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【つの版】ユダヤの秘密03・諸宗共存

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

750年、ウマイヤ朝イスラム帝国は東方で起きた反乱によって滅亡し、アッバース朝が取って代わりました。ハザールは東ローマと手を組んでイスラム帝国に対抗する一方、この頃に君主がユダヤ教に改宗したと伝えられます。

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可薩書簡

ハザールは世界各地と交易を行う文明国であり、それなりに文書行政を行っていたはずですが、彼らが遺した文献記録は乏しいようです。ハザールを知るには、東ローマ、アルメニア、イスラム世界など周辺諸国の史料に拠らなければなりません。ただし、ハザールの君主自身によって書かれたとされる書簡が存在します。『ハザール書簡』です。

これは西暦954年から961年にかけて、アンダルス・ウマイヤ朝(後ウマイヤ朝、コルドバ・カリフ国)に仕えたユダヤ教徒ハスダイ・イブン・シャプルトと、ハザールの王であるヨセフとの間で交わされた往復書簡です。

『ハザール書簡』の英訳版は、Wikisourceに収録されています。翻訳ツールなどを用いて読み解いてみましょう。

先にハザール王ヨセフへ書簡を送ったのはハスダイでした。彼はイサクの子でエズラの孫、セパラデ(イベリアのヘブライ名)に住む離散したユダヤ人(セファルディム)に属し、アンダルス・ウマイヤ朝のカリフ・アブドゥッラフマーン3世に仕えた宮廷医師です。

アンダルスの首都コルドバには、ドイツ(アシュケナジ)やスラヴ諸国(サカーリバのゲバリム=スラヴの山地、クロアチアか)、コンスタンティノポリス、ホラーサーンからも使者が訪れていました。ハスダイは彼らに離散ユダヤ人の存在を尋ね、944-949年頃に来たスラヴ人の使者によって、ハザールというユダヤ教徒の王国があることを知りました。

使者によると、ハザール王国はコンスタンティノポリスから海路で15日の距離にあり、ヨセフという王が君臨しています。彼らは船で様々な魚や毛皮、器物を輸出し、強力な軍隊を持っており、東ローマに同盟国として敬意を表しているというのです。喜んだハスダイはヨセフ王への書簡をしたためてスラヴ人の使者に託し、彼らはドイツのユダヤ人イサクに託して送らせます。

数年後、ヨセフ王からの返書がハスダイに届きました。彼はアロンの子ヨセフと名乗り、ハスダイの質問に答えます。それによると、ハザール人はアブラハムの子孫ではなく、ノアの子セムの弟ヤペテの子孫です。

『創世記』10章の民族表によれば、ヤペテからはゴメル(キンメリア人)、マゴグ、マダイ(メディア)、ヤワン(イオニア、ギリシア)、メセク(モスコイ、カッパドキア)、ティラス(トラキアか)が生まれ、ゴメルからはアシュケナズ(スキタイ)、リパテ、トガルマが、ヤワンからはエリシャ、タルシシ(タルテッソス)、キッテム(キプロス)が生まれました。

トガルマはアルメニア人らカフカース地方の諸民族の祖とされ、のちテュルク系諸族の祖ともされました。ヨセフによると、トガルマにはタウリス(クリミア半島)、アヴァール、ブルガールなどの子らがおり、ハザールはそのひとりです。ハザール人はブルガール人を駆逐してドナウ流域に追いやり、彼らの住んでいた地を領有しました。

やがて、ブラン(Bulan)という王が現れます。彼は賢明で創造主を畏れ、魔術師と偶像崇拝者を追放しました。彼の名声を聞いた東ローマとアラブの王は、自分たちの宗教に改宗させようとハザールへ使者を送り、贈り物をしました。王は各々の宗教について、どれが最高であるかを賢人たちに議論させましたが決着がつかず、3日後に再び彼らを集めました。

王はまずキリスト教の司祭に「ユダヤ教とイスラム教ではどちらが優れているか」と問います。司祭はイスラム教への対抗心から「ユダヤ教です」と答えました。次に王はイスラム教の法官(カーディー)に「キリスト教とユダヤ教ではどちらが優れているか」と問います。法官はキリスト教への対抗心から「ユダヤ教です」と答えました。そこで王は「お前たちがそう言うのであれば、ユダヤ教はイスラム教やキリスト教より優れているのではないか」といい、割礼を受けてユダヤ教徒になったといいます。

