといいます。迦楼羅や婆羅門が舞い踊り、インドや東南アジアにもルーツを持つ国際的な芸術です。

◆伎◆

◆楽◆

かように和やかな文化交流が行われていた一方、この612年(大業8年)から隋の高句麗遠征が始まります。この遠征は隋を疲弊させ、ついに滅亡へと導きました。次回からはその様子を見ていきます。

【続く】

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