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【つの版】邪馬台国への旅04:奴国

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

前回は対馬・壱岐を経て末盧(唐津市)に上陸し、東に歩いて伊都國(糸島市)に到着しました。帯方郡の使者は伊都國に留まり、文書や賜物は女王國(邪馬臺國)へ伝送されるため、この先は基本的に伝聞です。魏の使者が倭王卑彌呼に直接謁見したとは書いてありません。倭地の風俗も伊都までの見聞ですから、当時の北部九州の様子が描写されているに過ぎません。

◆Na◆

◆Na◆

奴國

東南、至奴國。百里。官曰兕馬觚、副曰卑奴母離。有二萬餘戸。

東南して奴國に至る。百里である。官は兕馬觚、副は卑奴母離という。二万余戸ある。

奴國から先は極めてシンプルで、これまでのように住民が何を生業としているかなどは全く語られません。伊都國での伝聞だからです。

距離

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伊都國の中心地は平原遺跡のある曽根丘陵のあたりでしたから、そこから100里東南です。東南に43.4km進むと脊振山を越えて筑後市や八女市に着きますが、ここまで5倍誇張でやってきたので20里(8.68km)とし、高祖(たかす)山の南側を越えれば福岡市西区の金武(かなたけ)に抜けます。ここからが奴國の領域です(中心地ではありません)。

名称

奴は上古音で *nˤa であり、「」と発音され得ます。那珂川と御笠川の流域、現在の福岡市南部から大野城市、春日市、那珂川市にかけての地域は筑前国那珂(なか)郡に属し、古代には儺県(なのあがた)と呼ばれました。那珂川の河口には那津(なのつ)/娜大津(なのおほつ)が存在し、ここに「な」という地名が古くから存在したことは明らかです。

考古学的にも多くの発見がなされていますが、中心地は春日市の那珂遺跡群(面積83ha)でした。須玖岡本遺跡は弥生時代中期から後期初頭で、やや古いものです。また比恵遺跡(65ha)は那珂遺跡群の北に連なり、東側の山王遺跡(15ha)と合わせて164haにもなります。吉野ヶ里遺跡の4倍です。

官と副

官は兕馬觚(上古音 *[s.ɢ]ijʔ *mˤraʔ *kʷaː)、副は卑奴母離です。卑奴母離は對馬國と一支國でも出てきましたが、兕馬觚はなんでしょう。伊都國の副官である泄謨觚に似てはいます。兕は犀のことで、日本漢字音では「じ」または「し」と読みます。字が違うだけで同じ「島子」でしょうか。

倭奴國王

有名な「漢委奴國王」の金印は博多湾沖の志賀島で出土しましたが、この委(倭)奴國がどこかは議論があります。委奴を「いと」と読む説もありますが、匈奴を漢音で「きょうど」と読むからと言うなら、奴國は当然「ど」國と読まねばならないでしょう。「漢の倭の奴(な)の國王」と読むなら、奴國に王がいるはずですが、魏志倭人伝では伊都國に王がおり、奴國にはいません。かつては両国が連合して「倭奴國」というひとつの諸国連合をなしていた可能性もあります。漢の使者が自称を聞いた時に「わ(我々)の國」と言ったのを「倭奴國」と書き写したとも推測されます。ヤマト王権は倭の代表として、倭に「やまと」という読みを後からあてました。

『後漢書』東夷伝に見える帥升は「倭國王」と呼ばれ、倭奴國王とは呼ばれていませんが、別の國であるともされず、新たに金印を賜った記述もありません。後漢の建国者たる光武帝が金印紫綬を授けたというのに半世紀後に来たのが別國の王ではアレですし、一応王権として連続していたのでしょう。

なお『翰苑』に「倭面上國王」、『通典』に「倭面土國王」、『唐類函』に「倭國土地王」、『日本書紀纂疏』に「倭面國」とあり、倭面土とはヤマトであるなどという説もありますが、どれも『後漢書』から引用した際の誤記(國王→面上→面土)で、書き損じを訂正せずに重ねた(面上國王、面土國王)だけです。倭國土地王などは誤記をさらに誤解釈して「地」を加えたのでしょう。こうした誤記誤伝はよくあることで、こだわると死にます。

また『日本書紀』では、金印も帥升も卑彌呼も倭の五王も年代をずらしたりして意図的に無視しています。もしくは日本側の伝説に取り入れて再解釈を施し、適当に誤魔化しています。倭国改め日本国のメンツや独立性に関わるからですが、声高に「朝貢なんてしてない」と叫ぶと色々つっこまれてめんどくさいのでそうしたのでしょう。そのへんの事情はお察しください。

戸数と推定範囲

奴國の戸数は2万であり、推定人口は1戸5人として10万人です。現在の福岡市の人口は160万ありますから大した数ではないと思われるでしょうが、これまでの1000戸や4000戸とは桁違いです。2万戸・10万人が那珂郡や福岡平野(250km2)に詰め込まれたとすれば、この時代では相当な密度です。もし10万人の「都市」だとすれば、その人口を支える何倍もの農民と広大な農地、相応の統治機構が必要です(『漢書』地理志によれば、西暦2年の洛陽県が5万戸・25万人です)。對馬や一支のように周辺諸国から食糧を買い付けているということも書かれていません(ある程度はあったでしょう)。

