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【つの版】徐福伝説04・燕斉海東

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

徐氏は山東省東南部の臨沂市郯城県を発祥地とし、青島市黄島区にあたる琅邪は天然の良港で斉・越・楚の争奪地でした。田斉が秦に滅ぼされたのち、徐福はこの琅邪で始皇帝に謁見し、船を作って東海へ出発したとされています。彼はどこへ向かったのでしょうか。また、盧生ら燕の方士たちもどこへ逃亡したのでしょうか。

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東海の彼方

琅邪は山東半島の南にありますが、渤海湾は山東半島の北側です。始皇帝は渤海湾に突き出た之罘山の沖で大きな魚を射殺していますから、徐福や盧生が行くのなら渤海湾の中のはずです。確かに山東半島と遼東半島の間には廟島群島が存在しますが、そこは不老不死の薬も金銀の宮殿もなく、神仙も住んでいない現実の土地です。

なんらかの超自然的なポータルがあり、オヒガンへ繋がっていた、とかいうオカルティックな可能性を除外すれば、渤海湾に出現する蜃気楼を神仙の島だと誤解・喧伝したというのが現実的で妥当なところでしょう。方士たちは古今東西の魔術師や錬金術師と同じく、パトロンをだまくらかしてその気にさせ、金品や衣食住をせしめるのが得意な「捕まっていない詐欺師」ですから、蜃気楼が自然現象による幻であることぐらいは百も承知です。

では、なぜ始皇帝の資金援助を取り付けて船を作らせたのでしょう。やはり東海の彼方の新天地へ亡命し、秦の圧政を逃れようとしたというのが、これまた現実的で妥当なところでしょう。詐欺師は自分の詐欺を信じてはいけませんが、目の前の金銭や財宝に目がくらむようでは三流です。信者を率いて約束の地へ移住し、新世界の王となる、これぞ男のロマンというものです。9年の間に移住の準備をし、入念な調査を行っていたのかも知れません。

それでは、東海の彼方に新天地はあるのでしょうか。山東半島を北に渡れば遼東半島がありますし、東へ向かえば朝鮮半島があります。ここには秦の手は伸びていなかったでしょうか。

燕国春秋

遼東半島と朝鮮半島には、戦国時代に燕国が進出しています。燕は殷周革命と三監の乱ののち周の王族(姫姓)が現在の北京(薊、燕京)付近に封建された国とされますが、呉が姫姓を名乗った程度には箔付けくさく、もとは地元の有力者だったのでしょう。また燕(匽・奄)はもと魯(山東省曲阜市)にあったともいい、殷商や嬴姓諸侯の始祖神話が「玄鳥(鵲・燕)の卵を呑んだ女性が始祖を孕んで産む」という同じ話であることからも、燕は殷や東夷の影響が強い勢力の土地(北狄)であったことが推察できます。

燕が建国された頃、その南の河北省廊坊市固安県には「」という国がありました。これも周の王族が封建されたとされますが怪しく、現地の部族を同族ということにして味方につけたのでしょう。三監の乱の時にも北方諸侯は周に背かず、平定後に粛慎氏が朝貢したという伝説もありますから、婚姻政策などで早くから周と同盟を結んでいたものと思われます。

「韓」とは車によって邑の周囲を巡り監視することを表す文字で、北方の辺境であるこの地には北狄の侵略を防ぐため、そのような役目の国邑が置かれたのでしょう。韓は燕の同盟国となり、一部の民は西方の韓原(陝西省渭南市韓城)に遷されましたが、戦国時代の韓氏は先祖がこの地に封建されたことからそう名乗ったとされます。燕人には名門貴族として韓氏を名乗る人が多く、秦末には韓広という人が自立して燕王となっています。

燕の東、唐山市から遼寧省朝陽市にかけては孤竹国があり、殷の同族を名乗っていましたし、唐山市遷安県には令支、天津市薊県には無終、朝陽市南西部のカラチン左翼モンゴル族自治旗には箕(き)という都市国家がありました。これは殷の王族・箕子が封じられた朝鮮国(箕子朝鮮)のことともいい、実際に「箕侯」の銘文を持つ殷末周初の青銅器が出土しています。

