【つの版】倭国から日本へ07・欽明天皇
ドーモ、明けましておめでとうございます。三宅つのです。今年もよろしくお願いします。それでは前回の続きです。
継体天皇の後、庶長子の安閑天皇、同母弟の宣化天皇が即位しましたが、いずれも短命でした。続いて異母弟の欽明天皇が即位します。
◆正月◆
◆仮面◆
欽明即位
欽明天皇は漢風諡号で、和風諡号は天国排開広庭(あめくにおしはらき・ひろにわ)天皇といいます。全部が諡めいていますが、天国排開(天地開闢)が「広」にかかる言葉とすれば、広庭が諱でしょうか。
彼は継体天皇が即位後に手白香皇女を娶って儲けた子です。彼女の母は雄略天皇の娘なので父母両系から天皇の血を引き、傍系の継体は彼女を娶ることで権威と正統性をつけました(安閑や宣化も仁賢の娘を娶っています)。507年に母が娶られて508年に欽明が生まれたとして、父の崩じた534年には27歳、即位した539年には推定32歳と、年齢に不足もありません。
宣化天皇が崩御すると、彼は「私は幼年で見識も浅く政治に通じていないから、山田皇后(安閑の皇后)に政務をお任せしては」と群臣に言いますが、山田皇后は恐れて辞退したので、やむなく、という形で12月に即位します。そして山田皇后を皇太后とし、先代に続いて大伴金村と物部尾輿を大連、蘇我稲目を大臣としました。ということは、生母である手白香皇女(継体の皇后)は既に亡くなっていたのでしょう。
物部尾輿は安閑の時に大連となり、宣化にも仕えていたと思われます。尾輿の父は荒山(あらやま)、祖父は雄略に仕えた目(め)、曽祖父は履中・反正(允恭もか)に仕えた伊莒弗(いこふつ)です。さらに遡ると神武以前の饒速日尊に至りますが、物部氏の系譜は造作が多く、河内の新興豪族が箔付けのために先祖を架上したようです。麁鹿火は『先代旧事本紀』に伊莒弗―布都久留―木蓮子―麻佐良―麁鹿火と見え、尾輿とは遠縁の親戚です。
欽明の皇后は宣化天皇の娘の石姫皇女で、箭田珠勝大兄皇子、譯語田渟中倉太珠敷尊(おさだ・ぬなくらの・ふとたましき、敏達天皇)、笠縫皇女(狹田毛皇女)という2男1女を産みました。
即位元年庚申(540年)7月、倭(やまと)国磯城郡磯城嶋(しきしま)の金刺宮(桜井市慈恩寺)に遷都しました。三輪山の南麓、大和川のほとりで、東は雄略天皇の宮居である泊瀬朝倉宮(脇本遺跡)、南は忍坂・外山です。大和郷や纒向からは離れていますが、まさしくヤマト(山の麓)です。
秦人
2月、百済人の己知部が亡命して帰化したので、添上郡山村に住まわせました。3月には蝦夷と隼人が共に来て服属し、8月には高句麗・百済・新羅・任那がみな使者を遣わして朝貢しました。これはチャイナの天子がやっていたように「蛮夷」が即位を祝賀してやって来るという即位儀礼で、実際にやったかどうかはともかく、そういう中華的意識が投影されています。
同8月には秦(はだ)人、漢(あや=安羅)人ら諸蕃投化者(渡来帰化人)を諸国において数え、戸籍に編入しました。秦人は戸数が7053戸(1戸5人として3.5万人)あり、大蔵掾(おほくらのふみひと)をもって秦伴造としました。欽明即位前紀には、欽明が幼少の時に秦大津父(はだの・おほつち)を山背国紀郡深草里(京都府伏見区)で見出し、即位後に大蔵省(おほくらのつかさ、財務大臣)に任命したとの伝承があります。大蔵掾とは彼です。
