裴鉶『伝奇』の創作性について―「寗茵」を中心として―

「中国文学研究論集」創刊号(1998年4月) 所収

晩唐の裴鉶が著した小説集『伝奇』(注1)は、「崑崙奴」や「聶隠娘」(注2)といった唐代を代表すると言ってよい作品を収めていることでその名を知られている。また宋代以降広く読まれたことが、『唐詩紀事』巻六十七に「〔裴〕鉶傳奇を作り、世に行はる。」とあることからも窺える。更に、北宋の陳師道『後山詩話』にも、「范文正公岳陽樓記を爲(つく)り、對語を用ひて時景を説き、世以て奇と爲す。尹師魯之を讀みて曰く、『傳奇體なるのみ。』と。傳奇は唐裴鉶の著す所の小説なり。」と見える。加えて、明の胡応麟が『少室山房筆叢』荘嶽委談下に「唐の所謂傳奇は、自ら是れ小説の書名にして、裴鉶の撰する所なり。中の藍橋等の記の如きは、詩詞家今に至るも之を用ふ。」と記すように、後代に対する影響も大きく『酔翁談録』や『遠山堂曲品』等の記載の中からも、『伝奇』所収の作品が読み継がれ、戯曲話本に多くの題材を提供していたことが見て取れる(注3)。

 さて、そのように名を知られ、多くの秀作を収める小説集『伝奇』の中にも、後代あまり注目を集めることのない作品は幾つかあり、「寗茵」(注4)もそういった小品の一つである。
 本論考では、その「寗茵」を中心にして、裴鉶『伝奇』が有する創作性の一端を明らかにしてみたい。

 「寗茵」のあらすじというのは、およそ以下のようなものである。

時は唐の大中年間(847~860)、南山の麓の古びた屋敷に、寗茵という男が住んでいた。ある夜、風月の清らかさに誘われて、庭で詩を吟じると、それを聴いた二人の隠者が相次いで訪ねて来た。一方は桃林の斑特処士、もう一方は南山の斑寅将軍という。二人は斑氏の出自について、挨拶代わりに語り合った後、寗茵から盤を借りて碁に興じる。寗茵が斑特に一手教授すると、斑寅は彼を好手であると褒め称えた。うち解けた三人は酒を巡らすが、酔った斑寅斑特は口論を始める。その場は寗茵が諫め、各自一首ずつ詩を賦すこととなる。しかし、寗茵が斑特の詩を誉めたため、斑寅は悪態をついて帰り、斑特も斑寅に苦言を呈しつつ去ってしまう。翌朝、門の外に牛と虎の足跡があるのを見て、寗茵は事の真相を悟る。そして足跡を辿って、酒気を帯びた牛を発見する。その後、ほどなく寗茵は都へ戻った。

 この「寗茵」の特徴は、凡そ以下の二点に整理することが出来るだろう。

一、①「夜」に、②「人に化けた妖怪」が、③「会話」するのに、④「遭遇」する。
二、妖怪の言説が正体に縁のある語や典故を踏まえている。

 第二の特徴については、あらすじからは窺い知ることは出来ないが、例えば、牛である斑特が、「某田野之士、力耕之徒。向畎畝而辛勤、與農夫而齊類。(某は田野の士、力耕の徒なり。畎畝(けんぽ)に向(お)いて辛勤し、農夫と類を齊しくす。)」というような類がこれに当たる。このような特徴を持つのは、「寗茵」だけには留まらない。その存在を指摘することが出来る幾つかの作品、つまり「寗茵」の類話をその成立年代順に示すと、以下のようになる。

『霊怪集』姚康成(『太平広記』巻371)
『玄怪録』元無有(『太平広記』巻369)
『玄怪録』滕庭俊(『太平広記』巻474)
『博異志』岑文本(『太平広記』巻405)
『宣室志』独孤彦(『太平広記』巻371)
『瀟湘録』馬挙(『太平広記』巻371)(注5)

