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【つの版】倭の五王への道13・倭満其中

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

西暦391年辛卯、弁韓・百済の要請で海を渡って到来した倭国の軍勢は、新羅や馬韓の諸国を服属させ、百済王の首をすげ替える暴挙に及びました。これを好機と見た高句麗の好太王は396年(永楽6年)丙申に南下し、混乱する百済を散々に撃ち破って多数の領土を獲得、王弟らを人質にとって凱旋します。397年丁酉、百済はやむなく倭国へも人質を送って軍事同盟を締結し、否応なしに高句麗との戦いへと引きずり込んでいきます。

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孫恩の乱、桓楚の変

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まずはチャイナの様子を見てみましょう。西暦398年正月、後燕では滑台(河南省安陽市滑県)で慕容徳が燕王を称し、山東に遷って自立(南燕)します。2月には後燕皇帝の慕容宝が北魏に大敗し、5月に外戚の蘭汗に殺されます。蘭汗は昌黎王と名乗りましたが、7月には慕容盛に殺されます。後燕は存続したものの、黄河以北はほとんどが北魏の手に落ちました。

東晋はというと、淝水の戦いの立役者である謝安は2年後の385年に逝去し、謝玄も388年に逝去しています。暗愚な孝武帝は弟の司馬道子に政権を委ねましたが、司馬道子も暗愚で酒色に耽って国家財政を破綻させ、東晋は急激に衰えていきます。幸い華北は混乱していて東晋を攻める余裕がありませんでしたが、山東は失われました。北魏との間には後秦や南燕があります。

396年末に孝武帝が崩御すると子の徳宗(安帝)が即位しますが、本紀末尾に「帝不惠、自少及長、口不能言、雖寒暑之變、無以辯也。凡所動止、皆非己出」とあり、暗愚を通り越して自分で意思表示も出来ない人でした。司馬道子は引き続き政権を握りますが、王恭殷仲堪桓玄(桓温の末子)等の将軍は反感を募らせ、反乱を起こしています。しかし内部分裂して失敗し、王恭・殷仲堪は相次いで殺され、399年より荊州には桓玄、首都付近には劉牢之が割拠して勢力争いを続けることになります。

399年10月、五斗米道の一派を率いる方士の孫恩が、叔父の孫泰を殺した東晋朝廷に対して会稽(浙江省紹興市)で反乱を起こし、県令や太守を殺害しました。悪政に苛まれていた民衆はこれを契機に一斉蜂起し、孫恩に呼応したため、10日ばかりの間に孫恩の軍勢は数十万人にも膨れ上がります。将軍の劉牢之が鎮圧に派遣されると、孫恩は男女20万人余りを率いて船で海上の島(舟山群島か)に逃れ、ここを拠点として東晋への襲撃を続けます。劉牢之とその部下の劉裕らは、孫恩軍が本土へ上陸するたびに迎撃します。402年、襲撃に失敗して追い詰められた孫恩は海中に身を投げて死にましたが、娘婿の盧循が軍勢を引き継いで福建・広東方面へ移動します。

荊州の兵権を握る桓玄は、この混乱を好機と見て首都建康へ進軍しました。そして劉牢之を寝返らせて司馬道子らを皆殺しにすると、劉牢之を左遷して自殺に追いやり、403年12月には皇帝から禅譲を受け、国号を楚とします。ところが404年2月に劉裕らがクーデターを起こし、桓玄を追放して安帝を復位させ、東晋を復活させました。桓玄は敗走して5月に殺され、東晋の実権は劉裕が掌握します。のちに彼も東晋から禅譲を受け、を建国します。

倭満其中

さて、今度は好太王碑文を見ていきましょう。永楽7年(西暦397年)は碑文に記述がありません。

八年戊戌、教遣偏師觀帛慎土谷。因便抄得莫新羅城、加太羅谷、男女三百餘人、自此以來朝貢論事。
永楽8年(西暦398年)戊戌、小規模な軍勢(偏師)を(将軍に率いさせて)派遣し、帛慎(粛慎)の土谷を観察させた。そして莫新羅城と加太羅谷を掠奪し、男女三百余人を捕虜として、(粛慎に)自ら朝貢するよう命じた。

南方の百済を従えたので、再び北方に派兵します。相手は粛慎(のちの女真族)の小部族で、あっさり勝利して服属させました。ツングース系の満洲語では王や管理者をカダラ(kadala)と呼んだらしく、加太羅とはそれでしょうか。莫新羅については不明ですが、新羅とは無関係です。