これらの諸侯国の北には「山戎」と総称される遊牧民の諸部族がおり、互いに争っていました。彼らは東胡と隣接して住み、烏桓・鮮卑・契丹・モンゴル人の遠い先祖と思われ、牛馬や羊を放牧していました。紀元前663年、山戎が燕を攻撃したので、斉の桓公は救援要請を受けて出兵し、燕を救ったと記録があります。また斉の軍は孤竹国に至り、令支・無終を滅ぼしました。

これら殷系諸侯の遺民がさらに東方(遼東や朝鮮)へ遷り、のちに「朝鮮」と称する国を興したのではないか、とも考えられます。前1000年頃から前500年頃まで、遼寧地域には「夏家店上層文化」が存在し、牧畜民を主体とする青銅器文化が栄えました。これは中国史料でいう東胡・山戎であると考えられ、朝鮮半島にも分布する琵琶形(遼寧式)銅剣を特徴とします。朝鮮や濊貊(夫余・高句麗・沃沮・百済)はこれらの分派でしょうか。

春秋時代の燕国の記録は極めて乏しいですが、斉と同盟して山戎の侵攻を防ぎ、中原と北狄の間にあって交易(糴)を行い、独自の文化を育みました。

燕国興亡

前333年から田斉の宣王は燕の混乱に乗じて燕に侵攻し、領土を奪います。前323年に燕の君主は王を称したものの、前314年には混乱が激しくなり、田斉は再び侵攻して燕王を殺害、燕の全土を征服しました。前312年、趙の武霊王は列国と結んで斉に圧力をかけ、燕から撤退させ国を復興させました。こうして燕王となった平(昭襄王、昭王)は、斉に復讐するため家臣の郭隗の進言を用いて人材を召し集め、富国強兵を進めます。

彼はまず将軍の秦開を派遣して北の東胡を撃ち、千里(400km)も退かせて上谷(保定)・漁陽(密雲)・右北平(薊県)・遼西(錦州)・遼東(遼陽)の5郡を設置しました。また造陽(宣化)から襄平(遼陽)までの東西2000里(800km)に長城を築き、朝鮮(平壌)・真番(韓国)を略属しました。交易路を抑える要地に城塞や関所を建て、兵と官吏を置いたのです。

自始全燕時、嘗略屬真番・朝鮮、為置吏、築鄣塞。(史記・朝鮮列伝

前286年、燕は外交官の蘇秦を用いて趙・魏・秦・韓と同盟し、反斉包囲網を形成します。前284年には将軍の楽毅に五カ国連合軍を率いさせて斉に侵攻させ、たちまち70余城を奪って斉をほとんど滅ぼしました。この全盛期の燕を「全燕」あるいは「鉅燕(巨大な燕)」といいます。

『山海経』海内北経には「蓋国は鉅燕の南、倭の北に在り。倭は燕に属す」という一節があります。倭を対馬以南のいわゆる倭地の倭人とすれば、蓋国とはその北で燕の南、韓国の南部(のちの辰韓・弁辰)になるでしょうか。

しかし前279年に昭王が薨去し、子(恵王)が即位します。彼は斉の将・田単の流した「楽毅は斉王になろうとしている」というフェイクニュースにころりと騙され、楽毅から軍権を取り上げて更迭してしまいます。楽毅は趙に亡命し、田単はたちまち70余城を奪還して斉を立て直しました。これより燕は勢力が衰え、斉や趙に圧迫されるようになります。それでも遼東・朝鮮・真番に及ぶ交易ルートは確保し続けました。

前228年、秦は「燕を救う」と称して趙を攻め、その首都邯鄲を陥落させて趙を滅ぼし、燕と国境を接することになりました。秦は翌年燕を攻め、兵を燕の南境の易水に臨ませて威嚇します。燕の太子丹は降伏の使者と偽り刺客の荊軻を派遣して秦王政を暗殺させようとしますが、失敗に終わります。

