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【つの版】徐福伝説01・始皇射鮫

ドーモ、三宅つのです。邪馬台国・倭国・記紀神話についての備忘録をざっと終えたので、今回から番外編として徐福伝説をやります。それはなぜか?「徐福ちゃん」とかで検索してみましょう。

歴史好きの多分に漏れず、つのも徐福伝説についてはいろいろ調べたことがあります。ここではそれについて書き連ねて行こうと思います。全くつのの道楽趣味であり、学術論文でも何でもありません。Wikipediaをはじめとしてインターネット上にはその手の素人記事がやたら転がっています。これはそのひとつになるでしょう。

邪馬台国論争ほどではありませんが、徐福伝説も古来いろいろな論争がありました。古事記も日本書紀も徐福については完全にスルーしており、怪しげな後世の文献にチラホラ見えるだけです。考古学的証拠がないため、徐福が日本列島に来たとは断言できませんが、来た可能性も否定は出来ません。ここではつのなりに徐福伝説を調べ、蓋然性を探って行こうと思います。

あくまで「ドシロウトが推測した」だけですので、完全な断定はしません。違っていても一切責任は持てません。あなたが徐福ユダヤ人説アメリカ大陸到達説ムー大陸到達説などを熱狂的に信仰していても押し付けることはしません。コメントに反論を綴ったりDMを送りつけたりしないで下さい。つのはこれをここに置いておくだけです。あなたの頭で考えて下さい。あなたの上司や同僚、家族と論争して疎遠になっても、つのは知りません。

覚悟はいいですか? では、ひとつひとつ噛み砕いて行きましょう。

◆徐◆

◆徐◆

徐巿

『史記』始皇本紀に、徐福に関する最古の記録があります。ただし名前が(ふく、上古音 pək)ではなく、巿(ふつ、上古音 pub)となっています。徐福という表記は、同じ史記の淮南衡山列伝に初めて現れます。

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「巿」は「市(し、いち)」と非常によく似ていますが別字で、「巾(きん、ぬのきれ)」という字に横棒を足したものです。意味は「人の下半身に垂らした布」すなわち「ひざ掛け」です。身近なところでは「(はい)」という臓器を表す字がありますが、あれの右側が巿(ふつ)で、左右に垂れた形状と月(肉)を組み合わせた文字です。さんずいをつけた沛(はい)は水が左右に垂れて広がるさま、沼沢地を意味し、江蘇省沛県は漢の高祖劉邦の出身地として有名です。姓の徐については後で考えましょう。

徐市入海

さておき、始皇本紀の記述を見ていきましょう。テキストをお開き下さい。

二十八年、始皇東行郡県…南登瑯邪、大樂之、留三月。

始皇28年(西暦紀元前219年)、秦の始皇帝は東方の郡県をめぐり、鄒の繹山(山東省聊城市)に上り、石碑を立てて文章を刻みました。また魯の儒生(儒学者)らを集めて祭祀のことを議し、泰山と梁父山(泰安市)において封禅(天子が天地を祀る儀式)を行いました。

そこから渤海湾に沿って東行し、黄(煙台市竜口)・垂(煙台市福山区)を通り、山東半島の突端の成山(威海市栄成・成山角)に至りました。また西に戻り、海中に突き出した芝罘山(煙台市芝罘区・芝罘島)に登って石碑を立てました。文面は史記に収録されていますが、残存石碑は2基だけです。

次いで南のかた琅邪山(青島市黄島区南部)に登って大いに(海の眺めを)楽しみ、三ヶ月の間滞留しました。さらに人民3万戸(1戸5人として15万人)を琅邪山の麓に遷し、12年間賦税を免除する代わりに琅邪台という高楼を作らせ、石碑を立てて秦の徳を讃えました。これは現存します。

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既已、斉人徐市等上書、言海中有三神山、名曰蓬莱、方丈、瀛洲、僊人居之。請得斎戒與童男女求之。于是遣徐市発童男女数千人、入海求僊人。