九年己亥、百殘違誓與倭和通。王巡下平穰、而新羅遣使白、王云、倭人滿其國境、潰破城池、以奴客為民、歸王請命。太王恩後稱其忠誠、時遣使還、告以□訴。
永楽9年(399年)己亥、百残(百済)が(永楽6年の)誓約に違反して倭と和通した。好太王は(百済を懲らしめるため)平壌に南下したが、新羅から使者が遣わされて(好太王に)申し上げた。「(新羅の)王が申しますに、『倭人がその(新羅の)国境に満ち、城や堀を破壊し、奴客(高句麗王のしもべである私、新羅王)を(倭の臣)民としました。(しかし新羅王は高句麗の)王に帰し、命令を請います(お助け下さい)』とのこと」。好太王はその(新羅王の)忠誠心を褒め称えて恩赦し、使者を新羅に帰還させ、訴えを聞き入れたことを告げさせた。

新羅からの救援要請です。永楽6年(396年)には百済を討伐しただけで、新羅に対しては何の支援も行いませんでしたから、新羅はそのまま倭国(及び倭国を呼び込んだ弁韓)に服属しています。百済は対高句麗のため倭国と手を組み、国境の防備を固めていたでしょうから、これを打ち破るには倭国との連携を崩す必要があります。また属国である新羅を倭国の臣民のまま放置しては、宗主たる高句麗のメンツに関わりますし、新羅を取り戻してこそ百済にも弁韓や倭国にも打撃を与え、牽制し続けることが可能になります。

十年庚子、教遣歩騎五萬、往救新羅。從男居城至新羅城、倭滿其中。官兵方至、倭賊退□□□ □□□□□來背息、追至任那加羅、從拔城、城即歸服。安羅人戍兵拔新羅城、□城。倭滿、倭潰城大□□□□□□□□□□□□□□□□□九盡臣有尖安羅人戍兵滿□□□□其 □□□□□□□言□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□辭□□□□ □□□□□□□□□潰□以隨□安羅人戍兵。昔新羅安錦未有身來朝貢□。國岡上廣開土境好太王□□□□寐錦□□僕句□□□□朝貢。
永楽10年(400年)庚子、歩兵・騎兵5万を遣わし、新羅を救いに行かせた。男居城から新羅城(慶州)に至れば、倭はその中に満ちていた。官兵(高句麗軍)がまさに到着すると、倭賊は退き…休ませず、(高句麗軍は)任那加羅まで(倭を)追撃して城を攻撃すると、城はすぐ帰服した。(だが)安羅人の戍兵が新羅城、□城を攻撃した。倭が満ち、倭潰城大……九尽臣有尖、安羅人の戍兵が満ち…其…言…辞……潰□以って隨う□安羅人の戍兵。昔、新羅の安錦(牟錦、君主)は(高句麗に)自ら来て朝貢したことがなかった。(だが)國岡上廣開土境好太王は…寐錦□□僕句□□□□朝貢。

いよいよ高句麗軍と倭の戦いですが、残念なことに欠落部分が多く、詳細はわかりません。この訳も定かでありません。しかし倭は「任那加羅」という領域と、「安羅人の戍兵」を伴い、新羅を占領していたことは理解ります。これは任那の初出で、任那も安羅も日本書紀にしばしば見える地名です。

任那(倭訓:mimana)は、諸説ありますが本来金官国を指す言葉で、韓語の「主(nim)」と「浦(nae)」が合わさった「主浦(nim-nae)」が訛ったものとされます。主浦は『駕洛国記』に金首露の王妃・許黄玉が海から渡来した場所として見え、金官国(狗邪韓国)の主要な港であったようです。

許黄玉は「阿踰陀國の王女」と記され、韓国ではインドのアヨーディヤーだとかサータヴァーハナ朝だとか言われていますが、仏教の影響を受けて後から作られた神話伝説でしょう。金首露自身の実在も定かでありません。

また任那加羅は任那・加羅と分けられる場合もあり、弁韓諸国を任那や加羅で総称することもあり、弁韓と任那と加羅を別々の概念とする場合もありますが、ここではたぶん金官国を指すのでしょうか。高句麗軍が倭軍を深追いしているうちに、安羅軍が新羅城を攻め落とし、倭軍の別働隊が攻め込んだわけです。安羅とは弁韓諸国のひとつで、慶尚南道の咸安郡にあたります。金海のすぐ北ですから、倭国の軍勢と連合して新羅を攻めたのでしょう。

