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【つの版】倭の五王への道09・七支刀

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

帯方郡の故地に、高句麗から分離独立して百済が建国されました。高句麗が遼西・遼東の燕国に敗れたためで、生まれたばかりの百済は燕に服属して安全保障を求めます。燕が高句麗を抑えている限り百済は安全ですが、そうでなければ高句麗はたちまち攻め込んで来るに違いありません。

◆しちしとう◆

◆はにわ◆

燕国隆盛

348年、燕王慕容皝が急逝し、子の慕容儁が跡を継ぎます。349年、後趙では皇帝の石虎が崩御し、跡継ぎを巡って内戦状態に陥り、事実上崩壊します。燕はこれを好機として中原に侵攻、350年に薊県(北京)を奪って遷都します。華北では冉閔が後趙を滅ぼし冉魏を建てますが、352年に燕に滅ぼされ、慕容儁は皇帝を称して東晋から独立、元璽と建元しました。翌353年には後趙・冉魏の都であった鄴(河北省邯鄲市臨漳県)に遷都します。

東晋は347年に成漢を併合して巴蜀を奪還しています。また後趙の崩壊後、陝西では氐族のが勢力を伸ばし、燕や東晋の侵攻を阻みました。ちなみに山東や河南は後趙の残党(段龕周成ら)が東晋を後ろ盾として頑張っており、記事の地図とは勢力図が異なります。東晋は棚ぼたで山東と河南を得た形です。山西省では張平が自立し、秦燕晋の間をフラフラしています。

燕の重心は遼寧から中原へ大きく遷りましたが、高句麗を抑える力は強まる一方で、355年に高句麗は燕に恭順し征東将軍・営州刺史・楽浪公・高句麗王に封じられています。晋書は東晋を正統とするため記録にありませんが、百済も朝貢したでしょう。そして燕の覇権の下、ひとまず安心して勢力を固めることができました。帯方郡が復活した形になったので弁韓や辰韓、倭国も一安心です。相変わらず倭国は弁韓から鉄や威信財を仕入れ、産物を輸出していたはずです。

百済と倭国

『日本書紀』によると神功皇后摂政46年丙寅(西暦246年、60年干支を2巡=120年繰り下げて西暦366年)3月、斯摩宿禰が卓淳国(慶尚南道昌原郡)に派遣されました。国王の末錦旱岐が言うには、「甲子の年(244年→364年)の7月に、百済人が3人我が国に来て『東方に日本(倭国)なる貴い国があると聞いて来ました。道を教えて下さい』と申しました。私が『海の彼方にあって道も遠いので、船がなければ』と答えると、『帰国して船を準備します。日本からの使者があればお知らせ下さい』と告げて帰りました」とのこと。そこで斯摩は従者と卓淳国の人を百済に遣わし、肖古王を慰労しました。王は喜んで使者を迎え、五彩の絹1匹、角の弓矢、鉄の延板40枚を与えて帰らせたといいます。これは百済が『日本書紀』に登場する初めです。

翌47年丁卯(247→367年)4月、百済の王は使者を初めて日本(倭国)に遣わし、朝貢しました。時に(三韓征伐で従った)新羅の使者も一緒に来ましたが、百済の贈物は乏しくて質が悪く、新羅のものは数多く珍品でした。これを百済の使者に問うと「実は新羅が我らを監禁し、贈物を取り替えてしまったのです」といいます。そこで千熊長彦(職麻那那加比跪)を新羅に遣わして詰問させました。

神功49年己巳(249→369年)3月、日本(倭国)は上毛野氏の荒田別鹿我別を将軍とし、百済の使者らと共に兵を整えて海を渡り、新羅を攻撃しようとしました。しかし兵力が少なかったので、木羅斤資と沙沙奴跪に命じて兵を集め、卓淳に集って新羅を撃破します。

さらに比自本(慶尚南道昌寧)・南加羅(慶尚南道金海市、狗邪韓国)・㖨国(慶尚北道慶山)・安羅(慶尚南道咸安)・多羅(慶尚南道陝川)・卓淳・加羅(慶尚北道高霊)の七国を平定し、西に進んで古渓津(全羅南道康津郡)に至り、南蛮の枕彌多礼(耽羅国、済州島)を屠って百済に賜りました。百済の肖古王と王子貴須(近仇首王)は迎えに赴き、比利(全羅南道羅州)・辟中(全羅北道金堤)・布弥支・半古の4邑も降伏しました。そして百済王は意流村で荒田別・木羅斤資らを迎え、辟支山と古沙山(全羅北道金堤市と井邑市古阜)に登って盟を結びます。これより使者の往来が数年続き、52年壬申(252年→372年)、七枝刀・七子鏡などの珍宝を百済が献上したといいます。