秦人は応神16年(西暦285年、120年足して405年)に帰化した120県の民の末裔で、弓月君(ゆづきのきみ)が率いていました。彼らは百済から日本(倭国)に帰化しようとしていましたが、新羅の妨害に遭い、葛城襲津彦の助けで加羅に移動しました。さらに平群木菟宿禰と的戸田宿禰の援軍が新羅を牽制し、ついに渡来したといいます。始皇帝の子孫とか大秦国(ローマ)から来たユダヤ人とかキリスト教徒とかではなくて、たぶん秦韓と呼ばれた辰韓の秦人(華人)でしょう。彼らは商業に長け、倭国の各地に散らばって交易に従事し、7世紀初頭には山口県に「秦王国」を築いています。
倭国・日本国はもともと多言語・多民族国家であり、チャイナ系でも韓系でも何人でも、倭国・日本国に帰化し所属すれば「倭国人」「日本人」です。日本語を見ればわかるように、漢字(真名)と仮名(時に英語等)を混ぜて用い、漢字を呉音(和音、対馬・百済経由の南朝音)・漢音(唐音)・唐音(宋音)や様々な和訓で読み、ルビをふり、文章を綴り会話します。民族・国民の概念は近代欧州で発生したもので、それ以前に当てはめてもよくありません。蝦夷・隼人など異民族(とみなされた人々?)もおり、いわゆる「和人」「大和民族」のルーツは多種多様です。DNA的には弥生時代以前からの倭人の子孫が多数派のようではありますが、それで民族や血統や人間の優劣をいうのは現代では奥ゆかしくない言動だなとつのは思います。当然、他国の人々がそのように発言するのも奥ゆかしくないでしょう。全人類のルーツはアフリカ大陸に遡ります。
金村失脚
9月、河内国の難波祝津宮に行幸し、大伴金村・許勢稲持・物部尾輿らが従いました。天皇が「兵がどれだけあれば新羅を討伐できるか」と群臣に問うと、尾輿が答えて「少々の兵では無理です。昔、男大迹(継体)天皇の6年に百済が任那の4県を乞うた時、大伴金村は安易に許可し、新羅はこれを恨んでいます。軽々しく討伐してはなりません」と言います。金村は恥じ入って住吉の自宅に引きこもり、病気と称して出仕しなくなりました。天皇は彼の長年の忠義を労り罪を問いませんでしたが、これで金村は失脚しました。
金村は仁賢天皇崩御(498年)時に反逆者を討伐し、武烈天皇を擁立しました。武烈の後には継体天皇を擁立し、安閑・宣化にも仕え、この時まで40年以上実権を握って来たことになります。この後も大伴氏は存続しますが、金村を最後に衰退しました。大伴氏は記紀によれば天孫降臨に付き従った天忍日命、神武東征に付き従った道臣命の後裔とされますが疑わしく、物部氏と同じく河内の新興豪族です(のち倭王と共にヤマトへ遷りました)。実在の人物には金村の祖父(叔父とも)の室屋、父の談がいます。室屋は允恭・安康・雄略・清寧・顕宗の5代に仕え、談は雄略9年(465年)に新羅との戦いで戦死しています。金村を460年生まれとすれば498年には30歳手前、508年には50歳近く、540年には80歳です。流石に引退の潮時でしょう。
そして欽明2年(541年)3月、新たに5人の妃を迎えます。皇后の妹で宣化天皇の娘である稚綾姫皇女と日影皇女、和邇氏の春日日抓臣の娘である糠子、蘇我稲目の娘である堅塩媛(かたしひめ)と小姉君(をあねきみ)です。このうち堅塩媛は7男6女を、小姉君は4男1女を産みました。この子らが敏達天皇の後に次々と皇位につき、用明天皇・崇峻天皇・推古天皇となります。用明天皇は小姉君の娘と結婚し、厩戸皇子(聖徳太子)を儲けました。外戚となれなかった大伴氏に代わり、蘇我氏の時代がやって来ます。
金村失脚に関して直接発言したのは物部尾輿で、蘇我稲目ではありませんが、稲目と尾輿と欽明が手を組み、老いた金村を失脚させたのでしょうか。軍事の物部氏、外交の蘇我氏、経済の秦氏と閣僚が揃いました。