前に触れましたが、神功紀47年から49年の記事にも安羅が現れます。この記事は百済から倭国へ七支刀が贈られた頃の話と、その20年後に倭国が弁韓諸国と組んで新羅を攻撃した話がごちゃまぜにされているようです。木羅斤資と沙沙奴跪が兵を集め、卓淳(慶尚南道昌原郡)に集って新羅を撃破し、比自本等七国を平定し、西に進んで古渓津(全羅南道康津郡)に至り、南蛮の枕彌多礼(耽羅国、済州島)を屠って百済に賜り、比利(全羅南道羅州)・辟中(全羅北道金堤)・布弥支・半古の4邑を降伏させ、百済王と盟約したというのは、この時の倭の行動を百済が記録したものでしょう。

その後のことは欠落部分にあるようでわかりかねますが、結果として好太王が新羅王自身に朝貢させているようですので、新羅は一応解放されたようです。倭や安羅は一旦新羅から撤退したようですが、その後も度々現れるため、まだ問題が解決したわけではありません。

なお、新羅へは好太王自ら兵を率いて赴いたわけではなく、平壌から兵を派遣したようです。王自ら新羅へ攻め込んだ場合、百済が漢江を渡って平壌を襲う危険もありますし、西の燕の動きも心配です。また「歩騎5万」とありますが、当時の高句麗の国力ではこれほどの大軍を集めることは難しく、チャイナでよく行われたように10倍程度に誇張したものと思われます。およそ戦勝報告は大本営発表ですから、敵味方の兵数は誇張するのが普通です。特に敵が強く大軍で、相手が名将であるほど勝った側の凄さが際立ちますし、碑文や史書の戦勝報告は話半分程度に聞いておいたがいいかも知れません。

これ以後、永楽14年甲辰(西暦404年)まで碑文の記録は空白となります。倭の騒動は鎮まり、特筆すべきことはなかったのでしょうか。他の史料で確認してみましょう。

後燕と高句麗

『三国史記』高句麗本紀の好太王紀では、在位5年から在位8年までが空白です。そして、在位9年目にこうあります。

九年春正月、王遣使入燕朝貢。二月、燕王盛以我王禮慢、自將兵三萬襲之。以驃騎大將軍慕容熙爲前鋒、拔新城・南蘇二城、拓地七百餘里、徙五千餘戸而還。
9年春正月、好太王は燕(後燕)に使者を遣わして入らせ、朝貢した。2月、燕王の慕容盛は、我が(高句麗の)好太王が礼儀を尽くしたのに慢心して、自ら兵3万を率いて高句麗に襲いかかった。驃騎大将軍の慕容熙を先鋒として、新城・南蘇の2城を抜き、地を拓く(攻め入る)こと700余里、5000余戸(の高句麗の人民)を連れ去って帰還した。

えらいことです。三国史記では好太王碑文より即位年を1年遅らせていますから、これは実際には在位10年目、永楽10年(西暦400年)にあたります。好太王が平壌へ南下し、兵を新羅へ差し向けている隙を突いて、燕が高句麗の西部を荒らし回ったのです。高句麗はやむなく西方へ力を向けます。

『晋書』慕容盛載記を確認しましょう。

其年、以長樂王稱制、赦其境内、改元曰建平。…高句驪王安遣使貢方物。有雀素身綠首、集於端門、棲翔東園、二旬而去、改東園為白雀園。

398年7月、蘭汗を殺して慕容盛が位を奪うと、高句麗王安(好太王)は使者を遣わして朝貢しています(好太王碑にはこの記述がありません)。慕容盛は同年8月に皇帝を名乗りますが、内紛や反乱、北魏の侵攻が相次ぎ、やがて帝号をやめて「庶人大王」と称したといいます。胡人の称号を晋人が意訳したものでしょうか。この頃には紀年もわかりませんが、こうあります。

盛率衆三萬伐高句驪、襲其新城、南蘇、皆克之、散其積聚、徙其五千餘戶於遼西。

ちゃんとありました。新城・南蘇がどこだかわかりませんが、高句麗に結構な打撃を与えたようです。なお慕容熙は彼の叔父で、401年に起きたクーデターにより慕容盛が29歳で殺害されると、跡を継ぎました。

彼の載記にはこうあります。

會高句驪寇燕郡、殺略百餘人。熙伐高句驪、以苻氏從、為沖車地道以攻遼東。熙曰「待剗平寇城、朕當與後乘輦而入、不聽將士先登。」於是城內嚴備、攻之不能下。會大雨雪、士卒多死、乃引歸。…熙與苻氏襲契丹、憚其衆盛、將還、苻氏弗聽、遂棄輜重、輕襲高句驪、周行三千餘里、士馬疲凍、死者屬路。攻木底城、不克而還。