これらの記事は『百済記』という逸書を元に『日本書紀』の編者が造作したもので、神功皇后を卑彌呼や臺與にあてるため年代を120年も遡らせています。この話の骨子は、西暦366年頃に倭国と百済が初めて通好し、使者を送りあい同盟を結んで贈物をしたということで、百済の贈物を新羅が奪ったとか、新羅・加羅・耽羅を攻めたなどというのは後世の付け足しです。百済も倭国に服属・朝貢したわけではなく、対等の立場で同盟を結んだのですが、倭国(と日本書紀編纂者)が朝貢と認識して書き換えただけです。

『三国史記』では百済が倭国と結んだ等という話はなく、366年に新羅を服属させたとしています。実際この時に倭国が慶尚道や全羅道へ派兵したかは疑わしく、百済がこれらの地域に使節や将兵を送って服属させたのを、後から倭国(日本)の手柄だと書き換えたのでしょう。しかし倭人は古来対馬を介して弁韓と往来していましたし、三韓(慶尚道や全羅道)に住み着いて地元住民と混血した人々もいたはずです。彼らが百済の傭兵となったのでしょうか。新羅については後で述べます。

また百済からすれば、三韓の東南の海の彼方に倭国という大国が存在し、漢や魏晋と使節を往来させていたことは、旧帯方郡に残された文書や役人を介して知識として知っています。倭人も弁韓を通じて百済と接触があったでしょう。臺與はおそらく親晋倭王の印綬を受けていますが、当時の倭国が東晋と交流したかは不明で、百済を介して燕と交流があったかも知れません。百済は高句麗と対峙するため背後を脅かされてはなりませんから、南の三韓を平定し、ついでに倭国にも挨拶して友好関係を結んだことでしょう。海の彼方からの援軍はまだ期待薄です。

七支刀

この時の百済と倭国の同盟が嘘でない証拠に、日本書紀にある「七枝刀」は日本に現存します。奈良県石上神宮に伝わる国宝「七支刀」です。

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六本の枝が突き出た異様な形状もさることながら、刻まれた銘文も貴重な歴史資料です。そこには表裏にこうあります(■は欠落)。

泰■四年五月十六日丙午正陽造百錬■七支刀■辟百兵宜供侯王■■■■祥
先世以来未有此刀百濟■世■奇生聖故為倭王旨造■■■世

文に関して諸説ありますが、「泰■四年」とはおそらく晋の元号である太和(泰和)四年で、西暦369年にあたります。燕の元号では建熙十年です。他の鉄剣の文を参考にすれば、

泰[和]四年五月十六日丙午正陽、造百練[鋼]七支刀。[出]辟百兵、宜供侯王。永年大吉祥。/先世以来、未有此刀。百濟王世[子]、[奇]生聖。故為倭王旨造[傳示後]世。
太和4年5月16日丙午の正陽(正午)、百錬鋼の七支刀を造る。出ては百兵(諸々の武器)を避け、侯王に供えるのに宜しい。永年大吉祥。/先世以来、未だこのような刀はない。百済王と世子(王子)は、奇跡的に聖なる晋の世に生まれた。故に倭王のために旨(命令)して(あるいは晋の聖旨によって)造らせた。これを後世まで伝えて示したまえ。

となります。百済王から倭王に贈られた宝物です。もうひとつの宝物である七子鏡は現存しませんが、周囲に7つの突起がついた銅鏡は幾つか出土しており、そのようなものでしょう。暦の計算によると太和4年のこの日は丙午になりませんが、旧暦5月16日は夏の盛りで、丙午は干支共に火行に属し、正陽(正午)は陽気の最も盛んな時刻ですから、実際の作刀月日ではなくて呪文でしょう。詳しくは下記を参照下さい。

4世紀の日韓関係:濱田耕策
https://www.jkcf.or.jp/wordpress/wp-content/uploads/2019/11/1-01j.pdf

チャイナには類似の形状の刀がなく、慶尚北道漆谷郡や釜山などで類似の儀仗用鉄器が出土しているため、百済(ないし百済に服属した三韓)で作られたものと考えられます。目釘孔もないので実際に使用された太刀ではなく、呪術的パワーを表す祭具でしょう。北斗七星を象徴するのかも知れません。