任那復興会議
欽明紀のかなりの部分は、任那と百済、新羅に関する記事で占められています。日本(倭国)側が自国になるべく有利なように歴史を書いているため、あまり信用できませんが(百済・新羅側も当然そうします)、かいつまんで見ていきます。
欽明2年(541年)4月、安羅(咸安)と加羅(大加羅、高霊・星州)の両国の高官たちが、任那日本府(倭府)の吉備臣と共に百済へ行き、共に「任那を復興したい」という天皇の詔を聞きました。近江毛野の時は安羅や任那に百済王を呼びつけようとして失敗したので、今回は百済へ倭国の使者が直接赴いています。友好国の安羅、対立国の大加羅から出席者が来ていますが、新羅からは誰も来ていません。任那人は「新羅とは再三協議したし、来るよう伝えたが返事がなかった」と発言しています。
百済の聖明王は「我が国は任那諸国と古来親密であったが、新羅に騙されて任那と仲違いし、天皇(倭王)の怒りを買ってしまった。私は任那復興のために尽力し、新羅に圧力をかけて協議させよう。新羅は小国だが、任那諸国が警戒し、助け合わなければ滅ぼされる」と声明を出し、会議参加者は合意して各国へ帰還しました。しかし安羅の日本府(倭府)の加不至費直、阿賢移那斯、佐魯麻都らは密かに新羅と通じていました。7月、百済はこれを聞いて使者を任那に派遣し、新羅に警戒せよと重ねて伝えます。さらに倭国へも使者を派遣して、南韓や任那のことを報告しました。
欽明3年(542年)は空白で、欽明4年(543年)4月に百済の使者は帰国していますが、同年9月にはまた百済から使者が倭国に派遣され、扶南の財物や奴隷を献上しました。これらの使者には紀や物部といった倭国の姓を持ち、名は百済風という人物がおり、混血者と思われます。その後も何度か使者が往来し、百済による任那復興会議(百済・任那・倭国が連合して新羅や高句麗を討伐する計画)が開催されますが、日本府(倭府)の方が新羅と通じていて乗り気でなく、計画は遅々として進みませんでした。
百済は繰り返し使者を倭国へ派遣し、欽明6年(545年)には呉(梁)の財物や丈六の仏像を倭国や任那へ送って機嫌を取ります。『元興寺伽藍縁起』に「欽明天皇7年に百済から仏像と経典が贈られた」というのはこのことかも知れません(戊午年は後付として)。この間、記事の主体は百済の聖明王であり、欽明天皇や重臣たちの反応・動静はわかりません。任那は百済が主導する連合体として再定義され、新羅に対抗したようです。
新羅では540年7月に法興王が薨去し、甥の真興王が7歳で即位して王母が摂政となっていました。軍事は異斯夫が担い、積極的な領土拡大を行います。
高麗大乱
欽明6年から7年に高句麗で「大乱」があり、大勢の死者が出たといいます。
是歲(欽明6年=545年)、高麗大亂、被誅殺者衆。百濟本記云「十二月甲午、高麗國細群與麁群、戰于宮門、伐鼓戰鬪。細群敗不解兵三日、盡捕誅細群子孫。戊戌、狛國香岡上王薨也。」
是歲(欽明7年=546年)、高麗大亂、凡鬪死者二千餘。百濟本記云「高麗、以正月丙午立中夫人子爲王、年八歲。狛王有三夫人、正夫人無子、中夫人生世子其舅氏麁群也、小夫人生子其舅氏細群也。及狛王疾篤、細群・麁群各欲立其夫人之子。故、細群死者二千餘人也。」
高句麗と対立する百済の史書の引用なので怪しげですが、要約するとこうです。「狛国(こま、高句麗)の香岡上王(安原王)が545年末に薨去し、翌年正月に中夫人(第二王妃)の子(陽原王)が8歳で即位した。前王には3人の妃がいたが正夫人に子がなく、中夫人の子が世継ぎで、小夫人(第三王妃)にも子がいた。中夫人の一族を麁群、小夫人の一族を細群といい、両者が争って死者が二千人出た」。果たして本当でしょうか。
