見出し画像

【つの版】度量衡比較・貨幣54

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。

 スペインが大西洋の彼方の地を探索する一方、ポルトガルは着々とインド洋へ進出し、軍事力をもって航路上の国々を屈服させます。インド洋は艦砲射撃が飛び交う戦乱の時代へと突入するのです。

◆ONE◆

◆PIECE◆

東洋遠征

 1501年7月、カブラルがポルトガルへ帰国すると、国王マヌエル1世は報告を受けて「カリカットに報復する」と宣言し、新たな遠征隊を編成し始めます。しかしカブラルはヴァスコ・ダ・ガマとの派閥争いに敗れて失脚し、彼に代わってヴァスコが再び遠征隊の総指揮官に任命されます。カブラルは病気もあって年金を受けながらの隠居生活に入り、1520年に死去しました。

 また1501年3月頃にはガリシア出身のジョアン・ダ・ノヴァらを4-5隻の船で派遣し、ヴァスコらとほぼ同じルートでインドへ向かわせています。彼は南大西洋に浮かぶアセンション(当初はコンセイソン/受胎)島、モザンビーク海峡のフアン・デ・ノヴァ島を発見し、8月ないし11月にインドに到達しました。彼はカリカットの領主(ザモリン)と会見して謝罪を受け、カナノールなどで香辛料を買い付けて帰還しようとしますが、年末にザモリンの艦隊による襲撃を受けます。ノヴァは艦砲射撃でこれらを撃退し、インドを離れて1502年9月に帰国しました。積荷が少なかったためあまり評価はされませんでしたが、彼はセイロン島(スリランカ)に到達したとも、帰路に南大西洋でセントヘレナ島を発見したとも言われています。

 1502年2月、ヴァスコはポルトガル艦隊を率いて二度目の遠征に出発します。彼自身は10隻を、叔父のビセンテ・ソドレは5隻を率い、従弟のエステバンは4月に5隻を率いて後を追います。一行は前回と同様のルートを通って6月にモザンビーク島に達し、座礁した1隻を捨てて新たな船を建造しつつ、ソファラなど周辺都市を探索して条約を結んでいます。ポルトガルはモザンビークに船の工場を、ソファラに大使館を置き、継続的にインド洋での貿易が行えるようになりました。

 また7月12日にキルワに到着すると、カブラルらポルトガル船に敵対的であったとして市街地に艦砲射撃を行い、降伏させます。ヴァスコは降伏を受諾してキルワをポルトガルの朝貢国とし、毎年584クルサード(クルサード≒ドゥカート≒12万円として7008万円)を納めるよう命じました。さらにインド洋を横断してインドに到達すると、ポルトガルに友好的なカナノールやコーチンと同盟してカリカットを脅しつけ、損害賠償とイスラム教徒の追放を要求します。ザモリンがこれを拒むとヴァスコらは海上封鎖を行い、市街地やカリカットへ向かう船に艦砲射撃を行い、多数を死傷させます。

 激怒したザモリンは1503年初めに100隻近い船を出して反撃してきたため、ヴァスコらはカリカットを離れてコーチンやカナノールに向かい、追ってきたザモリンの艦隊を撃破し、多量の香辛料を満載して帰国の途につきます。4月にオマーン沖で嵐に遭い、ソドレは船とともに沈没して死にましたが、10月に帰国したヴァスコらは大歓迎されます。彼は年金を40万レアル(1000クルサード≒1.2億円)増額された上、功績によって伯爵に叙勲され、領主貴族となることが決まりました。

南洋戦乱

 インド洋に進出してきたポルトガル人に対して、古くからこの地域で貿易を行ってきたイスラム教徒らは猛反発します。特にエジプトを支配するマムルーク朝は、インドでエジプトの商船がポルトガル人に襲撃されて沈没したことに激怒し、1504年にスルタンのカーンスーフはローマ教皇へ抗議の書簡を送っています。彼は「ポルトガル人の横暴を止めさせなければ、パレスチナやシナイ半島などに居住するキリスト教徒を迫害する」と脅迫し、ポルトガルの商売敵であるヴェネツィアとも同盟条約を締結します。

 ヨーロッパへ輸出される東方の香辛料や香料等のルートは、ながらくヴェネツィアが牛耳っていました。彼らはキリスト教徒でありつつ商売を第一とし、異教徒のイスラム教徒とも平気で取引しています。特にオスマン帝国を牽制するため、ペルシアやエジプトとは友好関係を結んでいました。そのエジプトの交易路が南からポルトガルに軍事力で脅かされているのですから、交易立国ヴェネツィアにとっては死活問題です。

 これに対し、ポルトガルは貴族フランシスコ・デ・アルメイダを3年期限の「インド副王」に任命し、インド方面における外交・戦争・司法の全権を委任して派遣しました。1505年3月、彼は22隻の艦隊を率いて出航し、7月にスワヒリ諸国に到達、反抗するキルワやモンバサを砲撃して制圧しました。さらにマリンディを経由して9月にインドに到達し、カナノールやコーチンを服属させ、コーチンの君主にポルトガルから持ってきた王冠を授けて属国としました。カリカットのザモリンは周辺諸国に援軍を呼びかけ、1506年にイスラム教徒らによる連合艦隊がコーチンに侵攻しますが、アルメイダは艦砲射撃で撃破します。