 そして、よく知られた「東陽夜怪録」(注6)も類話にあげられる。但し、その成立年代は不詳である。また、この他に、第二の特徴である「正体に縁のある語や典故を踏また言説」が見られない点を除けば、これらの作品――特に「東陽夜怪録」――に類似した「張鋋」という作品が、『太平広記』巻445に「出廣異記」として載せられていることは、念頭に置いておくべきであろう(注7)。更に、第二の特徴に加えて、第一特徴の内の②「人に化けた妖怪」という要素も欠いてはいるが、『宣室志』梁璟(注8)も、状況設定などが似通っており、参考とするに足るものであると言える。
 これら全ての作品について、以下にその要点を記す。尚、かっこ内の「有・無」は、縁語や典故を用いた言説の有無を示している。

・「姚康成」……鉄銚子・破笛・禿黍穣箒が詩を賦す。(有)
・「元無有」……故杵・燈台・水桶・破鐺が詩を賦す。(有)
・「滕庭俊」……禿掃箒・大蒼蠅が会話し、詩を賦す。(有)
・「岑文本」……漢の武帝が鋳造させた五銖銭が身の上話をする。(有)
・「独孤彦」……鉄杵と甑が身の上話をする。(有)
・「馬挙」……碁盤が身の上話をする。(有)
・「東陽夜怪録」……駱駝・牛・犬・猫・鶏・驢馬・二匹の針鼠が身の上話をし、詩を賦す。(有)
・「張鋋」……猿の妖怪に招かれて、熊・虎・狼・豹・狐・亀に遭い、翌日、事を悟って退治する。(無)
・「梁璟」……夜、幽霊達が集まっているのに遭遇して、共に詩を賦す。(無)

 以下、「寗茵」とその類話との共通点について考えてみたい。
 周楞伽は『裴鉶伝奇』(上海古籍出版社1980年10月)において、「這類作品(「寗茵」のこと)、似乎或多或少受無名氏《東陽夜怪録》的影響。」と述べている。「東陽夜怪録」は、その成立を上限である元和13年(注9)に置けば、『玄怪録』と相前後し、『伝奇』に先行する事になるが、先にも述べたとおり成立年代について不詳である。よって、ここでは「寗茵」と「東陽夜怪録」との影響関係についてはひとまずおくが、『玄怪録』所収「滕庭俊」や『宣室志』所収「独孤彦」も、妖怪が二匹であり主人公に話しかける点など、細かな部分において「寗茵」との類似を示しており、「寗茵」に影響を与えている可能性が高い。以下、その詳細について「滕庭俊」との比較で見てみる。
 まず第一に、妖怪の側から主人公に接触している点が挙げられる。特に「滕庭俊」「寗茵」においては、主人公の吟ずる声がその契機となっている。「滕庭俊」では、

遂投一道傍莊家。主人暫出、未至。庭俊心無聊頼、因歎息曰、「爲客多苦辛、日暮無主人。」即有老父、鬢髮疏禿、衣服亦弊。自堂西出、拜曰、「……雖貧亦有斗酒。接郎君清話耳。」(遂に一道傍の莊家に投ず。主人暫く出でて、未だ至らず。庭俊心に聊頼無く、因りて歎息して曰く、「客と爲りて苦辛多く、日暮れて主人無し。」と。即ち老父有り、鬢髮は疏禿にして、衣服も亦弊る。堂の西より出で、拜して曰く、「……貧しと雖も亦た斗酒有り。郎君を接(むか)へて清話するのみ。」と。)

とあるのに対して「寗茵」では、

因夜風清月朗、吟咏庭際。俄聞叩門聲。稱桃林斑特處士相訪。……〔斑特〕曰、「……巣居側近、睹風月皎潔、聞君吟咏、故來奉謁。」(夜の風清く月朗かなるに因りて、庭際に吟咏す。俄かに門を叩く聲を聞く。桃林の斑特處士相ひ訪ぬと稱す。……〔斑特〕曰く、「……側近に巣居し、風月の皎潔たるを睹、君の吟咏せるを聞き、故に來りて奉謁す。」と。)

とある。妖怪の側が初めからそこにいたのか、訪ねてきたのかという差異はあるが、主人公への接触は何れも妖怪の側主導の行為である。
 第二点目は、主人公の何気ない言葉が事の真相に迫っているという点である。まず「滕庭俊」では、

