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【つの版】度量衡比較・貨幣17

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。

 モンゴル帝国が金と南宋を滅ぼし、日本に遠征軍を送り込むようになっても、チャイナと日本との民間貿易は続きました。しかしモンゴル/大元は日本を敵視していたため、多くは密貿易という形になります。またモンゴルでは銅銭も流通したものの、長らくイスラム世界の基軸通貨であったが導入され、紙幣もこの頃に広く流通し始めます。

◆銀◆

◆河◆

大食銀銭

 久しぶりに極東を離れ、イスラム世界の貨幣を見てみましょう。7世紀半ばにアラブ・イスラム勢力が勃興し、ペルシア帝国を滅ぼし、東ローマ帝国からパレスチナ・シリア・エジプトなどを奪います。彼らは征服地の貨幣制度を残し、東ローマのノミスマ/ソリドゥス金貨やペルシアのドラフム銀貨をそのまま流通させていました。

 預言者ムハンマドや初代カリフのアブー・バクルの頃には、戦利品(ガニーマ)のうち1/5(2割)をムハンマドやカリフに献上し、残りは兵士たちが分配していました。莫大な戦利品が得られれば充分な収入となりますが、そうでない時は兵士らが不満を蓄積させ、掠奪を行う危険があります。そこで第二代カリフ・ウマル(在位634-644年)は兵士や有力者の家族らに一定の俸給/年金(アター)を与え、生活が困窮しないようにしました。

 ウマルの時、アラブ・イスラム勢力はアラビア半島を飛び出して大征服を行い、莫大な戦利品と土地を獲得しました。ウマルは統治を円滑ならしめるべく、各地域に徴税官を派遣して(非ムスリムからの)税収を確保し、各地に置かれた軍営(ミスル)に帳簿を管理する役人を設置し、アラブ戦士を登録させて俸給を支払っています。「クルアーンか剣か」に加え「さもなくば貢納か」と呼びかけることで、戦わずして勝つ方法もとっていたのです。

 7世紀末にウマイヤ朝カリフ・アブドゥルマリクが貨幣改革を行い、ディナール金貨ディルハム銀貨を打刻させます。重さはディナールが4g、ディルハムが3gほどで、価値は1ディナール=20ディルハムと定められました(のち22ディルハム)。当初はカリフの肖像が刻まれていましたが「偶像崇拝だ」と非難され、文字だけが刻まれた様式に変えられました。東ローマのフォリス青銅貨はファリス(Falis)として、ペルシアのダナケ銅貨はダーニクとして使われましたが、重さや品質は時代や地域によりまちまちです。

 ウマルの曾孫にあたるウマル2世の頃(717-720年)、歩兵1人の俸給は年300ディルハムでした。おおよそ1ディルハムが現代日本の1万円と考えればよいでしょう。1ディナールは20万円です。この頃ウマイヤ朝はイベリア半島からイラン高原東部に及ぶ大帝国となっており、カリフの財産は10億ディルハム(10兆円)にやや足りぬほどであったといいます。

 俸給だけでも生活はできましたが、戦利品の獲得も重視され、北は東ローマやハザール、西はベルベル人やイタリア半島、東は中央アジアやインドにまで遠征軍が派遣されます。インド遠征にかかった軍事費は6000万ディルハム(6000億円)にも及びましたが、戦利品は倍の1億2000万ディルハムにも達したといいますから、人々は利益と名誉を求めて盛んに遠征したのです。

黒衣大食

 しかし、ウマイヤ朝はアラブを重んじて非アラブを軽んじたためもあり、各地で反乱が勃発し750年に滅びます。残党はイベリア半島へ逃れてアンダルス・ウマイヤ朝を建て、残りの大部分はホラーサーン(イラン東部)に興ったアッバース朝のものとなります。彼らは支持を集めるため盛んにカネをばらまき、ホラーサーンの精鋭歩兵に年960ディルハム、騎兵はその倍の給料を払いましたが、通常の歩兵は年240ディルハム、騎兵はその倍でした。アッバース朝のカリフはイラクに首都バグダードを建設しましたが、一般労働者には日当1/3ディルハム、棟梁には1ディルハムを支払っています。

 アッバース朝最盛期のカリフは、世にも名高いハールーン・アッ=ラシード(在位:786-809年)です。イブン・ハルドゥーンの『歴史序説』に見えるハールーン時代の地域ごとの歳入を見ると、このようです。