そして「泰和四年」「奇生聖晋」の文字が示すように、百済はこの頃燕を離れて晋(東晋)についていました。何が起きたのでしょう。

桓温北伐

さて、東晋はこの半世紀の間どうしていたでしょうか。建国当初は混乱が続き、各地に軍閥が割拠して手がつけられない状況でしたが、皇帝を担いだ王導が頑張ってまとめ上げ、政権を安定軌道に載せます。339年に王導が逝去すると、庾翼を経て345年に桓温が台頭しました。当時の東晋皇帝は僅か3歳で、会稽王司馬昱が輔佐に当たっていました。

桓温は長江中流域の荊州(湖北省)の軍権を握り、346年から347年にかけての遠征で成漢を滅ぼし、巴蜀・漢中を晋の手に取り戻す大功をたてました。349年に後趙が混乱に陥ると桓温は北伐を主張しますが、朝廷を牛耳る会稽王は殷浩を揚州刺史として対抗し、出兵を踏みとどまらせます。もたもたしているうちに燕が河北を、秦が陝西を占拠してしまいます。351年、桓温は怒って東へ兵を進め、東晋朝廷を威圧します。

恐れをなした会稽王は352年に殷浩を北伐へ差し向けますがうまくいかず、354年に殷浩は失脚、桓温が内外の全権を掌握して北伐を行います。第一次北伐は秦から長安を奪還する目標でしたが失敗し、356年の第二次北伐で洛陽の姚襄を攻め、奪還に成功します。365年に燕は洛陽を奪いますが、すでに桓温は東晋において並ぶ者なき実力者となっていました。東晋の皇帝も361年、365年に次々と代わり、桓温の傀儡でしかありません。

燕では360年に慕容儁が崩御すると、僅か10歳の慕容暐が跡を継ぎます。叔父の慕容恪らが国政を固めましたが、367年に慕容恪が逝去すると奸臣慕容評が実権を握り、内部抗争が起き始めます。桓温の工作もあったでしょう。

369年4月、桓温は江蘇省方面から第三次北伐を開始し、山東省済寧市へ進軍します。七支刀が作られたのは銘文によればこの頃(東晋太和4年5月16日)ですから、これに先立って東晋の使者が百済に山東経由で来て「燕を離れ晋(桓温)に味方せよ」と説得したに違いありません。当然高句麗にも情報が伝わります。桓温が燕に勝てば味方するとしても、桓温が敗北すれば百済を攻める絶好の機会です。南北に緊張が走りますが、海の彼方の倭国にはまださしたる影響はありません。百済を命がけで護るほどの交流もまだないはずです。そのためか、できたての七支刀はまだ倭国に渡っていません。

桓温率いる大軍は河南・山東一帯を悠々と進み、燕の諸将は次々と降伏します。恐れおののく慕容評は、7月に名将慕容垂を総大将に任じて桓温を防がせ、秦に救援を要請しました。慕容垂はまず東晋軍の先鋒を撃破して士気をくじき、9月には兵を分けて各地で糧道を遮断、伏兵を仕掛けて寡兵で大軍を撃ち破りました。東晋軍は総崩れとなり撤退します。

雉壌・平壌の戦い

『三国史記』百済本紀及び高句麗本紀によれば、高句麗王の斯由(釗、故国原王)は燕の反撃に合わせてか369年9月に百済を攻撃しました。百済王の肖古は世子の貴須(近仇首王)を派遣し、雉壌(黄海南道白川郡、開城の西)でこれを破ります。勝ち誇った百済王は漢水の南で閲兵式を行い、旗幟に黄色(皇帝の用いる色)を用いたといいます。

チャイナでは、桓温がまだ大軍を率いて徐州に留まっていました。燕では慕容評と慕容垂の権力闘争が激しくなり、369年11月に慕容垂は秦へ亡命します。秦の皇帝苻堅は大喜びして彼を将軍とし、翌370年正月に洛陽を奪います。さらに5月に王猛を総大将とする大規模な東征軍を興すと、11月に鄴を陥落させ、燕はあっさり滅びました。慕容評は脱出して高句麗へ亡命しますが、高句麗は彼を捕縛して秦へ送りました。秦は高句麗を服属させ、遼東までも勢力を及ぼします。

371年、秦を後ろ盾とした高句麗は百済を再び攻めましたが、百済は伏兵を儲けて撃退しました。冬10月、百済王肖古と世子貴須は共に兵を率いて高句麗へ侵攻し、平壌城を包囲します。高句麗王の斯由は力戦してこれを防ぎますが、流矢に当たって戦死しました。しかし百済には平壌を落とすだけの力はなく、高句麗では王子の丘夫(小獣林王)が立てられて百済軍を撃退します。百済は兵を引くと漢江北岸の漢山に都を遷しました。