これが終わった後、斉人徐巿らが上書して、こう言いました。「海中に三つの神山があります。名を蓬莱、方丈、瀛洲と言い、僊人(仙人)の居る所です。斎戒して童男女を連れ、これを求めたいと思います」。そこで彼に童男女数千人を与え、海に入って仙人を求めさせました。彼らは「方士」と呼ばれ、医術やまじない、煉丹術など様々な魔術を行う怪しい存在でした。

その後、始皇帝は南下して旧楚領の彭城(江蘇省徐州市)に赴き、長江沿いに衡山(安徽省安慶市天柱山)・南郡(湖北省南部)・湘山祠(湖南省湘陰県)・武関(陝西省丹鳳県)を通り、帝都咸陽に帰還しました。

始皇29年(前218年)、始皇帝は再び東方に赴きます。陽武(河南省新郷市原陽県)の博浪沙で韓の残党・張良が計画したテロに遭いましたが被害はなく、之罘・瑯邪・上党(山西省長治市)を巡って咸陽に帰還しました。この時に徐巿が何をしていたかは記録がありません。命令通り三神山を探していたのでしょうか。しかし何年経っても音沙汰がありませんでした。

燕人盧生

三十二年、始皇之碣石、使燕人盧生求羨門、高誓。…因使韓終、侯公、石生求僊人不死之藥。…燕人盧生使入海還、以鬼神事、因奏錄圖書、曰「亡秦者胡也」。始皇乃使將軍蒙恬發兵三十萬人北擊胡、略取河南地。

始皇32年(前215年)、待ちかねた始皇帝は渤海湾の北、燕の碣石山(河北省秦皇島市昌黎県)に赴き、燕人盧生に(仙人の)羨門、高誓を探させ、石碑を立てました。また韓終、侯公、石生らに仙人の不死の薬を求めさせます。生・公とは「先生」といった敬称でしょう。始皇帝は西へ向かって北の国境(長城)をめぐり、上郡(陝西省北部)から咸陽に帰還しました。

燕人の盧生は海から還り、鬼神のお告げと称して録図の書(予言書)を献上しましたが、その中に「秦を亡ぼすものは胡なり」とありました。そこで始皇帝は将軍の蒙恬に命じ、30万の兵を発して北の胡(異民族)を討伐させ、河南(オルドス)の地を奪いました。

始皇34年(前213年)、始皇帝は儒者が郡県制に反対したことに腹を立て、李斯の献言を容れて焚書を行い、民間人が持つ儒家の経典や秦の史家によるもの以外の史書を焼き払いました。また医薬・卜筮・農事以外の書物の所有を禁じた「挟書律」を制定しました。

始皇35年(前212年)、始皇帝は咸陽に阿房宮を建設します。この時、盧生は始皇帝に説いてこう言いました。「我々は霊芝・奇薬・仙者を捜しましたが、いつも出会ったことはありません。きっと何者かが害をなしているのです。方術の中に『人主が密かに行動すれば悪鬼を避け真人(仙人)に至る。臣下に居所を知られると神気を害する。真人は水に入っても濡れず、火に入っても熱くなく、雲気を凌駕して天地のように長久である』とあります。今上は天下を治め、未だ恬淡でありませぬ。居場所を知らされぬようにされれば、不死の薬は必ず得られます」そこで始皇帝は朕と称することをやめ、自ら真人と称し、自分の居場所を臣下に知られないようにし、もし知らせたら殺害しました。しかし侯生(侯公)と盧生は「未だに仙薬を探しだすことが出来ない。このままでは殺される」と語り合い、ついに逃亡しました。

始皇帝は激怒し、「方士は金を練って奇薬を造ると言ったのに、韓衆(韓終)は去って報告せず、徐巿らに費やした金は巨万に達するのに、薬を得られていない。いたずらによからぬ利益を貪っているだけだと毎日聞くだけだ。盧生らにはずいぶん手厚くしてやったのに、わしの不徳のせいだと誹謗している。咸陽にいる学者は、わしの落ち度をあげつらったり、怪しい言葉で人民を惑わしたりしておってけしからん」云々と言い、咸陽の学者460人余りを穴埋めにしました。これが坑儒です。

