お使いの火

 あの夏は新文芸坐でタルコフスキーのオールナイトを観ていた。三本立ての最後が「ノスタルジア」で、映像からもたらされる香気に包まれながら、鑑賞で酷使した背中をさすりながら、席を立った。雲が次第に生命めいてくる朝靄の中へ。

 目を開きながら見れる夢に祈りたいと最後に思ったのはいつ?

 明け方の空の無責任な微笑。そこに差し挟まれる逃げる魚。動かすほどに意志を失う脚がいとおしくて、失った記憶なのかと思った。ここは池袋なのに。
 海へ行こう、と思った。「一人で海に行くのは怖い」と言う親友を誘って。家に帰り数時間だけ眠った。気分が高揚していて、なかなか眠れなかった。寝不足の時に私の骨は独立した生き物のようによく鳴る。もう一つ命を飼い馴らしているのに近い。
 電車で南下していく。開けていく視界が朝まで観ていた映画のスクリーンに接続されていく。何を話したかは、ほとんど覚えていない。夏子が覚えていなくても、私が覚えているから大丈夫、と要所要所で伝えてくれる彼女に甘えているからなのかもしれない。イメージを積み上げるとき、忘却は瓦解の助けとなって、むしろつよくしてくれる時があること。それを私は年齢を重ねるうちに知っていったのかもしれない。

 日が落ちる。

 波の音も運動なのだと思う。よく晴れた日だった。わたしたちは花火をしようと試みる。蝋燭を吹き消そうとする口の集合体なのだろうか、と思える風の、偶然に満ちた曲線が落とされていく。手持ち花火には、なかなか火がつかなかった。火がつくだけでこんなにうれしい。楽しい。いま教えてもらっているのだった。
 「火をください」
同じように花火に苦戦しているこどもたちがどこからかやってくる。火をもらったらこども諸共消えてしまうかのような軽さで。点々と続いている。止めることができない連なりの中にいた。タルコフスキーの映画からこぼれた一滴の中を生きているのかもしれなかった。ここを空けておきましょう。次に到来するもののために。

――火の消えた蝋燭を持って歩くのも、火を守る一つの方法なのだ――

どこに立てかけておくべきか迷う看板を、刻印して歩くことにした。ライオンを追っている。時代の先端にいる。
          *
 空港に着いてから、しばらく歩く。知らないうちに黄色い花びらが一枚、鞄の中にすべりこんでいた。少なくともその瞬間は一人だったから、それを歓迎のしるしと思うことにした。
 一つの目的地を訪れたら、とりあえず海に行こうと思っていた。濡れてもいいサンダルまで丁寧に鞄に入れていた。気が変わったのか、訪れた店の人が示してくれた観光地に行ってみようと思った。
 移動する車は風景を後ろへ後ろへと振り抜いていく。目だけが空間に漂ってしまう。もしかしたら一番いい季節に着地したのだろうか。涙、埃、不純物、それら一切を追い払って、懸命に脳裏に焼き付けようと努力した。懇願する犬の必死さ。「緑が美しい・・・」と思わず声が漏れた。どうでもいいことだが、美しいを普通に使えるようになったのはつい最近のことだ。
 
 目的地に着いた。地面が乾いて熱かった。全く予想していなかった海が眼下に広がっていて、うまく泣けなかった。砂の柔らかさをよく覚えている。知らない男の子たちがペットボトルを海の彼方に投げようとしていた。投壜通信と推測するのは、普段われわれがいる世界のおはなしだから、単純に飲み物を入れているのだと言い聞かせてみた。帰りに見かけた店のレジ前では風車が人工の風で回されていた。
          *
 一番小さい海は、蝋燭の周りのロウなのかとたびたび思う。部屋から接続できるところに安心できる。買ったばかりのチュベローズのアロマキャンドル、と言い換える。湖と音のない海の違いがまだわからないまま、ただ、今日が過ぎていく。夏が傾いていく。
 消えた蝋燭の周りにあるのは、かざされた手や暖をもとめた肌や細めた目の残像だろうか。
それらは相互に作用し合って、火を守ってくれるだろうか。疑問形に一番強く現れる願望を抱きながら歩いていたんだ。
 雨でずぶ濡れになっているだけなのに、しかも好きで濡れているのに、人を殺してきたような目で見られることに、どうしても納得がいかない。雨、も最近はなかなか降らない。

――自然な状態に戻っているだけです
――こうして火を守っているんです

 誰ともつかない声の重なりに溶けていく美学。まだ座っている人を探す午後に投げ出された。
  

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