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【つの版】邪馬台国への旅03:末盧と伊都

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

前回は朝鮮半島南西部の狗邪韓国(金海)から対馬海峡を渡り、対馬を経て一支(壱岐)に達しました。ここまでの経路については異論は少ないでしょう。続いて壱岐から海を渡り、いよいよ九州本土に上陸します。

◆沈◆

◆没◆

末廬國

又渡一海、千餘里、至末廬國。有四千餘戸。濱山海居。草木茂盛、行不見前人。好捕魚鰒、水無深淺、皆沈没取之。
また一つの海を渡り、千余里で末盧國に至る。四千余戸がある。山海に瀕(濱)して居住する。(道は)草木が繁茂して、前を行く人も見えないほどである。好んで魚や鰒(あわび)を捕らえ、水の深い浅いをとわず、みな沈没してこれを取る。

名称、人口

末盧の上古音は *m'at *b・ra です。壱岐の南には佐賀県唐津市が存在しますが、江戸時代以前は肥前国松浦(まつら)郡に属し、松浦と呼ばれました。『日本書紀』神功皇后本紀や『古事記』『肥前国風土記』に、神功皇后がこの地の玉嶋里の小川(唐津市東部の玉島川)で鮎を釣り上げ、「梅豆邏志(めづらし)」と言ったことから「梅豆邏(めづら)國」と呼ばれたとあります(後付の地名説話ですが)。『古事記』では末羅、『万葉集』では麻通羅・麻都良と書きます。そこで末盧國とは松浦川下流域・唐津湾に面するあたりを中心とする地域、おおよそ現在の唐津市域とされています。

肥前国には11郡44郷がありますが、松浦郡はその中で最も大きく、現在の佐賀県唐津市・伊万里市・東松浦郡・西松浦郡の全域と、長崎県平戸市・松浦市・五島市・北松浦郡・南松浦郡の全域、および佐世保市の一部を含んでいました。郷は庇羅(平戸島)・大沼・値嘉(五島列島)・生佐・久利(唐津市)の5つです。貞観18年(876)には庇羅郷と値嘉郷を割いて令制国扱いの値嘉島を置きましたが、10世紀初めまでに廃止されています。

唐津市を流れる松浦川は古くは栗川と呼ばれ、そのほとりには久里という地名や久里双水古墳があります。松浦郡の郡衙(政庁)は松浦川河口部東側の唐津市鏡に置かれ、同地の鏡神社は松浦郡の総社で久里大明神とも呼ばれました。大沼と生佐は唐津市相知町の大野と伊岐佐という説がありますが、近すぎるので佐世保市や松浦市のあたりでしょうか。

5郷は計算上5000人ですが、末盧國は4000戸、すなわち2万人もの人口がありました。肥前国全体で44郷≒律令時代に4.4万人ですから半分近くに達し、對馬國と一支國を合わせたほどの戸数です。唐津市(487.59km2)ほどの広さか、もう少し広い(おそらく五島列島は除く)かはわかりませんが、それなりの範囲があったことは想像できます。まあ壱岐だけでも3000戸ですから、唐津市+玄海町ほどの範囲なら4000戸はいけるでしょうか。あるいは値嘉(五島列島)を除く4郷で4000戸ということでしょうか。

しかし、末盧國には官も副も王もいません。書き落としたのか実際存在しなかったのかは定かではありません。それでも「末盧國」と総称される程度の集まりではありますし、後には末羅県(まつらのあがた)や末羅国造(まつらのくにのみやつこ)が置かれました。首長がいたとすれば、菜畑・宇木汲田・桜馬場など多くの遺跡がある松浦川下流の平野部付近でしょう。

距離

一支國から、またしても千余里です。壱岐のどこから出港したかわかりませんが、原の辻遺跡が近い内海や印通寺からとしても、200里(86.8km)海上を進んで到達できるような位置は東の遠賀川河口部か、南西の五島列島の北部になります。あるいは平戸の瀬戸を通って佐世保にでも届きそうです。

しかし次の「伊都國」は「東南陸行五百里」とあるので、陸続きのどこかでなければなりません。伊都国は地名や考古学的発見などから筑前国怡土(いと)郡、現在の福岡県糸島市であることがほぼ確定していますが、その西北500里(1/5して100里=43.4km)にある陸地となるとどこでしょうか。松浦川河口の現唐津市街地からでは、糸島へは東北に向かうしかありません。