これは西暦405年と406年の遠征です。「遼東を攻め」とありますから、この頃には高句麗が遼東を征服していたようです。三国史記ではこうです。

十一年(永楽12年、西暦402年)、王遣兵攻宿軍、燕平州刺史慕容歸、棄城走。十三年(永楽14年、404年)冬十一月、出師侵燕。十四年(永楽15年、405年)春正月、燕王熙來攻遼東城、且陷。熙命「將士毋得先登、俟平其城、朕與皇后乘而入」。由是、城中得嚴備、卒不克而還。十五年(永楽16年、406年)秋七月、蝗旱。冬十二月、燕王熙襲契丹、至北、畏契丹之衆。欲還、遂棄輜重、輕兵襲我(高句麗)。燕軍行三千餘里、士馬疲凍、死者屬路、攻我(高句麗)木底城、不克而還。

慕容盛が殺され燕が混乱している隙を突いて、高句麗は燕から遼東を奪ったのです。燕王慕容熙は遼東に繰り返し攻め込みますが、冬の寒さと兵糧不足から撤退しました。三国史記は晋書に取材して独自の編集を加えていることは明らかですが、好太王碑文では百済や倭との戦いに重点が置かれ、燕との戦いに関しては記録されていません。遼東を奪ったことは特筆すべき武勲だと思うのですが、なにか差し障りがあるのでしょうか。逆に三国史記においては、倭と高句麗の戦いが全く記されていません。

『梁書』高句麗伝に「垂死、子寶立、以句驪王安爲平州牧、封遼東・帶方二國王。安始置長史、司馬、參軍官、後略有遼東郡」とありますが、慕容宝が遼東の領有を高句麗に認めるはずもありません。楽浪・帯方の誤記誤伝ではないでしょうか。

百済と倭国

高句麗が燕と戦っている隙に、倭国は着々と勢力を広げていきます。

『三国史記』百済本紀によると、阿華王は在位6年目(397年)に倭国と同盟し、子を人質に差し出しました。これは『日本書紀』応神紀にもあります。在位7年(398年)、8年(399年)と高句麗を攻めようとしますが、民は労役に苦しんで新羅へ亡命する有様で、断念せざるを得ませんでした。

9年(400年)には日蝕が、11年(402年)には旱魃が起きて雨乞いをし、倭国へ大珠を求めています。雨乞い用の呪具で、『隋書』にいう如意宝珠でしょうか。12年(403年)2月には倭国の使者が(大珠を持って)至り、王は手厚くこれを歓迎しています。秋7月には新羅の辺境を攻めました。13年には記録がなく、14年(405年)9月に阿華王は薨去しています。

跡を継いで即位したのは、倭国に人質として使わされていた腆支(直支)でした。腆支の次弟の訓解が摂政となり兄の帰国を待ちましたが、末弟の蝶礼が訓解を殺して自ら王となります。腆支は倭国で訃報を聞いて哭泣し、倭王は兵士百人に護衛させて腆支を帰国させます。漢城(ソウル)ではこれを聞いて蝶礼を殺し、腆支を迎え入れて即位させたといいます。

このことは『日本書紀』応神紀16年条(405年乙巳)にも書かれており、倭国は阿華王に続いて百済の王位継承に武力で介入しています。

十六年…是歲、百濟阿華王薨。天皇、召直支王謂之曰「汝返於國、以嗣位。」仍且賜東韓之地而遣之。東韓者、甘羅城・高難城・爾林城是也。

新羅と倭国

『三国史記』新羅本紀はどうでしょうか。奈勿王は在位38年(393年)に倭人を撃退しており、その後は倭人の倭の字も出てきません。靺鞨が侵入したのを破ったとか、旱魃や蝗害があったとか、馬が跪いて涙を流したとか短いニュースばかりです。46年(401年)7月には高句麗が人質の実聖を還し、47年(402年)2月に奈勿王は薨去しています。

元年(402年)三月、與倭國通好、以奈勿王子未斯欣爲質。

実聖は新羅王となるや、3月に倭国と通好し、奈勿王の子である未斯欣を人質に差し出しています。実聖は奈勿の甥にあたり、未斯欣が父の跡を継ぐと言い出せば争いになりますから、ひとまず厄介払いした形です。

このことは『日本書紀』応神紀にありませんが、未斯欣めいた人物が神功紀に見えます。三韓征伐の時、新羅王の波沙寐錦(はさ・むきん)が人質として差し出した微叱己知波珍干岐(みしこち・はとりかんき)です。