〔庭俊〕詩曰、「田文稱好客、凡養幾多人、如欠馮諼在、今希厠下賓。」且耶、麻大、相顧笑曰、「何得相譏。」……。而館宇并麻和二人、一時不見。乃坐厠屋下、傍有大蒼蝿禿掃帚而已。(〔庭俊の〕詩に曰く、「田文客を好むを稱せられ、凡そ養ふこと幾多の人なるか、如し馮諼の在るを欠かば、今希はくは厠下の賓たらん。」と。且耶、麻大、相ひ顧みて笑ひて曰く、「何ぞ相ひ譏(そし)るを得んや。」と。……。而して館宇并びに麻和二人、一時に見えず。乃ち厠屋の下に坐し、傍に大蒼蝿禿掃帚有るのみ。)

とある。一方「寗茵」では次のようになっている。

茵曰、「管中窺豹、特見一斑兩斑。」寅曰、「大有微譏。又一發兩豝耳。」……茵曰、「曉讀雲水靜、夜吟山月高、焉能履虎尾、豈用學牛刀。」……及明、視其門外、唯虎跡牛踪而已。(茵曰く、「管中に豹を窺ひ、特(た)だ一斑二斑を見るのみ。」と。寅曰く、大いに微譏有り。又一發兩豝なるのみ、と。……茵曰く、曉に讀む雲水の靜かなるを。夜に吟ず山月の高きを。焉んぞ能く虎尾を履まん。豈に用て牛刀を學ばん、と。……明くるに及び、其の門外を視れば、唯だ虎跡牛踪あるのみ。)(注10)

 「寗茵」の「管中に豹を窺ひ」云々については、後に詳しく述べるが、何れも主人公が自らの思いを詩や典故表現が、期せずして妖怪の正体や自分の置かれた本当の状況を言い当てている。ここでは両者とも妖怪の側がそれを譏りとして受け取っている点が、特異な共通項となっている。
 第三点目は、「滕庭俊」の中で妖怪が曹丕の詩を引用しているのに対して、「寗茵」では曹植の詩が引用されているという、この両者に特有の共通点である。

〔麻來和〕拜曰、「……聞郎君吟『爲客多苦辛、日暮無主人。』雖曹丕之『客子常畏人』、不能過也。」(〔麻來和〕拜して曰く、「……郎君の『客と爲りて苦辛多く、日暮れて主人無し。』と吟ずるを聞く。曹丕の『客子常に人を畏る』と雖も、過ぐる能はず。」と。)
と、「滕庭俊」では、主人公の詠んだ句と同じく、旅人を詠んだ曹丕の「雑詩」(其二)の一句を引き合いに出している。これに対して、「寗茵」では、寗茵に口論を諫められた斑特が、

特吟曹植詩曰、「萁在釜下燃、豆在釜中泣。此一聯甚不惡。」(特曹植の詩を吟じて曰く、「萁は釜下に在りて燃え、豆は釜中に在りて泣く。此の一聯甚だ惡しからず。」と。)

と、曹植が兄曹丕に信頼されていないことの嘆きを読み込んだ「七歩詩」の二句を、自分たちの状況に引きつけて用いている。「滕庭俊」と「寗茵」のこの類似性は偶然では片付けられないのではなかろうか。
 また、他の作品との類似点として特に注目すべきは、明らかに先行する「滕庭俊」「岑文本」「独孤彦」と「寗茵」とは、共に妖怪達が、縁語や典故を踏まえた言説でもって主人公と会話し、多くの場合自らの身の上を話している点である。例えば「独孤彦」に、