ファクトチェックすると、『梁書』東夷伝高句麗条には「太清二年(548年)、延卒、詔以其子襲延爵位」とあります。『三国史記』では例によって「梁書の方が誤りだ」としますが、どうでしょう。ただ今回は国内の混乱を鑑み、内乱が鎮圧されてから梁へ使者を送ったとも考えられます。同年8月には梁で侯景の乱が勃発し、10月には建康が反乱軍に包囲されて朝貢どころではなくなりますが、高句麗の使者が何月に来たかは記されません。
また『三国史記』にはこの争いのことは何も書かれず、陽原王は533年に立太子されており、546年に8歳とすると539年生まれで矛盾します。どうも百済本記の話は怪しいですが、なんとも言えません。ともあれ、この頃高句麗が内紛で混乱していたのは事実らしく、百済は任那復興・新羅討伐をさておいて、建国以来の仇敵である高句麗への侵攻を開始しました。新羅は百済と手を組み、共に高句麗を攻撃します。敵の敵は味方です。
欽明8年(547年)4月、百済は倭国に使者と人質を送って援軍を請いましたが、倭国は援軍を送りませんでした。欽明9年(548年)4月には百済から使者が来て「正月に高句麗が我が馬津城を攻めましたが、その捕虜が『安羅と日本府(倭府)が高句麗に百済侵攻を勧めた』と言っております。状況からして有り得そうなので恐れています。ご確認下さい。援軍の派遣はしばらくお待ち願いたい」と伝えます。流石にデマだと思いますが、倭国も高句麗まで兵を送る気はなく「了解。ご安心下さい」と返信し、10月には370人を百済へ派遣して城(防衛線)の建設を助けさせました。援軍ではなく防御施設の土木工事ならOKというのは、なんかの平和維持活動めいていますね。
欽明10年(549年)、11年(550年)、12年(551年)にも使者のやり取りがあり、高句麗との戦いのため矢30具(1500本)、麦種1000石が倭国から百済へ贈られました。欽明12年(551年)、百済の聖明王は自ら百済・新羅・任那の兵を率いて高句麗を大いに攻撃し、76年ぶりに旧都・漢城(ソウル)を回復したうえ、高句麗の首都・平壌まで迫りました。大勝利です。
新羅の裏切り
新羅は漁夫の利を狙い、550年の高句麗・百済の戦いの時に異斯夫を派遣して、両国の係争地である道薩城(忠清北道槐山郡)及び金峴城(鎮川郡)を奪取します。551年には居柒夫(金荒宗)らを派遣して高句麗領に侵入し、小白山脈を越えて竹嶺付近(慶尚北道栄州市から忠清北道丹陽郡)の10郡を奪いました。さらに552年、新羅は百済との同盟を裏切って高句麗と手を結び、漢城(ソウル)を攻撃します。高句麗は危ないところに手が差し伸べられたので手を結ぶほかなく(殴ってきたのは向こうですが)、聖明王は新羅を討つため倭国との同盟を強化するほかありません。
欽明13年(552年)5月、百済と加羅(大加羅)、安羅の使者が連れ立って倭国に遣わされ、「高句麗と新羅が連合して我が国(百済)と任那を滅ぼそうと図っています。援軍を要請します」と上奏しました。天皇がこれを承諾すると、10月に聖明王は使者を派遣し、仏像・経巻などを献じました。これが正史『日本書紀』における「仏教公伝」です。
◆南無◆
◆三宝◆
【続く】
◆
つのにサポートすると、あなたには非常な幸福が舞い込みます。数種類のリアクションコメントも表示されます。