【つの版】倭の五王への道15・河内王権
ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。
倭・百済連合と高句麗の戦争は、高句麗優位のうちに一旦終結しました。三国は東晋の実権を握る劉裕、彼が建国した南朝宋(劉宋)に朝貢し、国際的承認と親善を求め、外交の場でマウントを取り合います。
◆応◆
◆神◆
劉宋への朝貢
422年5月に宋の高祖武帝劉裕が崩御すると、皇太子の劉義符が跡を継ぎました(少帝)。北魏は武帝崩御を聞いて宋に侵攻しますが、423年4月に宋の将軍・檀道済がこれを撃退し、北魏の明元帝拓跋嗣は同年11月に崩御します。跡を継いだ拓跋燾(太武帝)は北方の柔然、西方の夏との戦いに力を注ぎ、宋はひとまず平和となります。
ただ劉義符は軽薄な行いが多く天子に相応しくないと群臣にみなされ、424年9月に廃位されて弟の劉義隆(太祖・文帝)が擁立されました。文帝は以後30年近く在位して宋を治め、その治世は一度も改元しなかった彼の元号をもって「元嘉の治」と讃えられます。
両国は衝突しつつも併存し、439年には北魏が華北を統一したため、これより隋の南北統一までを「南北朝時代」と歴史上は呼びます。
さて、皇帝や王が代替わりすれば朝貢使節がやって来ます。『宋書』夷蛮伝東夷条を引き続き見ていきましょう。まず高句麗です。
少帝景平二年、璉遣長史馬婁等詣闕獻方物、遣使慰勞之、曰「皇帝問使持節、散騎常侍、都督營平二州諸軍事、征東大將軍、高句驪王、樂浪公。纂戎東服、庸績繼軌、厥惠既彰、款誠亦著、踰遼越海、納貢本朝。朕以不德、忝承鴻緒、永懷先蹤、思覃遺澤。今遣謁者朱邵伯、副謁者王邵子等、宣旨慰勞。其茂康惠政、永隆厥功、式昭往命、稱朕意焉。」
少帝の景平二年(424)、璉は長史の馬婁らを遣わし方物を献じた。少帝はこれを慰労し、告げた。「皇帝は使持節・散騎常侍・都督営平二州諸軍事・征東大将軍・高句麗王・楽浪公に挨拶する。あなたは先人の功績を受け継いで、恵みは既に明らか、忠誠は著しく、遼河と海を越えて本朝に貢納した。朕は不徳を以て忝なくも皇位を継承し、先帝の跡を長く懐かしみ、遺されためぐみを思うものである。いま謁者の朱邵伯、副謁者の王邵子らを遣わして慰労させる。云々」
長々とお褒めの言葉を授かっています。これに対し、百済はこうです。
少帝景平二年、映遣長史張威詣闕貢獻。
少帝の景平二年(424)、余映は長史の張威を遣わして貢献した。
味も素っ気もありません。しかし皇帝が文帝に代わると、百済もお褒めの言葉にあずかるようにはなります。
元嘉二年、太祖詔之曰「皇帝問使持節、都督百濟諸軍事、鎮東大將軍、百濟王。累葉忠順、越海效誠、遠王纂戎、聿修先業、慕義既彰、厥懷赤款、浮桴驪水、獻深執贄、故嗣位方任、以藩東服、勉勗所位、無墜前蹤。今遣兼謁者閭丘恩子、兼副謁者丁敬子等宣旨慰勞稱朕意。」其後毎歳遣使奉表、獻方物。
元嘉二年(425)、太祖(文帝)は詔して言った。「皇帝は使持節・都督百済諸軍事・鎮東大将軍・百済王に挨拶する。あなたは代々忠義従順であり、海を越えて誠意をあらわした。云々」
文字数をカウントすると、景平2年に高句麗へ賜ったお言葉は句読点を抜いて106、今回の百済へのお言葉は94と高句麗より少ないものの、まあまあ公平に扱われています。
なお、この元嘉2年には倭讚も再び使者を遣わして朝貢しました。百済の使者と一緒に来たのでしょうか。
太祖元嘉二年、讚又遣司馬曹達奉表獻方物。
これだけです。司馬曹達は明らかに倭人の名ではなく、倭国に渡来して倭王に仕えていた漢人と思われます。三韓や百済にいた中国系韓人か、大陸から戦乱を逃れて来た華僑かは判然としません。また姓氏が司馬で名が曹達なのか、司馬が官職名で姓が曹、名が達なのか議論がありますが、後者の説が有力です。司馬は将軍の部下で軍事を司るため、この頃の倭王は宋から将軍の官位を授かっていたともいいますが、あるいは僭称かも知れません。
『宋書』文帝本紀には元嘉7年(430年)春正月に「是月、倭國王遣使獻方物」とあるため、倭国王としては認定されているようですが、この元嘉7年の倭国王が讚かどうかもはっきりしません。