彦因徴其所自。黒衣者曰、「吾之先、本盧氏。吾少以剛勁聞。……。」語罷、曾元曰、「吾之先、陶唐氏之後也。唯陶唐之官、受姓於姚曾者、與子孫以字爲氏。故爲曾氏焉。我其後也。……。」(彦因りて其の自る所を徴(あきらか)にせんとす。黒衣の者曰く、「吾の先は、本盧氏なり。吾少くして剛勁を以て聞ゆ。……。」と。語り罷りて、曾元曰く、「吾の先は、陶唐氏の後なり。唯だ陶唐の官の、姓を姚曾に受くる者は、子孫に與ふるに字を以て氏と爲す。故に曾氏と爲す。我は其の後なり。……。」と。)
とあり、「寗茵」に「某は田野の士、力耕の徒なり。畎畝(けんぽ)に向(お)いて辛勤し、農夫と類を齊しくす」や、「特曰、『昔呉太伯爲荊蠻、斷髮文身。因茲遂有斑姓。』寅曰、『老兄大妄。殊不知根本。且斑氏出自鬪穀於菟。有文斑之像、因以命氏。』(特曰く、『昔呉太伯荊蠻と爲り、髮を斷ちて身に文す。茲に因りて遂に斑姓有り。』と。寅曰く、『老兄大妄たり。殊に根本を知らず。且つ斑氏は鬪穀於菟より出づ。文斑の像有り、因りて以て氏に命ず。』と。)」と有るようなものである。
 このことからすれば、「寗茵」は、「滕庭俊」などを参考にし、ただ模倣しただけの作品ということに落ち着きそうである。しかし、ただそれのみに堕するものではないと考えるに足る判断材料が存在する。それは、「寗茵」が些か特異な点を併せ持っていることである。

 それでは、「寗茵」が持つ特異性、つまり類話との相違点は、具体的にはいかなるものであろうか。

 まず第一に挙げられるのは、類話群の冒頭部分と、「寗茵」のそれとの状況設定の差である。例えば「元無有」では、

寳應中、有元無有。常以仲春末、獨行維揚郊野。値日晩、風雨大至。時兵荒後、人戸多逃。遂入路旁空莊。須臾霽止、斜月方出。無有坐北窓、忽聞西廓有行人聲。未幾、見月中有四人。(寳應中、元無有有り。常(かつ)て仲春の末を以て、獨り維揚の郊野に行く。日晩(く)れ、風雨大いに至るに値ふ。時に兵荒の後にして、人戸逃ぐるもの多し。遂に路旁の空莊に入る。須臾にして霽止し、斜月方に出づ。無有北窗に坐するに、忽ち西廓に行人の聲有るを聞く。未だ幾くならずして、月中に四人有るを見る。)

と、風雨と日没に追い込まれるような形で、怪異との遭遇の場へと向かう。同じく『玄怪録』所収の「滕庭俊」では、

文明元年、毘陵滕庭俊患熱病積年。毎發、身如火燒、數日方定。名醫不能治。後之洛調選、行至滎水西十四五里。天向暮、未達前所。遂投一道傍莊家。主人暫出、未至。(文明元年、毘陵の滕庭俊熱病を患ふこと積年。發する毎に、身火もて燒かるるが如く、數日にして方めて定まる。名醫も治す能はず。後洛に之き調選せられ、行きて滎水の西十四五里に至る。天暮るるに向ふも、未だ前所に達せず。遂に一道傍の莊家に投ず。主人暫く出でて、未だ至らず。)
とあり、行き暮れて宿場にたどり着けないという以外に、主人公の滕庭俊が、平素から熱病に悩まされていたことが述べられている。最も顕著なのが「東陽夜怪録」で、以下のように記す。

東出縣郭門、則陰風刮地、飛雪霧天。行未數里、迨將昏暗。自虚僮僕、既悉令前去、道上又行人已絶、無可問程。至是不知所屆矣。……有下塢、林月依微、略辯佛廟。自虚啓扉、投身突入、雪勢愈甚。(東のかた縣の郭門を出づれば、則ち陰風地を刮(けづ)り、飛雪天を霧(くら)くす。行くこと未だ數里ならずして、將に昏暗ならんとするに迨(いた)る。自虚の僮僕、既に悉く前に去らしむれば、道上又行人已に絶え、程(みち)を問ふべくも無し。是に至り屆る所を知らず。……下塢有り、林月依微として、略ぼ佛廟と辯ず。自虚扉を啓(ひら)き、身を投じて突入し、雪勢愈いよ甚し。)※霧は原文では「力」の部分が「目」。
 風雪激しい夜に仕方なく寺に一夜の宿を求めている。これらを見ると、主人公は何れも一種の極限状態に置かれたことが読みとれる。また、こういった描写は、それ以降述べられる本題である事件が、異常なもの、怪異なものであるという印象を読者に抱かせるのに十分効果的である。『宣室志』所収「梁璟」では、そのような描写は見られないが、「璟心知其鬼也。(璟心に其の鬼なるを知る。)」とあり、怪異であることが示されている。
 一方、「寗茵」では、その冒頭の状況というのは以下のようになっている。