またカイロのシナゴーグの文書秘蔵室(ゲニーザー)で発見された『シェフター文書』は、無名のハザール人がハスダイに宛てて書いたものとされますが、やや疑わしいものです。これによると、ペルシアとアルメニアに住んでいたユダヤ人は迫害を逃れてハザールへ亡命しました。やがて亡命ユダヤ人のサブリエル(Sabriel,ガブリエルか)がハザールの王となり、彼の妻セラクの意見を容れて臣民をユダヤ教に改宗させたといいます。

ただし、これは他の史料と一致しません。ヨセフの書簡では先祖がユダヤ人ではなくトガルマの子孫だと自ら称していますし、10世紀のペルシア語の地誌『世界境域誌』によると「ハザールのハーカーン(カガン)はアンサーの子孫に属す」といいます。これは突厥のカガンである阿史那(アシナ)氏の訛りと考えられ、ハザールのカガンがそう名乗ったか、実際に西突厥王族を首長に戴いたかは不明ながら、ユダヤ人の子孫とは称していません。

ヨセフの書簡とすり合わせるなら、ブラン(テュルク語でヘラジカの意)がユダヤ教徒になった後にサブリエル/ガブリエルというヘブライ語名を持つようになり、「実は先祖がユダヤ人だった」という伝承が生じたのでしょう。

改宗年代

ブランの後継者は孫のオバデヤ(ヤハウェのしもべ)で、彼は「ユダヤ教を国内に確立し、クネセト(シナゴーグ)とイェシヴァ(神学校)を築き、学者を招き、金銀を報酬とした。彼らは聖書、ミシュナー、タルムードなどをもたらした」とされます。彼の時代に国家宗教となったのでしょう。

オバデヤの後、子のヒゼキヤ、孫のマナセが跡を継ぎます。その次はオバデヤの弟ハヌカーで、以後は父子で王位が継がれ、イサク、ゼブルン、モーセ(ないしマナセ2世)、ニッシ(旗)、アロン、メナヘム、ベニヤミン、アロン2世、ヨセフに至ったといいます。いずれもヘブライ語の名です。

ブラン-○-オバデヤ-ヒゼキヤ-マナセ
      ハヌカー-イサク-ゼブルン-モーセ-ニッシ-アロン-※

     ※-メナヘム-ベニヤミン-アロン-ヨセフ

ブランからヨセフまで12世代、1世代30年とすると360年となり、6世紀末にはユダヤ教に改宗していたことになりますが、同時代の史料にそのような記録はありません。ハザールがユダヤ教に改宗したという記録は10世紀のマスウーディーの著書に見られ、アッバース朝のカリフであるハールーン・アッ=ラシード(在位:786-809)の時代には改宗しており、各地からユダヤ教徒がハザールへ亡命していると書かれています。スウェーデンで発掘された西暦838年に相当する年代のあるコインには「ハザールの地」「モーセは神の預言者である」と刻まれていました。

ジェベルやブシルやビハールがユダヤ教徒だとは書かれていませんから、ブランの改宗は少なくともそれ以後です。おそらく737年にビハールがマルワーンに服属して名目上イスラム教に改宗した後、後継者としてブランが立ったのでしょう。10世紀中頃のヨセフまで200年ほどですが、12世代で200年だと1世代平均17年でしかありません。よって書簡の世代数は倍近く水増しされているか、いくつかの兄弟相続も父子相続としていたものと思われます。あるいはブランの改宗は後世の伝説でしょうか。

ブランが700年生まれで740年頃に即位したとすると、子は730年、孫オバデヤは760年、曾孫ヒゼキヤは790年、玄孫マナセは810年の生まれです。ハヌカーが770年頃の生まれとすれば、イサクは800年、ゼブルンは830年、モーセは860年、アロン1世は890年の生まれです。メナヘム、ベニヤミン、アロン2世を彼の子とすれば、ヨセフはアロン1世の孫世代ですが、これらの王についてはヨセフの書簡以外の記録がほぼないためわかりません。

またイスラム側の史料によれば、ハザールにはカガン(ハーカーン)とベクという二人の君主がおり、前者は神聖王として祭祀を司り、後者は軍事指導者として実際の政治や軍事を取り仕切っていたといいます。ブランやその子孫がカガンなのかベクなのかも判然としませんし、ヨセフの書簡ではカガンともベクとも名乗らず王(マリク)と号しており、両者は彼の時代には統合されていた可能性もあります。