久爾辛王と木滿致
ところで『三国史記』百済本紀や『日本書紀』を確認すると、この頃百済では王が代わっています。腆支王紀には「十六年(420年)春三月王薨」とあり、長子の久爾辛王が即位しましたが、彼の紀には即位後8年目(427年)の12月に薨去したことが記されるだけです。『宋書』にも久爾辛王のことは見えず、「[元嘉]七年(430年)、百濟王餘毘(毗有王)が貢職を復た修め、以て映(餘映=腆支王)の爵號をこれに授けた」とあります。425年の使者は久爾辛王によるものでしょうか。
応神紀にはこうあります。
廿五年、百濟直支王薨、卽子久爾辛立爲王。王年幼、木滿致執國政、與王母相婬、多行無禮。天皇聞而召之。百濟記云「木滿致者、是木羅斤資討新羅時、娶其國婦而所生也。以其父功、專於任那、來入我國。往還貴國、承制天朝、執我國政、權重當世。然天朝聞其暴召之。」
応神25年、百済の直支(腆支)王が薨去し、子の久爾辛が立って王となった。王は年齢が幼く、木満致が国政を執行したが、彼は王の母と相淫し、無礼な行いが多かった。天皇は聞いてこれ(木満致)を召した。『百済記』にいう。木満致は、木羅斤資が新羅を討伐した時、その国の女性を娶って生んだ。彼は父の功績をもって任那で専権を振るい、我が(百済)国に入ってきた。貴国(倭国)と行ったり来たりして天朝(倭王)の制(言葉、命令)を承り、我が(百済)国の政治を取り仕切って、権力は当世に重かった。しかし天朝(倭王)はその暴虐を聞き、これを召し返した。
前に応神16年を西暦405年としましたから、25年はその9年後、414年です。しかし『三国史記』では腆支王の薨去を在位16年目、西暦420年とします。木羅斤資や木満致は倭人っぽくない名ですが、弁韓人か百済人でしょうか。木羅斤資が新羅を討伐した時というと391年頃ですから、満致は392年生まれとすればこの頃20代前半です。475年に百済の大臣として「木刕満致」の名が見えますが、彼が木満致だとすると83歳の老齢です。なお木氏は『隋書』百済伝に「國中大姓有八族、沙氏、燕氏、刕氏、解氏、貞氏、國氏、木氏、苩氏」とあり、その後も栄えていたようです。
応神天皇
日本書紀巻第十 譽田天皇 應神天皇http://www.seisaku.bz/nihonshoki/shoki_10.html
ついでに応神紀を見ていきましょう。応神は『日本書紀』に即位時遷宮の記載がなく、そのまま神功皇后の磐余若桜宮(奈良県桜井市池之内)にいたことになります。行宮に応神22年(西暦411年)に遷った難波大隅宮(大阪市東淀川区大隅)があり、『古事記』では軽島之明宮(奈良県橿原市大軽町)を宮居とします。ヤマトから河内へ移動していたようですが、佐紀にはいません。神功皇后は佐紀の地に葬られています。
応神の皇后は仲姫命といい、景行天皇の曾孫です。彼女は大鷦鷯尊(おほさざき、仁徳天皇)他2人の皇女を産みました。応神の妃には、他に仲姫命の姉妹である高城入姫命と弟姫命、和邇氏の宮主宅媛とその妹、日本武尊の曾孫の息長真若中比売らがおり、景行ほどではありませんが子沢山です。
応神28年(417年)秋9月、高麗王が使者を遣わして朝貢し、上表しました。しかしその表(手紙)に「高麗王、教日本国(倭国)也」と書かれていたため、皇子の菟道稚郎子はこれを読むと怒り、高麗の使者を無礼であると叱責し、表を破り捨ててしまいました。この時期ならありそうな事件です。
応神31年(420年)秋8月、応神5年に作らせた官船「枯野」が26年を経て老朽化し、使い物にならなくなったと報告がありました。群臣はこれを壊して焼き、海水を焚いて500籠もの塩を作り、諸国に下賜して船を作らせたところ、500隻の船が摂津の武庫の水門(港)に集まりました。しかし新羅の朝貢使節が武庫に来ており、そこから失火して多数の船が焼けてしまいます。新羅王はこれを聞いて驚き、船大工を派遣しましたが、これが猪名部らの始祖だといいます。天皇は枯野の焼け残った木材で琴を作り歌を詠みました。