大中年、有寗茵秀才假大寮莊於南山下。棟宇半墮、墻垣又缺。因夜風清月朗、吟咏庭際。俄聞叩門聲。稱桃林斑特處士相訪。茵啓關、睹處士形質瓌瑋、言詞廓落。(大中の年、寗茵秀才有り大寮莊を南山の下(ふもと)に假る。棟宇半ば墮ち、墻垣又缺く。夜の風清く月朗かなるに因りて、庭際に吟咏す。俄かにして門を叩く聲を聞く。桃林の斑特處士相ひ訪ぬと稱す。茵關を啓き、處士を睹れば形質瓌瑋、言詞廓落たり。)

 「棟宇半ば墮ち、牆垣又缺く。」とはいっても、一夜の宿りというわけでもなく、「風清く月朗か」で、詩を吟じたくなるような夜でしかない。しかも、寗茵は斑特斑寅とも何ら怪異を感じることもなく堂々と対している。風月清らかなのは、先の「梁璟」にも「天雨新霽、風月高朗。(天雨新たに霽(は)れ、風月高く朗かなり。)」とあり同様なのであるが、既に述べた通り、怪異性の提示が行われている。また、幽霊の話では他に、『続玄怪録』の「張庾」(注11)に「獨庾在月下、忽聞異香滿院。(獨り庾月下に在り、忽ち異香の院に滿つるを聞く。)」、『宣室志』の「唐燕士」(注12)に「常日晩、天雨霽、燕士歩月上山。夜既深、有羣狼擁其道、不得歸、懼既甚。(常て日晩れ、天雨霽れ、燕士月に歩み山に上る。夜既に深くして、羣狼の其の道を擁(ふさ)ぐ有り、歸るを得ず、懼るること既に甚し。)」とあり、やはり月が出てはいても、それに伴う状況が「寗茵」とは大きく異なっており、「東陽夜怪録」などに近いと言える。
 つまり、他の作品が、妖怪との邂逅という事件をまがりなりにも怪奇現象として位置づけて、それに相応しい雰囲気作り、状況設定を行っているのに対して、独り「寗茵」だけは、それとは明らかに演出の方向性が異なっており、これは作品の狙いそのものがやはり他とは異なっていたと考えるべきであろう。
 次の要点、それは主として妖怪側が行う言説である。既に妖怪の正体と関わる語彙や典故を用いた言説が一連の作品を貫く特徴であることは、まずそれを類話選定の基準としたことでも示しているが、ここで問題とするのは、それら言説の、各々の作品中におけるあり方である。まず、『霊怪集』所収「姚康成」に於いて、器物の一人が詠じた詩を見てみることにする。

頭焦鬢禿但心存 頭焦(やつ)れ鬢禿げ 但だ心の存るのみ
力盡塵埃不復論 力を塵埃に盡すも 復た論ぜられず
莫笑今來同腐草 笑ふ莫れ 今來 腐草に同じきを
曾經終日掃朱門 曾經(かつ)て 終日 朱門を掃けり。

