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【FGO EpLW 殷周革命】殷のライダー

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【クラス】
ライダー

【外見】
黒い甲冑に身を包んだ日ノ本の騎馬武者。燃えるように赤い眼。顔はぐねぐねと蠢く奇怪な面頬に覆われ、窺い知れない。刀や弓矢を用いて戦う。異様な妖気を放っており、近づく者の平衡感覚を狂わせる。

霊基再臨LV1:甲冑が血のように赤黒く染まり、ボロ布を纏う。面頬が牙のように変形する。

霊基再臨LV3:蚩尤の相。甲冑から角や棘が伸び、腕が六本、目が四つに増え、禍々しい饕餮文が浮かび上がる。

最終再臨:?

【真名】
平将門公

【性別】

【属性】
混沌・狂

【ステータス】
筋力:B 耐久:A 敏捷:C 魔力:A 幸運:D 宝具:B

【クラス別スキル】
騎乗:B
騎乗の才能。「乗り物」という概念に対して発揮されるスキルであるため、生物・非生物を問わない。大抵の乗り物なら人並み以上に乗りこなせるが、魔獣・聖獣ランクの獣は乗りこなせない。自身のクイックカードの性能をアップさせるパッシブスキル。

【固有スキル】
狂化:C
幸運と魔力を除いたパラメーターをランクアップさせるが、言語能力を失い複雑な思考ができなくなる。自身のバスターカードの性能をアップさせるパッシブスキル。

戦闘続行:A+
往生際が悪いどころではない。瀕死の傷でも戦闘を可能とし、決定的な致命傷を受けてもしばらく生き延び、祟りを受けた者の精神を触媒として蘇る。自身にガッツ付与(5ターン)。

御霊神:B(A++)
神性と鬼種の魔(怪力、カリスマ、魔力放出[磁気])の複合スキル。日本を代表する御霊神の一柱。本拠地ではさらなる猛威を振るう。味方全体の攻撃力アップ&自身の宝具威力アップ。

【宝具】
『妙見兵主銕身蝗(クロガネノオウ)』
ランク:B 種別:対軍宝具 種類:Quick
敵全体に超強力な攻撃&スタン付与&呪い付与

【マテリアル】
ググググググ……
正シク敬ハバ、祟リハセヌ……

身長:178cm(可変)
体重:360kg(砂鉄、可変)
時代:10世紀前半
地域:日本
属性:混沌・狂 性別:男

平安時代中期の坂東の豪族。桓武天皇の後裔・平高望の孫で良将の子。幼名は小次郎。本拠地は下総国豊田郡・猿島郡(現茨城県西部)。天慶2年(939)12月、朝廷に対抗して新皇を自称、東国の独立を標榜した。しかし翌年2月、朝廷が派遣した藤原秀郷・平貞盛らにより討伐され、戦死した。

延喜3年(903)頃、平良将と県犬養春枝の娘の間に生まれる。母の出身地から相馬小次郎ともいう。兄の将持、将弘(将軍太郎)が早世したため、後継者として期待された。元服後の延喜18年(918)頃に京へ出て、藤原北家の氏の長者であった忠平を私君とし、家人として主従関係を結んだ。良将の母は北家傍系の良方(忠平の祖父の異母弟)の娘であり、遠縁とはいえ藤原北家と縁があったので、その引き合いであろう。同時期に伯父国香の子・貞盛も上京して左馬允に叙せられている。将門の身分は滝口の衛士でしかなく、人柄を忠平に認められていたものの、官位は中級官人にとどまった。のち検非違使の佐や尉を望んだが入れられなかった。これは中央の検非違使ではなく、坂東に帰った時のために郡の検非違使を求めたものであろうという。
延長8年(930)末頃、父が逝去し、所領を継ぐため急ぎ帰郷した。

この頃、叔父良兼の娘が将門のもとに走り子を儲けたが、良兼は婚姻を認めず、将門と不仲になった。さらに伯父の国香や良正、その岳父である豪族の源護らとも争いになり、将門は源護と対立していた平真樹の娘を娶って対抗した。承平5年(935)、将門は源護の子・扶らに襲撃されるが返り討ちにし、源護の本拠である真壁郡へ進軍、敵の本拠を焼き討ちして国香を焼死させた。良兼・良正は国香の子の貞盛と共に将門と戦ったが敗走し、下野国府に退却。承平6年(936)、源護は将門・真樹を朝廷に告訴するが、太政大臣となっていた忠平の図らいにより翌年無罪となる。落胆した源護はやがて病死したが、良兼・良正・貞盛は屈服せず、将門の本拠地・常羽御厩を攻撃。将門は敗走し、真樹の娘とその子を殺され、良兼の娘とその子も連れ去られた。妻子はまもなく取り戻したが、将門はこれを恨んで良兼らを朝廷に告訴し、追捕の官符を賜る。良兼・良正らは勢力を失って病死し、貞盛も将門に攻撃されて身を隠した。