これに続いて1506年、トリスタン・ダ・クーニャと従兄弟のアフォンソ・デ・アルブケルケ率いる15隻のポルトガル艦隊が追加で派遣され、エジプトとインド洋を繋ぐ紅海の出入口を塞ぐ作戦を開始します。二人はスワヒリ諸国を経由して1507年にソコトラ島を制圧し、アルブケルケは北上してオマーン湾に到達、ペルシア湾の出入口のマスカットやホルムズを占領します。いまやインド洋の西部・アラビア海沿岸はポルトガルに制圧されたのです。

 1507年、クーニャはソコトラ島経由でエチオピアに使者を派遣し、長年エチオピアにとどまっていたポルトガル人ペドロ・ダ・コヴィリャンを発見しました。彼は1487年に国王ジョアン2世の命令を受け、バルセロナ、ナポリ、ロドス島、アレクサンドリア、カイロを経てエチオピアを目指しましたが、コヴィリャンは途中で紅海に出てインドに向かい、カリカット、ゴア、ホルムズ、ソファラを経て、1491年にカイロに戻りました。
 コヴィリャンはポルトガルから派遣されたユダヤ人にインドとアフリカの様子を伝えた後、紅海を横断してアラビア半島やシナイ半島を経巡り、1494年にエチオピアに到達して、皇帝エスケンデル(コンスタンティノス2世)に謁見します。皇帝は確かにキリスト教徒(エチオピア正教会)で、すでに多くのイタリア人が国内にいましたが、彼ら外国人は国外へ出ることを許されず、コヴィリャンも祖国に戻れぬまま13年が経過していたのです。

 クーニャとアルブケルケ、アルメイダらは、ソマリアのムスリム王国アジュラーンやインドのカリカット王国、代替わりによってカリカット側についたカンナノール王国、グジャラート王国、さらにはエジプトから派遣された艦隊と戦いを繰り広げます。オスマン帝国も同じムスリムのよしみでマムルーク朝を支援し、インド洋での戦争はキリスト教対イスラム教の聖戦の様相を呈しました。この戦争でアルメイダの息子ロウレンソが戦死しますが、1509年2月にポルトガルが勝利をおさめ、カリカットに商館を建設します。

 アルメイダはコーチンに戻るとインド副王として権力を握り続けますが、彼の任期はすでに切れており、アルブケルケが後任として国王から任命されていました。またアルメイダは費用のかかる陸上拠点の確保に消極的だったため、アルブケルケとはこの点でも対立しました。アルブケルケは一時投獄されますが、ポルトガルから派遣された人物が調停に入り、1509年11月にアルメイダは副王の位をアルブケルケに引き渡して帰国の途につきます。彼は1510年3月、喜望峰付近で先住民の襲撃に遭遇し戦死したといいます。

印度占領

 ポルトガル本国は強大な権力を一人に与えれば危険と考え、喜望峰からグジャラートまでの海域をホルヘ・デ・アギアルに、インド本土をアルブケルケに、その東をディオゴ・ロペス・デ・セケイラに任せました。セケイラの船団は1508年4月にポルトガルを出発し、翌年9月にマラッカ王国に到達します。

 マラッカ王国は、15世紀初めにイスラム教に改宗したパラメスワラ王により建国され、交通の要衝たるマラッカ海峡を抑えて1世紀にわたり繁栄していました。その都にはアラビア、ペルシア、オスマン帝国、アルメニア、インド、ビルマ/ミャンマー、シャム/タイ、ペグー、ルソン、チャイナ、琉球などの人々が集まり、莫大な富を得ていたといいます。マラッカ王マフムード・シャーは当初ポルトガル人に友好的に接し、交易と商館建設を許可しますが、西方におけるイスラム教徒とポルトガル人との争いを聞きつけて態度を硬化させます。マラッカ王は奇襲をかけてポルトガル人を捕縛・殺害し、セケイラは這々の体でインドへ脱出しました。

 一方アルブケルケは、1510年にカリカットを攻撃して失敗したのち、近隣の重要港ゴアを攻撃し、12月に占領して植民地とします。ゴアはイスラム教国ビジャープルの領土でしたが、ポルトガルはその軍隊と周辺諸国の援軍を打ち負かして公的に譲渡させたのです。以後ゴアはインド副王の所在地となり、ポルトガル領インドの統治の拠点となります。

 さらに1511年には、セケイラへの攻撃の報復としてマラッカ王国へ遠征します。マラッカ王国はカネの力で多数の傭兵や戦象を雇用し、またジャワなどから輸入した多数の火縄銃大砲で都を防衛しており、攻め落とすことは難しく思われました。しかしアルブケルケはヒンドゥー教徒やチャイナ人など非ムスリム勢力を味方につけ、7月から8月まで1ヶ月近い戦闘ののち、スルタンを逃走させました。

 スルタンは侵略者が掠奪後に都を出るのを狙って奪還しようとしたのですが、アルブケルケはそれを見抜いて恒久的にポルトガル軍を駐留させ、ヒンドゥー教徒のニーナ・チャトゥを都市の統治者に任命して、非ムスリムへの優遇政策をとります。こうしてポルトガルは僅かな期間でインド洋の東西を制圧し、マラッカ海峡の東側にまで進出し始めるのです。

◆ONE◆

◆PIECE◆

【続く】

つのにサポートすると、あなたには非常な幸福が舞い込みます。数種類のリアクションコメントも表示されます。