応神37年(426年)には、前に触れたように高麗を経て呉から縫工女を求めました。この年は宋の元嘉3年にあたりますが、前年にあったはずの倭讚の遣使には何も触れていません。応神39年(428年)春2月には、百済の直支王が妹の新齊都媛を遣わして仕えさせ、新齊都媛は7人の婦女を率いていたとあります。直支王(腆支王)は応神25年だかに薨去しているはずですが、久爾辛王の間違いでしょうか。
応神40年(429年)春正月には、皇子の大山守命と大鷦鷯尊に「お前たち、子は愛しいか」と問いました。二人が「はい」と答えると、天皇は「長子と末の子のどちらが愛しいか」と問います。大山守命が「長子です」というと、天皇は不快げな顔つきになります。大鷦鷯尊は顔色をうかがって「長子は既に成人しており、心配いりません。末子はまだ成人するかわからないので、より憐れむでしょう」と答えました。天皇は大いに喜び、賢明な菟道稚郎子を皇太子に立て、彼の異母兄大鷦鷯尊を輔佐に任じたといいます。
菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)は名の通り山城国の宇治を拠点とした「宇治の若い王子」で、実名ではありません。母の宮主宅媛は和邇氏の娘ですから、佐紀王権の派閥です。
応神41年(430年)春2月、応神天皇は111歳で崩御しました。阿知使主らは4年を経て呉から筑紫に戻って来ましたが、天皇が崩御したと聞いて胸形大神(宗像大社)に工女の一人を献上し、残りは摂津国の武庫に留まりました。
応神の陵は河内国の惠我藻伏崗陵で、大阪府羽曳野市誉田(こんだ)の誉田御廟山古墳(5世紀前期)に比定されます。墳丘長425m、後円部径250m、高さ35mとこれまでの大王陵より遥かに大きく、仁徳陵とされる大仙陵古墳に次いで日本第二位の大きさを誇ります。韓地から掠奪・渡来した大量の人員、技術集団、牛馬などを駆使したのでしょう。応神7年(397年)には高麗人・百済人・任那人・新羅人に韓人池を造らせたという記事があります。
仁徳と倭の五王
次の仁徳天皇紀によると、皇太子の菟道稚郎子は即位することを望まず、大鷦鷯尊に皇位を譲りました。異母兄の大山守命は皇位を望んで挙兵しますが皇太子の策略で溺死し、那羅山に葬られたといいます。また菟道稚郎子は3年も即位せず、ついに自ら死んでしまい(古事記では夭折)、大鷦鷯尊はやむなく即位した(仁徳天皇)と書かれています。
明らかに異常で、河内の仁徳が佐紀・山背の王権を攻め滅ぼしたとしか思えません。しかし王統が変わったというわけでもないので、王族内部の権力闘争でしょう。これより倭王の宮や陵は佐紀やヤマトから河内に遷り、葛城の諸豪族がこれを補佐する形になります。いわゆる河内王朝、あるいは「河内王権(政権)」です。仁徳は河内を大いに開発し、巨大陵墓を建設します。
王朝が交代するというのは、東洋では禅譲や放伐による易姓革命(王家・皇室の男系血統がかわり、天命があらたまる)で、通常は国号も変化します。しかし西洋史では、嫡流が断絶して傍系の家から新たに君主が立つ場合でも「王朝交代」とみなします(歴史家による勝手な分類法ですが)。フランスのカペー朝からオルレアン朝に至る諸王朝は、カペー家の男系子孫の嫡流か傍流かの違いでしかないため、東洋的視点ではカペー朝が一系で続いています。継体天皇も応神天皇の5世孫という遠縁ですが、男系血統は(たぶん)続いています。女性天皇ならよくて「女系天皇」はだめというのは、一応は千数百年続いた男系血統が断絶してしまうためです。つのはまあ男系で長年続いてきた「伝統」が絶えるのはもったいないかな、と思う程度です。
応神41年から3年後ですから、仁徳天皇元年は西暦433年癸酉にあたりますが、日本書紀によれば仁徳天皇は87年在位したといいますから西暦520年までになってしまい、辻褄が合いません。上古天皇の在位年数や年代を修正せず機械的に換算すれば、応神天皇は西暦270年庚寅から310年庚午まで、仁徳天皇は313年癸酉から399年己亥まで在位したことになります。西暦413年・421年・430年には允恭天皇が在位していますから、允恭が倭讚にあたるのでしょうか。しかし『宋書』にはこうあります。