○シリア・アラビアからエジプト・イフリーキヤまで 9032万ディルハム
 キンナスリーン(シリアの大都市):40万ディナール(800万ディルハム)と干し葡萄1000荷
 ダマスクス:42万ディナール(840万ディルハム)
 ヨルダン:9.6万ディナール(192万ディルハム)
 パレスチナ:31万ディナール(620万ディルハム)と干し葡萄30万リトル
 エジプト:192万ディナール(3840万ディルハム)
 バルカ(リビアの都市キュレナイカ):100万ディルハム
 イフリーキヤ(チュニジア):1300万ディルハム
 イエメン:37万ディナール(740万ディルハム)と外衣
 ヒジャーズ(アラビアの紅海沿岸):30万ディナール(600万ディルハム)
○イラク周辺 1億4840.5万ディルハム
 サワード(南イラク):穀物を銀換算して2778万ディルハム、
  諸税1480万ディルハム、ナジュラーン産外套200着、印肉240リトル
 カスカル:1160万ディルハム
 チグリス諸区:2080万ディルハム
 フルワーン(イラク北東部):480万ディルハム
 バスラとクーファの間の地域(イラク中部):1070万ディルハム
 モスル(古代のニネヴェ)とその周辺:2400万ディルハムと白い蜂蜜2万リトル
 ジャジーラ(ハブール川流域)と周辺のユーフラテス上流諸区:3400万ディルハム
 アフワーズ(イラン・イラク南部国境地帯):2.5万ディルハムと砂糖3万リトル
○アルメニア・イランからシンドまで 1億6000万ディルハム
 アルメニア:1300万ディルハム、刺繍絨毯20枚、多彩服地580リトル、
  魚の塩漬け1万リトル、ニシン1万リトル、騾馬200頭、鷹30羽
 アゼルバイジャン:400万ディルハム
 ジュルジャーン(ゴルガーン、カスピ海南東岸):1200万ディルハムと絹1000反
 ジーラーン(ギーラーン、カスピ海南西岸):500万ディルハム、奴隷1000人、
  蜂蜜1.2万袋、鷹10羽、長外衣20着
 タバリスターン(マーザンダラーン、カスピ海南東岸)、ルーヤーン、ニハーワンド:
  630万ディルハム、絨毯600枚、長外衣200着、外衣500着、タオル300枚、酒杯300個
 ライ(レイ、テヘラン近郊):1200万ディルハムと蜂蜜2万リトル
 クーミス:150万ディルハムと銀塊1000個
 シャフラズール(西クルド):600万ディルハム
 ハマザーン(エクバタナ):1180万ディルハム、
  柘榴のマーマレード1000リトル、蜂蜜1.2万リトル
 ファールス(ペルシア):2700万ディルハム、薔薇水3万壺、黒干し葡萄2万リトル
 ケルマーン(カルマニア):420万ディルハム、イエメン産外衣500着、
  ナツメヤシの実2万リトル、クミンの種子1000リトル
 マーサバザーンとライヤーン:400万ディルハム
 カラジュ:30万ディルハム
 ホラーサーン(東部イラン):2800万ディルハム、銀塊1000個、
  駄馬4000頭、奴隷1000人、外衣2.7万着、染料用ミロバランの実3万リトル
 シージスターン(シースターン):400万ディルハム、格子縞の外衣300着、砂糖菓子2万リトル
 ムクラーン(南バルチスターン):40万ディルハム
 シンド(インダス下流域)と周辺地域:1150万ディルハムと伽羅木150リトル​

 合計3億9872万5000ディルハムで、ほぼ4億ディルハム(4兆円)。物納品を足せば2倍ぐらいにはなるでしょうか。アッバース朝は世界帝国として、かくも莫大なカネを保有し、流通させていたのです。しかしハールーンの崩御後、アッバース朝の広大な版図には、各地に軍閥が分立します。869年にイラク南部で勃発した黒人奴隷の反乱は14年も続き、カリフのお膝元のイラクは荒廃して税収を失いました。

大食分裂

 同じ頃、東方ではサッファール朝が勃興してイラン全土を掌握し、9世紀末には中央アジアにサーマーン朝が興ってこれを呑み込みます。モロッコではシーア派のイドリース朝が、アルジェリアにはルスタム朝が、チュニジア(イフリーキヤ)とシチリアにはアグラブ朝が、エジプトにはトゥールーン朝が割拠します。892年、アッバース朝カリフはトゥールーン朝から妃を迎え、40万ディナールを超える持参金をもたらしたといいます。

 10世紀に入るとアンダルス・ウマイヤ朝の君主はカリフを称し、チュニジアでは909年にシーア派のファーティマ朝が興ってカリフを称します。エジプトでは905年からアッバース朝の支配が回復していましたが、935年にはテュルク系の軍人によるイフシード朝が割拠します。そしてイラン西部のブワイフ朝は、945年にバグダードへ入城してアッバース朝カリフを傀儡としました。さらに969年にはファーティマ朝がエジプトを征服しています。

 アッバース朝カリフの権威や権力はすっかり衰え、歳入は20万から30万ディナール(400万-600万ディルハム=400億-600億円)程度まで減りました。しかもいろいろピンハネ・中抜きされ、カリフの手には5万ディナール(100万ディルハム=100億円)程度しか残りません。暮らしていくには不自由はありませんが、ずいぶん減ったものです。

 この頃、ブワイフ朝はイクター制を導入しました。土地の私有や大土地所有が一般化し、国家が徴税を管轄して俸給を兵士に分配することが困難になっていたため、俸給の代わりに土地の徴税権(イクター)を授け、代わりに軍事奉仕の義務を課すというものです。西欧のレーエンや日本の知行に近いもので、11世紀後半には東ローマでもプロノイアという類似の制度が導入されています。いろいろな差異はありますが、収斂進化めいていますね。

 当然、有力な軍閥(大名)ほど多数のイクターを保有しています。宰相のイクターはカリフと同じ5万ディナールでしたが、イラクのサワード地方の軍閥は160万ディルハム、バティーハの太守は20-30万ディナール(400-600万ディルハム)ものイクターを持っていました。ブワイフ朝を11世紀に征服したセルジューク朝などでもイクター制度は形を変えつつ受け継がれ、イスラム世界における社会・経済体制の基礎となっていきます。

 同じ頃、アンダルス(コルドバ)・ウマイヤ朝やエジプトのファーティマ朝は最盛期を迎えています。コルドバのカリフ・アブドゥッラフマーン2世の遺産は500万ディナール(1億ディルハム=1兆円)にも達し、ファーティマ朝の歳入は300万ディナール(6000万ディルハム=6000億円)に達しました。ホラーサーンにはサーマーン朝に代わってテュルク系マムルークによるガズナ朝が勃興し、1018年にはインドへ遠征して1000万ディルハムもの戦利品を獲得しています。そして13世紀にはモンゴル帝国が東方から襲来し、これらイスラム世界の貨幣制度を活用することになります。

◆銀◆

◆星◆

【続く】

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