松浦川を遡って東南に向かえば佐賀平野に出てしまいます。ここに伊都國をもってくると、奴國が佐賀市、不彌國が筑後川流域、南へ水行が筑後川や有明海……などとなり辻褄はあいますが、糸島や博多をスルーするのも妙なのでこのルートは無視します。遠賀川河口部に末盧國があったとすると、東南に進んで行橋市が伊都國、豊前中津平野が奴國や不彌國、南へ水行して宇佐や大分や宮崎……などとなりますが無視します。佐世保から諫早や天草へ向かうルートも無視します。こんなところに5万戸の投馬國や7万戸の邪馬臺國は入りませんし、地理上も考古学的にも不合理です。

とりあえず壱岐から一番近い松浦郡の港を探すと、唐津市東松浦半島北端に呼子(よぶこ)があります。

古くから半島との交通の拠点であり、神功皇后もここから出発したとされ、百済の武寧王は呼子の加唐島で生まれたため「斯摩」と名付けられました。律令制下においては登望駅が置かれ、松浦郡の名神大社である田島坐神社は加部島にあり、秀吉は呼子に名護屋城を築き唐入りの前線基地としました。ここから海沿いに東南へ歩き、唐津湾を回って北上し、東へ進めばまさに100里で糸島に着きます。「濱山海居。草木茂盛、行不見前人。好捕魚鰒、水無深淺、皆沈没取之」といった情景はこの道中で見たのでしょう。唐津湾を船で渡れば早い気もしますが、後述のように伊都國が入国管理局の機能を持っていたので、そうするきまりがあったのかも知れません。

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問題は壱岐から呼子まで最短距離では27km程度しかないこと(勝本浦から数えても50km程度)ですが、これまでも海上の千里が非常に適当だったことを鑑みれば大した問題になりません。なお帯方郡から狗邪韓國まで7000里、狗邪韓国から対馬・一支を経て末盧まで3000里なので、帯方郡から末盧國まで計算上は合計1万里になります。これに合わせるためかさ増ししたのでしょうか。『隋書』では一支國の次が竹斯國になっていますが、これは筑紫のことで、末盧や伊都をスルーして博多湾に直接入港したようです。

伊都國

東南陸行五百里、到伊都國。官曰爾支、副曰泄謨觚、柄渠觚。有千餘戸。丗有王、皆統屬女王國。郡使往來常所駐。
東南に陸行五百里で、伊都國に到着する。官は爾支といい、副は泄謨觚、柄渠觚という。千余戸がある。代々の王があり、みな女王国に統属している。帯方郡の使者が往来する際、常に駐するところである。

位置と名称

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そんなわけで、呼子から唐津湾岸を通り、東進して伊都(上古音*?ij *t'a)國に入ります。上述のように筑前国怡土郡(伊覩縣)、現在の福岡県糸島市が比定地となっています。三雲・井原遺跡や曽根遺跡群など多くの考古学的発見がなされ、この地が伊都國であることは今や定説となりました。「邪馬臺國は伊都國を中心とし、卑彌呼もここにいた!」と叫ぶ過激な人もごく一部にいますがスルーして下さい。伊都國であるだけで十分です。

「糸島」とは怡土郡と志摩郡が明治時代に合併されてつけられた名です。糸島半島北部はかつて志摩郡といい、弥生時代には海が入り込んで島になっていました。潮の干満によって本土と繋がったり離れたりしていたようで、船の関所とするにはちょうどいいのかも知れません。

人口

「千余戸」とあり、人口は5000人、對馬國と同じほどです。『翰苑』に引く『魏略』逸文には「戸万余」とありますが、5万人もの人口を当時の糸島で維持するのは難しそうです。律令時代の筑前国怡土郡は8郷=8000人、志摩郡は7郷=7000人でした。

官と副

官曰爾支、副曰泄謨觚、柄渠觚。

官は爾支(*nˤ[ə][r]ʔ *ke)、副は二人いて泄謨觚(*lat-s *mˤ[a] *kʷaː)と柄渠觚(*[p]raŋʔ-s *[ɡ](r)a *kʷaː)です。聞き慣れない語ですが、内藤湖南は爾支を『隋書』の倭国の地方官名「伊尼翼(伊尼冀)」、『日本書紀』の稲置(いなき)に当てています。稲置を因支と書く例もありますし、あり得なくもありません。

泄謨觚は「せまこ/しまこ」と読むのならば、浦島太郎のもとになった『日本書紀』雄略紀の「水江浦嶋子(みずのえのうらの・しまこ)」、『丹後国風土記』の「筒川嶼子(つつかわの・しまこ)」という人名があります。本来は水江の「浦嶋子」ではなく「水江浦の」嶋子でした。後の志摩郡の長なのでしょうか。

唐の『翰苑』に引く『魏略』逸文では「洩溪觚」となっていますが、ただの誤字です。泄を洩にしたのは、唐の太宗李世民の諱を避けたためともいいます。柄渠觚は泄謨觚と対をなすようですがさっぱりわかりません。ヒココ(彦子)とでも読むのでしょうか。

