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2021年9月の記事一覧

【つの版】ウマと人類史:中世編12・澶淵之盟

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。  907年に唐が後梁へ禅譲して滅亡した時、契丹では耶律阿保機が可汗に即位して天皇帝と号し、唐の天命を次ぐ天子であることを宣言しました。チャイナでは李存勗が後梁を滅ぼして後唐を建国し、華北と四川を統一して天下の再統一に乗り出します。しかし後唐の覇権は長続きしませんでした。 ◆五代◆ ◆十国◆ 燕雲割譲 925年に蜀を併呑した翌年、李存勗は反乱に遭って殺され、李克用の養子であった李嗣源(明宗)が擁立されます。彼は応州(山西省朔州市

【つの版】ウマと人類史:中世編11・大契丹国

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。  9世紀中頃、ウイグルとチベットは相次いで崩壊します。唐は各地の藩鎮と折り合いをつけながら、どうにか統一を保っていました。しかし9世紀後半には全土を揺るがす反乱が起き、群雄割拠の時代がやってきます。 ◆変◆ ◆乱◆ 黄巣之乱 845年、唐の武宗は道教を庇護して仏教など外来の諸宗教を弾圧し、荘園の没収や僧尼の還俗、仏像・仏具の破壊熔融を行いました。これは唐がウイグルやチベットなどから圧迫されていたためもありますが、増えすぎた僧尼

【つの版】ウマと人類史:中世編10・契丹淵源

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。  9世紀中頃にウイグルとチベットが崩壊し、唐も内乱で瓦解する中、ユーラシア東部には新たな勢力が台頭します。寧夏のタングート、山西の沙陀突厥、そして遼河上流域の契丹です。 ◆契丹乱羅◆ ◆文字契丹◆ 契丹淵源 契丹(キタイ)の起源はかなり古く、西暦4世紀に遡ります。史書に初めて現れるのは、554年に北斉で編纂された北魏・東魏の正史『魏書』です。  高句麗・百済・勿吉(靺鞨)と並んで、失韋、豆莫婁、地豆于、庫莫奚、契丹、烏洛侯と

【つの版】ウマと人類史:中世編09・回蕃唐盟

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。  755年から763年まで続いた「安史の乱」により、唐は権威と国力を大いに減衰させ、ウイグルとチベットが勢力を増します。国内には藩鎮(節度使)が割拠し、半自立政権となりました。 ◆吐◆ ◆蕃◆ 回蕃侵攻  763年正月、史朝義が自決して安史の乱は終結しました。唐の天子・代宗はウイグルの牟羽可汗に英義建功毘伽可汗、ついで登里羅汨没蜜施頡咄登蜜施合倶録毘伽可汗の称号を授け、妃や諸臣にも封号や封地や賜物を贈りました。ウイグル軍は黄河

【つの版】ウマと人類史:中世編08・安史之乱

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。  ユーラシア東部の覇権国であった唐は次第に勢力が衰え、周辺諸民族は自立して唐を圧迫します。唐は各地に節度使を置いて軍政を委ね防衛に当たらせますが、これが天下を揺るがす「安史の乱」の原因となりました。 ◆FAT◆ ◆FAT◆ 政治対立 玄宗の宰相・李林甫は、堅実で有能ではありましたが狡猾で、自らの派閥で内外の人事を固め、敵対者を左遷・粛清しました。長年玄宗に仕えた老宦官の高力士は遠ざけられ、天下の貢物や官僚は李林甫の自宅に集まり

【つの版】ウマと人類史:中世編07・藩鎮蕃将

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。  735年に東突厥のビルゲ・カガンが逝去したのち、モンゴル高原にはウイグルが進出して取って代わります。西突厥に取って代わった突騎施も、ウイグルやカルルクに取って代わられ、内陸ユーラシアには新時代が訪れます。 ◆回◆ ◆紇◆ 回紇起源『旧唐書』迴紇(回紇、回鶻)伝などによると、ウイグルは匈奴の末裔であり、北魏の時代には勅勒の諸部族のひとつでした。突厥が興るとこれに従属し、特勒と呼ばれたといいます。古くは匈奴の時代に呼掲があり、高

【つの版】ウマと人類史:中世編06・突厥碑文

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。  西暦630年から657年にかけて、唐は東西突厥と鉄勒の薛延陀部を滅ぼし、モンゴル高原から中央アジアに至る広大な領域に覇を唱えました。チベット高原の吐蕃とも友好関係を結んでおり、まさに世界帝国と呼ぶにふさわしい大国となったのです。その実態を見てみましょう。 ◆中◆ ◆華◆ 突厥復興 649年、太宗李世民の跡を継いだ皇太子・李治(高宗)は、父の築き上げた帝国をさらに拡大しました。西突厥を征服して都護府を置いたのち、661年にはト