「吾前収天下書不中用者盡去之。悉召文學方術士甚衆、欲以興太平、方士欲練以求奇藥。今聞韓衆去不報、徐市等費以巨萬計、終不得藥、徒姦利相告日聞。盧生等吾尊賜之甚厚、今乃誹謗我、以重吾不德也。諸生在咸陽者、吾使人廉問、或為訞言以亂黔首。」

再び徐巿の名が出てきました。盧生、韓終、侯公、石生らも捕まれば詐欺師として穴埋めにされてしまいますが、どこへ逃亡したのでしょうか。

始皇射鮫

始皇37年(前210年)10月、50歳の始皇帝は南に出遊し、雲夢(湖北省孝感市雲夢県)に至り、南の九疑山に葬られたという五帝のひとり虞舜を望祀しました。また長江を船で下り、籍柯を観て海渚(安徽省安慶市迎江区)を渡り、丹陽(江蘇省南京市)を過ぎて銭唐(浙江省杭州市)に至ります。浙江に臨んで渡ろうとしますが風波が強く、西120里の地点で渡りました。そして会稽(紹興市)で夏の禹王を祭り、南海を望み見て石碑を建てます。

それから呉(江蘇省蘇州市)を過ぎ、江乗(鎮江市句容)を経て海沿いに北上し、三たび琅邪にやって来ました。

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方士徐巿等、入海求神薬、数歳不得費多、恐譴乃詐曰「蓬莱薬可得、然常為大鮫魚所苦、故不得至、愿請善射与倶、見則以連弩射之。」

なんと、徐巿らはまだ琅邪にいました。彼らは海上に神薬を求めて数年(9年)になるのに得られず、費用ばかりかかるだけだったので、罰せられるのを恐れ、偽って言いました。「蓬莱では薬を得られるのですが、いつも大鮫に苦しめられ、島に行くことが出来ません。上手な射手をつけて頂ければ、連弩(連射式クロスボウ)でこれを射殺出来ます」

あからさまに欺瞞ですが、逃げもせず堂々と言ってのけたためか、始皇帝はすぐには彼を殺しませんでした。連弩ごときで不老不死の薬が手に入るなら安いものです。そんなものがあればですが。

始皇夢与海神戦、如人状。問占夢博士曰「水神不可見、以大魚蛟竜為候。今上祷祠略謹、而有此悪神。当除去而善神可致。」

始皇帝は頭の中が鮫でいっぱいになり、寝ると海神と戦う夢を見ますが、その姿は人のようでした。これを夢占いの博士に問うと、こう答えます。「水神は目に見えず、大魚蛟竜を様子見(候)として遣わします。いま陛下は祈祷祭祀に謹んでおられるのに、この悪神が現れました。これを除けば善神を招くことができましょう」

乃令入海者齎捕巨魚具、而自以連弩候大魚出射之。自琅邪北至労成山弗見。至之罘見巨魚、射殺一魚。

そこで始皇帝は大魚を捕える道具を用意させ、自ら連弩で射てやろうとしました。琅邪から北に行って栄成山(成山)に来ましたが見えず、之罘山の沖で大魚を見たので、一頭を射殺したといいます。鯨かなんかでしょうか。

◆鮫◆

◆嵐◆

この後、西へ進んだ始皇帝は平原津(山東省徳州市平原県)で病気になり、沙丘(河北省邢台市広宗県)で病死しました。二世皇帝となった胡亥も東方郡県を巡幸し、始皇帝が立てた石碑の全てに文字を刻んだといいますから、琅邪にも来たはずですが、徐巿については記されていません。また始皇帝死後の戦乱の時代にも、徐巿の名は全く現れません。始皇帝が殺したとも書かれていません。彼は、どこへ行ったのでしょうか。

『史記』始皇本紀における徐巿の記述は以上です。この事から90年近く後、漢の淮南王劉安の事績を伝える『史記』淮南衡山列伝に、徐巿ならぬ徐福の伝説が現れます。また封禅書には彼の名こそないものの、三神山に関する始皇帝以前の伝説が記されています。次回はそれらを見ていきましょう。

【続く】

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