荊軻が暗殺に用いたのは毒を塗った匕首(ひしゅ、短刀)で、「趙人徐夫人の匕首」と呼ばれています。太子丹は天下で最も鋭い匕首を求め、これを百金(100万銭≒3億円)で買いました。そして職工に薬を焼き付けさせて罪人で試し斬りさせたところ、糸筋ほどの血が流れただけでみな即死したといいます。斉人の徐福とは無関係と思いますが、FGOの徐福ちゃんが女性で即死攻撃を放ってくるのは、そこらへんも踏まえているのでしょうか。

前226年、激怒した秦は王翦らを大将として燕を攻め、燕王喜と太子丹は薊都を捨てて遼東へ逃げ込みます。太子丹は燕王喜に斬首され、首は秦に和を請うため送られました。遼東の燕は数年生き延びたものの、前222年に秦は遼東を攻めて喜を捕らえ、ここに燕国は滅びました。

秦代遼東

秦は燕の首都付近を広陽郡とし、燕が置いた東方5郡を接収しました。また朝鮮半島に置かれた燕の要塞は上障・下障の二箇所にまとめられ、遼東郡の外徼(境の外)に属することとなりました。朝鮮・真番、その南の倭についても、朧げながら情報が入って来てはいたはずです。

秦滅燕、屬遼東外徼。(史記・朝鮮列伝)

当時はこのような状況ですから、遼東半島はもちろん朝鮮半島に逃げ込んでも、秦の監視網に引っかかって通報されてしまいます。これらの地には確かに「平原廣澤」が存在しますが、徐福らが亡命するのならもっと遠くを目指す必要があります。第一、のちに漢がこの地を領有しますが、これらの地に「徐福らが来た」という話は、当時の史書には全く伝わっていないのです。

なお徐福とは別に始皇帝に仕えた方士らには、盧生、侯公、韓終、石生らがいます。また彼らの先人として宋無忌、正伯僑、充尚、羨門高、最後らもいますがみな燕人で、羨門高は先に三神山へ到達して仙人になったと信じられていたようです。盧氏は姜斉の公族の子孫とされますから、先祖が斉から燕へ移住したものと思しく(後漢末の盧植は幽州涿郡涿県、河北省保定市涿州市出身です)、韓氏は上述のように燕の南にあった国を出自とします。朝鮮半島南部をと呼ぶのは、燕人の韓氏が多く移民したからではないか、とする説もあるようです。

もっとも『魏略』『三国志』などによれば、辰韓・弁辰では古い中国語(秦語)が通じ、自ら「秦からの亡命者である」と称していました。これは箔付けの後付けで、実際は漢の武帝が設置した真番郡の住民としてチャイナの本土から移住させられた殖民の子孫だからです。のちに倭国へ渡来帰化した秦人や漢人も、こうした半島南部のチャイナ系住民の子孫です。あるいはその中に徐福らの子孫もいたかも知れませんが、同時代の記録はありません。

また徐福や盧生らにとって、秦は自分たちの祖国を滅ぼした憎き仇敵です。彼らが自ら「秦氏」を名乗るとは考えづらくもあります。まあ匈奴など非チャイナ系諸族では在外チャイニーズを「秦人」と呼んでいたようですから、現地の真番や倭からそう呼ばれた可能性はありますが。

こう見ると、徐福らの目的地は朝鮮半島とは考えにくくなります。秦の軍隊が長城に駐屯している遼東半島ではまずないでしょう。朝鮮半島南端にフロンティアを見つけて定住した可能性もありますが、その南、海の彼方の済州島や日本列島は目指さなかったのでしょうか。あるいは琅邪から東南へ向かったとすると、風や潮流に流されてもっと南へ向かった可能性はないでしょうか。もう少し文献上の徐福伝説を漁ってみましょう。

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【続く】

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