したがって、2万戸の奴國は福岡平野だけでなくもっと広い範囲を含むか、戸数が誇張されている、ということになります。後者なら福岡平野にそこそこの規模の國があったで済みますが、前者で考えてみましょう。

律令時代の筑前国は、伊都國にあたる怡土郡8郷、志摩郡7郷を含めて15郡105郷あり、計算上は10.5万人(2.1万戸)になります。江戸時代には筑前国全体で5万戸・30万人弱、博多が戦国時代の最盛期に1万戸・5万人でした。3世紀の人口は生産力や食糧の流通量からして律令時代より少ないでしょう。となれば、後の筑前国の範囲だけでは足りません。

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魏志東夷伝の他の國で比較すれば、方2000里(方400里=173.6km、3万km2)の夫余(遼寧省鉄嶺市開原周辺)が8万戸・40万人、高句麗(吉林省集安市周辺)は同じ面積でも山岳が多いため3万戸・15万人、東沃沮(北朝鮮咸興市周辺)が5000戸・2.5万人、嶺東の濊(江原道)が2万戸・10万人。方4000里(方800里、12万km2)の三韓が15万戸・75万人で、うち馬韓55國(京畿道・忠清道・全羅道)が10万戸・50万人、辰韓12國(慶尚北道)と弁韓12國(慶尚南道)が合計5万戸・25万人となっています。江原道は南北合わせて2.8万km2、慶尚南道は釜山広域市を足して1万km2あまりです。面積と人口と後世の戸籍人口を比較すれば、当時のこの地域としては不自然な人口密度ではありません。

人口密度が夫余並とすれば3km2あたり8戸(40人)。2万戸ならば7500km2は必要ですが、福岡県の面積は4986.52km2ですから足りず、大分県や佐賀県の一部も入ってきます。文化が近そうな弁韓並みとすれば、福岡県と大分県(6340.73km2)を足した程です。倭地は温暖で農業生産力が高く、満洲や朝鮮より人口密度が高いとしても、田畑を耕す鉄器すら海外からの輸入に頼る程度のこの時代に、そう大きな違いがあるとは思えません。

まあ138.6km2の壱岐に3000戸も入りますし、唐津市(487.59km2)大と思しき4000戸の末盧國が5つぶんとするなら2437.95km2になりますが、福岡平野は250km2、南の筑紫平野は1200km2です。全然足りません。末盧國が五島列島を除く松浦郡の4郷だとすれば、奴國はもっと広くなります。

佐賀県神埼郡吉野ヶ里遺跡は3世紀に最盛期を迎えましたが、城柵の中の推計人口は1200人、吉野ヶ里を中心とするクニ全体では5400人ほど。これが1000戸の國です。2万戸もの人口を持つならば、吉野ヶ里クラスの國が20は必要で、広域の諸国連合となります。弥生時代後期、北部九州から四国南西部にかけて「広幅銅矛」を祭具とする文化圏がありました。これが後漢代の「倭奴國」と思われます。佐賀平野は筑紫平野の一部であり、筑後や吉野ヶ里も奴國連合(旧・倭奴國)の一部であったのでしょう。古墳時代に入ると吉野ヶ里の集落には急速に人が住まなくなり、墓地化しました。

誇張であれば5分の1して4000戸だとかで済みますが(比恵・山王・那珂遺跡群の合計面積は吉野ヶ里遺跡の4倍です)、東夷伝では里数は明らかに誇張しても、大雑把な数とはいえ戸数の不自然な誇張は見られません。また陳寿は蜀漢の出身ですが、パトロンの張華は安北将軍・都督幽州諸軍事として馬韓などから朝貢使節を送らせており、この地域の事情に疎かったとは言えません。東夷伝での距離の誇張は陳寿も承知の上でしょう。

ともあれ、奴國を突然大国に見せかけるため戸数を誇張する理由はあまりない、と判断します。奴國は北部九州を覆う地域大国だったのです。軍事力で獲得した領土というよりは、経済圏や諸国連合の範囲というべきでしょう。これで北部九州に5万戸の投馬國や7万戸の邪馬臺國が入るスペースはなくなり、佐賀や筑後や大分に邪馬臺國を持ってくることは不可能になります。それでも北部九州に持って来たいなら、奴國等の戸数は誇張だとするしかありません。「2万戸と5万戸を足せば7万だ」とでも言うのでしょうか。

古田武彦氏のいう「博多湾岸の邪馬壹国・九州王朝」は、どうもこの「奴國」や「倭奴國」を邪馬臺國と混同してしまったもののようです。その情熱は大したものですが、自説にあまりにも固執し過ぎた末にすっかりおかしくなってしまいました。狂信とは恐ろしいものです。気をつけましょう。

◆次と◆

◆その次と◆

ここまではまあ、いいでしょう。問題は次の不彌國からです。

【続く】

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