『三国史記』は1145年の編纂ですから記述を鵜呑みにはできませんが、『魏書(北魏書)』には百済王余慶が北魏に上表した文章が引用されており、そこにこうあります。

延興二年、其王餘慶始遣使上表曰…「臣與高句麗源出夫餘、先世之時、篤崇舊款。其祖釗輕廢隣好、親率士眾、陵踐臣境。臣祖須整旅電邁、應機馳擊、矢石暫交、梟斬釗首。自爾已來、莫敢南顧。…
延興二年(西暦472年)、百済王の余慶が(北魏に)初めて遣使し、上表して言った…「私めと高句麗は源を夫余に出、先祖代々仲良くしていました。しかし今の高句麗の先祖である釗(斯由)が軽々しく友好関係を廃し、自ら軍隊を率いて我が国の境を侵犯しました。私めの先祖である須(貴須、[近]仇首王)は軍隊を率いて迎撃し、釗を討ち取りました。それ以来、高句麗は敢えて南(百済)を顧みようとしませんでした。…

この記事から、『三国史記』の記述が事実であると確かめられます。

東晋、百済、そして倭国

(咸安)二年春正月辛丑、百濟、林邑王各遣使貢方物。…六月、遣使拜百濟王餘句爲鎮東將軍、領樂浪太守。(晋書簡文帝紀)

そして咸安2年(372年)正月、百済は初めて東晋に朝貢します。山東半島は動揺していますから、その沖を通って江蘇省についたのでしょうか。6月には前述のように鎮東将軍・領楽浪太守に任命され、秦に服属する高句麗に対して朝鮮半島南部を護る役目を与えられました。東晋の実権を握る桓温にとっては、北伐失敗で傷ついた威信を少しは回復させたでしょう。

また同年には七支刀が倭王へと贈られ、東晋・百済・倭国は共同して秦や高句麗に対抗するという国際関係が作られました。まあ倭国にはあまり関係のないことですが、百済を介してチャイナの正統王朝、それも臺與が金印紫綬を賜った晋と再び国交を結ぶことができたのは、倭王にとっては大きな権威づけとなったでしょう。また百済王にとっても、海の彼方の倭国からの使節は、内外に対する権威づけとして大いに役立ったことでしょう。

もし倭国が臺與の死後に崩壊し、北部九州か奈良盆地を治めるだけの小国に逆戻りしていたら、このような使節は送られていたでしょうか。また七支刀が北部九州を遠く離れた、ヤマトの石上神宮に納められていたでしょうか。百済や夫余や三韓から誰かが倭地に入って新たに王になったのなら、百済がチャイナにそう報告しないはずもありません。卑彌呼以来の邪馬臺國を盟主とする倭国連合は断絶せず、存続していたのです。

この時の倭王は誰でしょうか。神功皇后は存在が怪しいので、彼女の子とされる応神天皇(ホムダワケ)でしょうか。前に崇神・垂仁・景行・成務の四代を248年から368年までの120年間にあてましたが(一世代30年)、成務の後は仲哀・神功・応神・仁徳と続いています。おそらくは応神か仁徳に相当する王で、佐紀に宮を持っていたでしょう。七支刀が瀬戸内海ルートと日本海ルートのどちらを通ったかわかりませんが、倭王のもとに届いたのです。

『三国史記』によると(近)肖古王は西暦375年11月に在位30年で逝去し、世子の(近)仇首王が即位しました。また同書に引く古記によると「百済は開国以来文字がなくて記述できなかったが、近肖古王の代になって博士の高興を得、初めて文字(漢字)が伝わった」といいます。これは(近)肖古王の時代が、百済の実際の歴史の始まりであることを表すと思われます。

一方『古事記』では、応神天皇の治世に百済の照古王が馬1つがいと論語・千字文などの書物を応神天皇に献上し、阿知吉師と和邇吉師(王仁)を使者として日本に遣わした、とされています。ただし『千字文』の成立は6世紀初頭の南朝梁でのことです。

◆Welcome to◆

◆The Jungle◆

こうして、倭国は百済によって、再び東アジアの国際社会に引き込まれました。チャイナの南側には孫呉ならぬ東晋、北側には魏ならぬ秦がおり、高句麗も百済もその鼻息を伺って、生き残りをかけた争いを続けています。倭国はどのようにこうした状況へ関わっていくのでしょうか。

【続く】

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