讚死、弟珍立、遣使貢獻。自稱使持節、都督倭百濟新羅任那秦韓慕韓六國諸軍事、安東大將軍、倭國王。表求除正、詔除安東將軍、倭國王。珍又求除正倭隋等十三人平西、征虜、冠軍、輔國將軍號、詔並聽。(東蛮伝倭国条)
[元嘉]十五年(438年)…夏四月…己巳、以倭國王珍為安東將軍。…是歳、武都王、河南國、高麗國、倭國、扶南國、林邑國並遣使獻方物。(文帝紀)
西暦438年以前に讚が死に、弟の珍が立ったというのです。この頃に兄から弟へ皇位を伝えた例はあり、『日本書紀』によれば仁徳天皇の子・履中天皇から反正天皇、また反正天皇から允恭天皇へ伝えています。とすれば履中が讚で、反正が珍でしょうか。ただ履中は西暦400年庚子から405年乙巳まで6年、反正は406年丙午から410年庚戌まで5年しか在位しておらず、允恭の在位期間は空位を挟んで412年壬子から453年癸巳まで42年に及びます。
その他の「倭の五王」も日本書紀の年代と薨去・即位年代が一致せず、上古天皇に比定することが難しくなっています。では九州とかに別の倭王がいて勝手にチャイナへ朝貢していたのでしょうか。皇国史観や九州王朝説ならそうなりますが、あれだけの巨大な古墳を築くだけの畿内政権が、チャイナと関係を持つこともなかったのでしょうか。
当然、日本書紀の年代が嘘なのです。応神天皇が70歳から41年在位して111歳だの、仁徳天皇が87年在位して110歳だの、鵜呑みにする方がどうかしています。高句麗に100歳の長寿王がいたからこっちは110歳だとか言っても無駄です。常識的に考えて下さい。こう言うと戦前なら不敬罪でしょっぴかれたかも知れませんが、現代日本は言論の自由があるので大丈夫です。
372年頃に百済の肖古王から七支刀を送られた倭王が、この時30歳だったとしましょう。19年後の391年辛卯に倭国の軍勢が弁韓に上陸した時は49歳、400年庚子に高句麗が新羅を救援した時は58歳、404年甲辰に倭が帯方界へ侵入し高句麗と戦った時は62歳です。年齢的に、そろそろ代替わりでしょう。彼が応神天皇か仁徳天皇に相当します。同一人物を2つに分けたのか、代替わりが早かったのかは判然としません。
倭王讚はその子の代で、次の倭王珍は弟ですから、おそらく日本書紀で言う履中天皇にあたります。珍は反正です。チャイナの史書では倭讚が421年から現れ、438年以前に珍に代替わりしており、少なくとも10年以上は在位していますが、日本書紀では朝貢の事実を隠蔽するため履中の在位期間を極端に縮め、応神・仁徳・允恭の年数を伸ばすことでごまかしたのです。
応神の年代を、引用される百済王の年代に合わせて干支2巡(120年)下げれば、元年庚寅は西暦270年から390年、310年庚午は430年となります。となると讚が応神であるかのようですが、応神の後は子が継いでおり、弟ではありません。また即位年が390年なら372年に七支刀を受け取った倭王は神功皇后になりますが、大の男が18年も69年も母を摂政とし続けるのにも無理があります。要するに、日本書紀の在位年代は嘘っぱちです。
1世代30年で測るに、248年に即位した臺與と、輔佐の男王と思しき崇神天皇が30年在位したとして278年まで。次の垂仁が308年まで、景行が338年までで、成務にあたる倭王が佐紀に遷って368年まで在位します。ちょうど成務の次の世代(368-398年)に、百済から七支刀が届くわけです。それから30年経つと428年で、倭讚は398年頃から428年頃。あるいは倭讚が437年頃に薨去したとすれば420年頃に即位して朝貢し、弟の珍が継いだとなります。
つまり、推定在位期間はこうなります。それぞれの天皇や皇后が実在したかはさておき、倭王の世代と考古学上の年代的に日本書紀で当てはめるとこうなるかな、という程度の憶測です。鵜呑みにはしないで下さい。
卑彌呼(倭迹迹日百襲姫命):208年頃から247年頃まで 纒向
崇神天皇&臺與(豊鍬入姫命):248年頃から278年頃まで 纒向
垂仁天皇&臺與:278年頃から308年頃まで 纒向
景行天皇&倭姫命:308年頃から338年頃まで 纒向
成務天皇・仲哀天皇:338年頃から368年頃まで 佐紀・近江?
神功皇后・応神天皇:368年頃から390年頃まで 佐紀・ヤマト・河内?