 「年老いて志はあっても、世の役には立たず、今は無用のみを笑われるが、かつては立派な働きをした良き日もあったのだ。」と、過去を懐かしむ士人の心情を表現した詩と読み得るものである。しかし、物語の結びにおいて、その正体が「禿黍穰箒」つまり禿げ箒と知らされてみれば、その意味するところは一変し、「禿げて心棒だけになり、塵を集めることもかなわず捨てられて朽ち果てかけた箒にも、かつては豪族の門を掃くのに使われた日々があった。」となり、むしろその方が文字通りの読みであることにも気づかされる。『宣室志』所収「独孤彦」において、妖怪は身の上話をするのだが、これも同様のもので有る。
〔甲侵訐〕曰、「吾之先、本盧氏。吾少以剛勁聞。……又吾素精藥術。嘗侍忝醫之職。非不能精熟、而升降上下、即假手於人。後以年老力衰、上欲以我爲折腰吏。……吾有舅氏、常爲同僚。其行止起居、未嘗不倶。」(〔甲侵訐〕曰く、「吾の先は、本盧氏なり。吾少くして剛勁を以て聞ゆ。……又吾素より藥術に精(すぐ)る。嘗て侍して醫の職を忝(かたじけな)くす。精熟する能はざるに非らざるも、升降上下は、即ち手を人に假る。後年老い力衰へたるを以て、上我を以て折腰の吏と爲さんと欲す。……吾に舅氏有り、常に同僚たり。其の行止起居、未だ嘗て倶にせずんばあらず。」と。)

 「かつて医療にたずさわっていた。」や「同僚の舅氏といつも一緒にいた。」など、一見全くただの「人の述懐」に過ぎないが、話者である甲侵訐の正体が鉄の杵であると分かってみると、それは道具としての鉄の杵の製作と使用の過程を述べた言葉であることが明らかとなる(注13)。「升降上下は、即ち手を人に假る。」は昇進降格が他人の意による事を言うのであるが、ここでは文字通り杵が人の手で上下させられることを表している。また「吾に舅氏有り、常に同僚爲り。其の行止起居、未だ嘗て倶にせずんばあらず。」と、いつも共にいた同僚のことを言いつつ、実は「舅」とは「臼」の事を言っているのである。
 これらは、人事についての言説と、器物などについての言説を、一つの表現に二重写しにしており、最後に正体を明かすことで比喩から文字通りの意味へと言説の表現内容を一変させる、つまり意味を転換するという構造になっている。無論、基本的には「寗茵」も同様なのであるが、「寗茵」以外の作品では、そのこと自体を楽しみの主たる対象としている、つまり意味が転換された瞬間の驚きを楽しんでいたと考えられる点が重要なのである(注14)。
 それは、「独孤彦」に見られたような表現自体の巧みさもさることながら、分かり難いものをあえて用いていることでも明らかである。例えば、「東陽夜怪録」では既に簡単に紹介したとおり、駱駝や猫、或いは針鼠(注15)というような、言及されること自体が極めて希な動物を用いている。更に、現存最古の形態である『太平広記』所収の段階で、注が施された形を取っており、当時の人々にとっても難解であったことが窺える。また、「滕庭俊」では、箒と蠅という、さほど珍しくもない道具と虫を登場させているが、その蠅は、

冬朝毎去依烟火 冬朝去る毎に烟火に依り
春至還歸養子孫 春至らば還た歸りて子孫を養ふ
曾向符王筆端坐 曾て符王の筆端に向(お)いて坐し
爾來求食渾家門 爾來食を渾家の門に求む

と詠じている。この「曾て符王の筆端に向ひて坐」すは、『晋書』巻百十三載記「苻堅上」に見える、大赦を出そうとした苻堅の筆に大きな蒼蠅が留まり、しばらくして長安中に大赦が出るという噂が広まったという、滅多に用いられそうにもない故事(注16)を踏まえている。これらはいずれも如何に難解にし、意味が転換された際の驚きを強くするかという演出を追求した結果であると考えられる。換言すれば、これらの作品は、ある種の謎解き的言語遊技としての楽しみを提供するものであったと言えよう。

 つぎに「寗茵」の典故表現の特徴について考えると、こちらも「二重写し」を用いて、人事に対する弁と動物についての言を転換させている点に違いはないのだが、謎解きの難解さを旨としていないのが最大の差であると言える。つまり、「東陽夜怪録」や「独孤彦」などが、縁語や典故を用いた言説を以て正体を知る手がかりとし、最後に謎が明かされることを重視しているのに対して、「寗茵」では、初めから正体を隠すことを放棄しているように思えるのである。登場しているのは、南山の斑寅将軍という虎と、桃林の斑特処士という牛である。この二種の動物は十二支でも「子丑寅卯……」と仲良く並んでいて(注17)、各々非常に一般的な動物である。そしてこの場合、その名があまりにも露骨である。「独孤彦」では、鉄の杵は「稱姓甲、名侵訐、第五(姓は甲、名は侵訐、第五と稱)」しており(注18)、これは最後の、