諸宗共存

ともあれ、ハザールは8世紀中頃から9世紀頃にはユダヤ教に改宗していたと考えられます。おそらくイスラム帝国と東ローマ帝国に隣接することから、両国の影響を受けない中立的な宗教を選んだのでしょう。各国で迫害されたり二級市民扱いだったりのユダヤ教徒は続々とハザールに集まり、多くの富と文明をもたらしたに違いありません。

ユダヤ教徒は医師や商人・学者として諸国でも一目置かれる者が多く、国土がないぶん国際的に活動でき、迫害を免れるための互助組織もあるなど、なってしまえばそれなりにメリットのある宗教・民族集団でした。西暦1世紀にはアッシリアのアディアバネ王国が、6世紀にはイエメンのヒムヤル王国がユダヤ教に改宗しており、ハザールの改宗は珍しくはあれど、世界初でも唯一無二でもありません。

またハザールは宗教的に寛容で、ユダヤ教以外の宗教を迫害せず、国内にはキリスト教徒(クリスチャン)もイスラム教徒(ムスリム)も、古来のテングリ(天)崇拝も共存していました。世界各地と交易していたのですから、ゾロアスター教徒やマニ教徒、仏教徒がいてもおかしくありません。国内には7人の裁判官がおり、ユダヤ教徒・キリスト教徒・イスラム教徒の各々に2人ずつ裁判官がいて、残り1人が異教徒の事件を裁いたといいます。信仰の自由があり、異文化の共存がなされていた文明的な国家だったのです。

754年にアッバース朝初代カリフ・サッファーフが崩御すると、兄アブー・ジャアファル(マンスール)が即位しました。彼はカリフ位を要求する叔父アブドゥッラー、ホラーサーン総督アブー・ムスリムを次々に粛清し、相次いで起きたハワーリジュ派やシーア派の反乱も鎮圧して、アッバース家の支配権を確立します。彼は民族を超越してカリフを頂点とする中央集権化を進め、ウマイヤ朝時代の問題であったアラブ至上主義は解消されました。駅伝と密偵網が全土に張り巡らされ、766年にはバグダードが建設されます。

彼はまたハザールの侵攻を抑えるため、758年頃アルメニア総督ヤズィードに奨めてハザールの王女と結婚させました。バクーの西で盛大な結婚式が執り行われましたが、彼女は出産の時に胎児もろとも死んでしまいます。王女の従者らは「イスラム教徒が殺したらしい」という噂をハザール王に告げたため、激怒した王は大挙南下し、ダリアル峠に迫りました。マンスールは諸国から軍勢を集めてこれを防ぎ、各地に要塞を築いて守らせたといいます。この時のハザール王がブランかどうかはわかりません。

また皇子の時にハザール王女チチャク(エイレーネー)を娶ったコンスタンティノス5世は、741/743年から775年まで東ローマ皇帝に在位しています。彼はウマイヤ朝の崩壊に乗じてシリア・アルメニア・メソポタミアへ兵を進め、ドナウ・ブルガールを繰り返し討伐して多くの勝利を収めました。しかし751年にはランゴバルド族にラヴェンナを奪われ、チチャクは750年に息子レオーン4世を産んだものの、同じ頃に亡くなっています。

レオーン3世からコンスタンティノス5世の時代には「聖像破壊運動(イコノクラスム)」が行われ、皇帝により聖像(イコン)が偶像であるとみなされました。聖職者らは大反対し、反対派を弾圧したコンスタンティノス5世は聖職者から「クソ野郎(コプロニュモス)」と呼ばれています。

なぜこの運動が起きたかは不明ですが、イスラム教徒やユダヤ教徒からの批判があったのかも知れません。ただレオーン3世が聖像禁止令を出したのは726年で、チチャクの子レオーン4世は聖像に対して寛容な態度をとっていますから、ハザールの影響とも思われません。

◆聖像◆

◆破壊◆

アッバース朝、東ローマ、ハザールが鼎立していた頃、ヨーロッパは世界の辺境でした。しかしイベリアにはアンダルス・ウマイヤ朝という高文明圏が存在し、フランスからドイツにかけてはフランク王国が、イタリアにはランゴバルド王国があって、それなりに栄えています。これらの地域のユダヤ人については後で見るとして、ハザールのその後を見ていきましょう。

【続く】

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