爰新羅王波沙寐錦、卽以微叱己知波珍干岐爲質、仍齎金銀彩色及綾羅縑絹、載于八十艘船、令從官軍。

三韓征伐は神功皇后が応神天皇を産む前、西暦に換算すると200年といいますから、未斯欣が派遣される202年も前のことです。

また神功皇后摂政5年(西暦205年)3月には、新羅王が汙禮斯伐・毛麻利叱智・富羅母智を使者として朝貢し、先に人質となった微叱許智伐旱(微叱己知波珍干岐)を返還するよう求めました。微叱己知は「母国では私の妻子が奴婢にされているそうです」と神功に告げたので、神功は帰国を許し、葛城襲津彦を副えて彼を新羅へ遣わします。しかし対馬北端の鉏海水門(鰐浦)に到着した時、新羅の使者らは密かに微叱己知を船に載せ、一足先に新羅へ送ります。そして藁人形(蒭靈)を作って微叱己知の寝床に寝かせ、病気だと偽りました。怒った襲津彦は彼らを焼き殺し、蹈鞴津(釜山の多大浦)に上陸して新羅を攻め、草羅城(慶尚南道梁山)を攻撃して捕虜を連れ帰りました。これが桑原、佐備、高宮、忍海の四邑の漢人の始祖だといいます。よくわかりませんが、未斯欣と襲津彦に関わるなんらかの伝説のようです。

ともあれ新羅は倭国に人質を送り、百済と共に反高句麗同盟に加わることになりました。ただ百済と新羅の足並みは揃わず、2年(403年)7月には百済が新羅を攻撃しています。

侵入帶方界

かくして半島南部の諸国は全て反高句麗同盟に加わり、倭国は連合軍と共に高句麗に侵攻します。すなわち好太王碑にこうあります。

十四年甲辰而倭不軌、侵入帶方界□□ □□□、石城□連船□□□王躬率□□從平穰□□□鋒相遇王幢要截盪刺、倭寇潰敗、斬殺無數。
永楽14年(西暦404年)甲辰、しかして(永楽10年に撃ち破ったにも関わらず)倭は正道(軌)を外れ、高句麗の帯方郡の境界(ソウルの漢江北岸)に侵入し……石城…船を連ね……好太王は自ら兵を率い…平壌から…戦闘が開始され、王幢(王の軍旗、高句麗軍)は敵の要を断ち切り、揺り動かし突撃し、倭寇は潰敗して、斬り殺すこと無数であった。

高句麗の大勝利です。この戦闘は三国史記にも日本書紀にも一切記されていませんが、百済が倭国や連合軍と共に漢江の北岸を取り戻そうと攻め込んだのです。しかし高句麗は王自ら平壌から出撃し、散々に撃破して撤退させたのです。高句麗の大本営発表ですから差っ引いて考えても、百済・倭国ら連合軍が高句麗に敗れ、目的を達成できなかったのは明らかです。

しかし倭国は半島から撤退したわけではありません。百済の阿華王が逝去すると、倭国に人質として遣わされていた腆支を王位につけていますし、新羅からも人質を取っています。新羅の人質は王子ではなく甥ですが、新羅がもし倭国に逆らえば、彼を担いで新羅の王位につけることもできます。ただ『三国史記』によれば、新羅の実聖王は405年、407年、408年と攻め込んだ倭人と戦っており、同盟を離脱して高句麗側に戻ったようです。

それにしても高句麗は強いですね。なにしろ漢代から400年以上続く歴史ある独立国で、漢魏晋や燕・秦など歴代の大国と戦闘・交流しており、陸上の戦争に関しては年季が違います。滅びかけてもしぶとく立ち上がり、多数の難民や異民族を受け入れ、文化的にも(北東チャイナ風に)洗練されて来ました。半島南部一番の強国は百済ですが、高句麗から離反した元高句麗人が支配層で、それから半世紀以上も北方で戦い鍛え続けてきた高句麗本国にはそうそう勝てません。幸か不幸か371年に高句麗王を討ち取った経験があるため、高句麗には常に裏切り者で父祖の仇とみなされ、百済にも頑張ればワンチャンと期待を持たせてしまうのですが、素の国力に差があります。戦争経験に乏しい新羅や弁韓諸国、海の彼方で小競り合いしていただけの倭国とはわけが違うのです。

◆攻撃◆

◆戦だ◆

整理しましょう。高句麗は西の後燕、南の百済と2つの敵を抱えていましたが、後燕が内憂外患で混乱しているうちに遼東を奪いました。百済は倭国と手を組んで高句麗に対抗しますが、連合軍の足並みが揃わず敗北し、新羅は同盟を離脱してしまいます。宗主国の東晋も海の彼方で頼りにならず、崩壊しかかっています。百済の命運はどうなるのでしょうか。

【続く】

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