【つの版】ウマと人類史:中世編05・唐天可汗

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。  628年、東ローマは西突厥と手を組んでペルシアを屈服させましたが、同年には西突厥の統葉護可汗が殺されています。東西の突厥は唐の策略で分断され、従属部族の鉄勒が台頭するなど受難の時代となりました。 ◆唐◆ ◆唐◆ 鉄勒諸部 鉄勒とはやはりテュルクの音写ですが、阿史那氏の可汗を頂く部族連合としての「突厥」とは異なるテュルク系の諸部族を指します。唐代に編纂された史書『隋書』『北史』などによると「匈奴の苗裔」とされますから、要は勅勒

【つの版】ウマと人類史:中世編04・拓跋天子

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。  西暦589年、隋の文帝楊堅は陳朝を滅ぼし、永嘉の乱以来270数年ぶりにチャイナの天下を再統一しました。突厥は建国から40年近くを経て東西に分裂しており、隋はその隙を突いて国力を高め、突厥を分断していきます。 ◆United We Stand◆ ◆Divided We Fall◆  ルビ機能が無料で使えるようになったそうですので、試してみましょう。 啓民可汗 陳が滅んだ後、楊堅は陳の宮中にあった屏風を突厥の大義公主に贈りまし

【つの版】度量衡比較・容量

 ドーモ、三宅つのです。超久しぶりに度量衡比較をやります。  前回は面積でしたが、今回は度量衡の量、すなわち容量・体積についてしていきます。ついに二次元から三次元へ次元アセンションすることになります。体積が何かとかいう定義は置くとして、容量を計測する歴史的単位について比較します。つのは特になんの専門家でもないため、詳しいことは専門家にお聞き下さい。 ▼升と合 古来、容量も人の身体で計られてきました。水や穀物を両手で掬った時の量(約200ml)が基本単位で、チャイナではこれ

【つの版】ウマと人類史:中世編03・東西突厥

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。  突厥は柔然とエフタルを滅ぼし、ユーラシアの東西を統合する大帝国となりました。彼らはいわゆる「テュルク」ですが、支配下の住民が全てテュルク「民族」に変わったわけでも、顔立ちや血筋や言語が入れ替わったわけでもありません。騎馬遊牧民の人口は定住民より常に少なく、上がすげかわり共通語が増えただけで、下々はそのまま暮らしています。 ◆トゥルトゥル◆ ◆ダダダ◆ 被髪左衽 ひとまず、周書に書かれた突厥の習俗を読んでいきましょう。原文を引

【つの版】ウマと人類史:中世編・インデックス

 ドーモ、三宅つのです。新たにインデックスを作りました。  つのの記事はつのに属しますが、ミームが広がるのは歓迎しますので、紹介したり感想を書いたりする程度はご自由にして下さい。You Tubeとか書籍とかでつのの記事に基づく仮説を披露しても構いませんが、その場合は出典を明記して下さい。つのも参考文献一覧を作りました。  なお主な舞台となる中央ユーラシアは大変広く、世界各地に話が飛びますので、世界地図をご用意下さい。なければGoogle Mapで充分です。 ◆突厥編01

【つの版】ウマと人類史:中世編02・突厥帝国

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。  西暦552年、アルタイと天山の付近に突厥可汗国が独立し、西魏やエフタルと手を結んで柔然を攻撃しました。柔然の可汗は自決に追い込まれ、モンゴル高原は急速に突厥の手に落ちていきます。 ◆両面◆ ◆宿儺◆ 木汗可汗 突厥の初代可汗の土門(伊利可汗)は552年に逝去し、子の科羅が立って乙息記可汗と号しました(隋書では伊利可汗の弟で逸可汗)。彼も柔然と戦い、西魏に馬5万匹を献上しましたが、553年に逝去します。子の摂図はまだ幼かったた

【つの版】ウマと人類史:中世編01・蒼天狼祖

 ドーモ、三宅つのです。あまりに増えすぎたのでここから中世編ですが、前回の続きです。  中央アジアから拡散したフーナ/キオニタエ/フン族の勢いは、南はインド洋に到達し、西はライン川を越えてオルレアンにまで及びました。欧州ではアッティラの死後急速に崩壊したものの、中央アジアやアフガニスタンではエフタルが強大となり、ペルシア帝国を脅かしています。しかし、やがてテュルクの一派である突厥が勃興し、内陸ユーラシアを席捲するのです。 ◆狼◆ ◆祖◆ 高車興亡 エフタルの東、高車や