承平8年(938)2月、武蔵権守・興世王と武蔵介・源経基(清和源氏の祖)が、足立郡の郡司・武蔵武芝との紛争に陥った。将門が両者の調停仲介に乗り出し、興世王と武芝を会見させて和解させたが、武芝の兵がにわかに経基の陣営を包囲し、驚いた経基は京へ逃げ出してしまう。経基は将門、興世王、武芝の謀反を朝廷に訴えたが、調査の結果事実無根と判明し、経基は誣告の罪で罰せられた。同年5月、承平から天慶に改元された。興世王は、新たに受領として赴任してきた武蔵国守・百済貞連と不和になり、任地を離れて将門を頼るようになる。

天慶2年(939)、常陸の土豪・藤原玄明が常陸国府に追われて将門のもとへ逃げ込むと、将門は彼を匿い、国府からの引渡し要求を拒否した。私兵を集めて常陸国府を囲むと合戦となり、国府を攻め落として国司を捕縛、印綬を没収した。これは貞盛が常陸国府にいたためともいうが、将門はついに朝廷に反旗を翻す形となってしまう。この時、興世王は「いっそ坂東を攻め取ろう」と進言し、将門はそれに乗って下野・上野の国府を次々と攻略。自ら「新皇」を称し、猿島郡石井に政庁を置いて一族や家来を除目した。伝説では八幡大菩薩(応神天皇)の使いを名乗る巫女が「朕の位を蔭子平将門に授けん」と告げたというが、中央政権を否定まではせず、あくまで「坂東の王」を目指したようである。とはいえ反逆には違いなく、驚愕した朝廷は天慶3年(940)に藤原忠文を征東大将軍とし、将門討伐に赴かせた。

一方、貞盛は下野国押領使の藤原秀郷(俵藤太)と力を合わせ、4000の兵を集めて将門を討とうとした。これを聞いた将門は2月1日に1000の兵で襲撃するが敗走し、幸島郡の広江に退却。貞盛・秀郷らは勝ち戦に乗じて更に兵を集め、将門の本拠石井に攻め寄せ焼き払う焦土作戦に出た。追われる身となった将門は攻撃に転じることもままならず、手勢は僅か400に減った。2月14日、幸島郡の北山を背に布陣し援軍を待っていた将門を、貞盛・秀郷らの連合軍が攻撃。北風を背負った将門は矢戦を優位に展開するが、急に南風に変わって連合軍の優位となる。将門は自ら馬を駆って奮戦するも、額に矢が命中し討ち死にした。享年38歳。忠文らは進軍途中で朗報を受け、将門の首は京へ運ばれ晒された。貞盛・秀郷らは恩賞にあずかり、その子孫は武家の名門として栄えた。一方で将門の親族らは坂東に勢力を残し、中央政権への反抗精神を保ちつつ存続した。将門に関する様々な伝説は語り継がれ、『将門記』『平治物語』『太平記』などに記されてあまりに有名である。

のち将門塚の周辺で天変地異が頻繁に起こり、民衆を静めるために時宗の遊行僧・真教(他阿)によって神と祀られ、延慶2年(1309)には神田明神に合祀されることとなった。戦国時代の太田道灌・北条氏綱等の武将が武運祈願のため崇敬するところとなり、関ヶ原の戦いの際には徳川家康が戦勝祈祷を行った。このようなことから、江戸幕府により神田明神は江戸総鎮守として重視され、江戸城の鬼門にあたる現在地に遷座された。三代将軍家光の時代に、勅使大納言烏丸光広が幕府より将門の事績について聞かされ、「将門は朝敵に非ず」との奏上により、逆賊の名は除かれた。明治維新後、将門は朝廷に弓を引いた朝敵であることが再び問題視され、逆賊として扱われた。戦後は復権がなされ、反政府の英雄としてもてはやされた。

『妙見兵主銕身蝗(クロガネノオウ)』
ランク:B 種別:対軍宝具 レンジ:1-50 最大捕捉:100

ライダーが放射する霊的な磁気。全身に砂鉄を纏わせて擬似的に受肉し、鉄馬や六騎の騎馬武者を操って縦横無尽に戦う。電波通信の妨害、電磁兵器の遮断など汎用性に富み、敵の武具やニューロンにも働きかけて動きを制する。日本人には特に効くが、対魔力によって抵抗は可能。

あまりにも有名な日本三大怨霊の一柱(の分霊)。書いてるうちに気のせいか体調が悪くなったりしました。実際ナラク・ニンジャの原型でもあるのでナラク化した。まあシグルド=サンもダークロブスターサンド=サンめいてたし多少はね?

竹槍

異相

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