丗有王

丗有王、皆統屬女王國。

「千余戸」を挟んで、官・副の他に「丗有王」とあります。とはの異字で「世代」を意味しますから、何世代にも渡って王がいたことになります。魏志倭人伝で王がいる國は伊都國・邪馬臺國・狗奴國だけで、戸数が特に多い奴國や投馬國にも王はいません。平原遺跡などの豪奢な副葬品を見れば、交易で栄え北部九州一帯に権威を及ぼした王がいたことは推測できますが、同時代の出雲や吉備、ヤマトには、既にそれ以上に巨大な勢力が存在したことが考古学的には明らかです。これをどうとらえればよいのでしょう。

西暦57年に後漢の光武帝が金印を授けた「倭(委)奴國王」、西暦107年に後漢の安帝に朝貢した倭國王帥升は、伊都國か奴國(あるいは両方)にいた倭國王であった可能性があります。北部九州の倭人諸国の対外代表として倭國王が選ばれ、後漢から認定されたことで大きな権威を得、交易路を抑えて100年以上繁栄したのでしょう。漢の武帝が滅ぼした平壌の朝鮮王や、馬韓人が辰韓の代表となる辰王も、漢との国境近くに陣取って交易路を掌握し、みかじめ料を取っていた程度の存在でした。

しかし2世紀末に後漢が崩壊すると、漢からの商品流通が一時的に停止し、倭國王の権威が失墜して倭人諸国が混乱した(倭國乱)と思われます。権威は残っていたため王は残りましたが、千戸余の小国・伊都國の王に転落し、統治権力も奪われ、邪馬臺國の女王卑彌呼が代わって倭人諸国の代表、倭王に共立されたのでしょう。これが九州だけの勢力組み換えと見るか、ヤマトや出雲・吉備・阿波・讃岐など西日本広域を含んだ大変動と見るかは人によりますが、つのは後者に説得力を感じます。

「皆統屬女王國」というのは、伊都國の女王にみんなが従っているのだという意味ではありません。もうその状況は終わりました。伊都國の王は倭の女王卑彌呼に服属しているのです。卑彌呼は伊都國から邪馬臺國に遷って倭王になったという説もありますが、さあどうでしょう。

一大率

「郡使往來常所駐」とは、「帯方郡の使者が往来し常駐していた」という意味ではなく、「帯方郡の使者が(郡と倭を)往来する時は、常にここ(伊都國)に駐在する」という意味です。魏の使者はここから先へ行くことはほぼなく、これ以後の経路は伝聞が主となるでしょう。また魏志倭人伝を先に読み進めると、伊都國には「一大率」が置かれていたとあります。

自女王國以北、特置一大率。檢察諸國、諸國畏憚之。常治伊都國、於國中有如刺史。王遣使詣京都、帶方郡、諸韓國、及郡使倭國、皆臨津搜露、傳送文書賜遣之物詣女王、不得差錯。
女王國(邪馬臺國)以北には、特に一大率を置く。諸国を検察し、諸国はこれを畏れ憚っている。常に伊都國を(で?)治め、國中(中国、魏)でいう刺史(州の長官)のようである。(倭の)王が使者を京都(魏都洛陽)や帯方郡、諸韓国(韓の諸国)に派遣する時や、帯方郡の使者が倭國に来る時は、みな津(港)に臨んで捜露(調査)し、文書を伝送して賜物を女王に届け、少しも錯(あやまち)がないようにしている。

一大率は王や官や2人の副官とは別におり、文書作成を含む外交を司っていたことがわかります。当然読み書きが出来ねばなりません。倭人が漢人や弁韓人から文書行政を習ったのか、渡来帰化していた連中かわかりませんが、楽浪郡の硯が各地で出ていて朝貢使節を派遣しているぐらいですから、そうした職能集団は存在したでしょう。一大率も倭語ではなく漢語です。後世にも北部九州には「遠の朝廷」と呼ばれた大宰府が置かれました。

ここで「女王國以北」とありますが、「伊都國から南に女王國があるなら当然九州だ!バンザイ!」と盛り上がらないで下さい。追い追い説明します。

どうでしょうか。倭國は野蛮な原始人がうろつく世界でも、平穏平和な理想社会でもありません。少なくとも王や官吏がおり、文書で政治を行い、法律が厳しく定められ、国際使節を派遣可能な古代国家(諸国連合)であることがわかります。チャイナやローマ、ペルシアに比べれば文明レベルは低いでしょうが、そう卑下したものでもありません。

◆伊◆

◆都◆

きりもいいので今回はここまでとします。次は奴國です。

【続く】

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