菟道稚郎子:河内の仁徳に滅ぼされる 宇治・佐紀
仁徳天皇(大鷦鷯尊):390年頃から420年頃まで 河内
履中天皇(倭讚):420年頃から437年頃まで 河内
『古事記』では応神天皇の崩御年の干支を「甲午」としており、これは4世紀から5世紀にかけては334年、394年、454年にあたります。日本書紀よりも怪しげな古事記の干支を用いるのもなんですが、394年頃とすると具合が良さそうではあります。
それとも応神は後付で、仁徳代の記録を遡って応神代のこととしたのでしょうか。とすれば成務世代の次が仁徳で、368年頃から408年頃まで40年在位し、履中(倭讚)は408年頃から29年在位となります。つまり、こうです。
成務世代の倭王たち:338年頃から368年頃まで 佐紀王権
仁徳:368年頃から408年頃まで 河内 佐紀王権を併呑、三韓出兵
履中天皇(倭讚):408年頃から437年頃まで 河内 東晋・劉宋に朝貢
河内王権
佐紀の倭王権は外戚・豪族らの政権争いにより不安定で、倭王はしばしば代わり、宮もあちこちへ移動していたようです。子でなく甥に跡を継がせた成務、筑紫で客死した仲哀、対立王族を討ち幼君を摂政した神功皇后などは、そうした状況が伝説化したものでしょう。北の和邇・山背・丹波・出雲、南の葛城・紀伊・河内・吉備が倭王を引っ張り合います。
そこへ百済から使者や七支刀が届き、海外からの承認を得たことで、倭王権はやや安定しました。また弁韓や百済から多くの渡来人・帰化人(母国を離れて他国の臣民となる者)があり、技術や物資を伴ってどんどん流れ込んで来ると、それを迎える港の整備も急ピッチで進めねばなりません。彼らを養う食糧を生産するため、牛馬を用いた新田開発も行われます。
山背も開発され始めますが、やはり広い耕地を作るには奈良盆地と河内平野です。特に河内は海に面していて吉備・豊国・弁韓に通じ、大型船の発着にもってこいの河内湾という入り江があり、大和川でヤマトへ通じます。ただ湿地帯で洪水が多く、人が住みにくい地域でしたが、海外の先進的土木技術をもってすれば治水工事はお手の物で、新たに宅地や農地が作れます。
渡来人・帰化人は寄る辺なき寄留者ですから、倭王を讃えて権威を高めることで倭国での地位が高まり、新たな土地や人員(労働力、奴婢、兵士)を獲得できます。旧来の豪族からは反発が起きますが、そこは海外の先進国で政治の手練手管を心得ていますから、買収工作や婚姻などで味方に取り込み、あるいは脅迫や暗殺で敵を排除します。気がつけば倭王のまわりには渡来人・帰化人や彼らと結んだ新興豪族が連なり、倭王は彼らの地盤たる河内へ移動するわけです。ヤマトや佐紀に残った旧来の王族・豪族は排除されるか抱き込まれ、河内を中心とする巨大な王権が出現します。
新政権ではあっても、王統は代わっていません。ただ首都が奈良盆地から河内に遷り、外戚が新興豪族になり(仁徳の皇后は葛城襲津彦の娘の磐之媛です)、文化が急激に当時の弁韓や百済系のものに変化し、牛馬が持ち込まれて大規模な農地開発や土木工事が可能になりました。天皇が京都から江戸(東京)に遷り、社会が上から下まで洋風になり、名目上は四民平等となった明治時代の文明開化に比べれば、ごく小さな変化です。
ところで、応神陵とされる誉田御廟山古墳は考古学的には5世紀前期、第1四半期(400-425年)の築造とされますから、被葬者たる応神はこの頃に崩御したはずです。しかしつのの推定した年代では、応神にあたる倭王は4世紀末に崩御しています。となると誉田御廟山古墳は仁徳にあたる倭王の陵であり、大仙陵古墳は次の倭讚、履中天皇の陵となります。しかし履中陵とされる上石津ミサンザイ古墳は考古学的に大仙陵古墳より古く、こちらが仁徳陵でしょうか。ならば応神陵はどこになるのでしょうか。記紀や延喜式、宮内省/宮内庁による陵墓比定は後世のもので、考古学的年代とは異なることが多々ありますが、つのには知識が乏しいので断定はしません。
◆河◆
◆内◆
倭国のお家事情はともあれ、海外諸国からは倭国・倭王が改めて認識され、東晋や劉宋から高句麗や百済と並ぶ東夷の国とみなされます。このまま平和裏に諸国が共存し、国際秩序を保っていくのでしょうか。
【続く】
◆
つのにサポートすると、あなたには非常な幸福が舞い込みます。数種類のリアクションコメントも表示されます。