甲侵訐者、豈非鐵杵乎。且以午木是杵字。姓甲者、東方甲乙木也。第五者、亦假午字也。推是而辯、其杵字乎。名侵訐者、蓋反其語爲金截、以截附金、是鐵字也。(甲侵訐なる者、豈に鐵杵に非ずや。且つ以へらく午木は是れ杵字なり。姓の甲なる者は、東方甲乙の木なり。第五なる者は、亦午字に假る、と。是を推して辯ずれば、其れ杵字ならんか。名の侵訐なる者、蓋し其の語を反さば金截と爲り、截を以て金に附さば、是れ鐵字なり。)

という僧による謎解きがなくてはとてもその正体に見当が付けられる名前ではない。ところが「寗茵」においては、斑寅の寅は文字通り虎であり、斑特の特もまた雄牛を意味する(注19)。斑は言うまでもなくまだら模様である。これらが例えば、

〔斑〕特曰、「某少年之時、兄弟競生頭角。毎讀春秋之頴考叔挟輈以走、恨不得佐輔其間。讀史記至田單破燕之計、恨不得奮撃其間。讀東漢至於新野之戰、恨不得騰躍其間。」(〔斑〕特曰く、「某少年の時、兄弟頭角を生ずるを競ふ。毎に春秋の頴考叔輈を挟みて以て走るを讀みては、其の間に佐輔するを得ざるを恨らみ、史記を讀み田單破燕の計に至りては、其の間に奮撃するを得ざるを恨らみ、東漢を讀みて新野の戰に至りては、其の間に騰躍するを得ざるを恨らむ。」と。)

とあるように、『史記』田単伝(注20)のみならず、『蒙求』にも「田単火牛」として見えるほどに世に知られた故事を引くに当たって、読者がその正体に気づかないとは、到底考えられない。
 その他、「寗茵」で用いられている典故・故事には、次のようなものが見られる。
 まず、先に引用した斑特の科白中の「頴考叔挟輈以走」は、『春秋』隠公十一年左氏伝に、許国攻略の際、公孫閼と先を争って頴(潁)考叔が車の長柄を持って走ったとあり(注21)、「新野之戰」は、後漢の光武帝劉秀が、新野で挙兵したときに初め牛に乗って戦った故事で、『東観漢記』紀一世祖光武皇帝に「上騎牛與俱、殺新野尉後乃得馬。(上牛に騎りて與に俱にし、新野の尉を殺して乃ち馬を得たり。)」、『後漢書』巻一光武帝紀に「光武初騎牛、殺新野尉乃得馬。(光武初め牛に騎り、新野の尉を殺して乃ち馬を得たり。)」とある。次に、斑特斑寅の本地である「桃林」と「南山」であるが、「桃林」は『尚書』武成などに周の武王が牛を放ったところとして見え(注22)、「南山」については『史記』李将軍伝に、李広が南山で虎を射た話が見え(注23)、李広は『蒙求』にも「李廣成蹊」として見える。
 また、

寅繼之曰、「但得居林嘯、焉能當路蹲、渡河何所適、終是怯劉琨。」特曰、「無非悲寗戚、終是怯庖丁。若遇龔爲守、蹄涔向北溟。」(寅之を繼ぎて曰く、「但だ林に居りて嘯くを得ば、焉んぞ能く路に當りて蹲(つくば)はん、河を渡りて何れの所にか適かん、終に是れ劉琨を怯る。」と。特曰く、「寗戚を悲しむに非ざる無く、終に是れ庖丁を怯る。若し龔の守たるに遇はば、蹄涔北溟に向はん。」と。)

という、斑寅斑特が賦した詩での典故は次のようである。斑寅の詩中の「劉琨」は、後漢の劉昆こと(注24)であり、『後漢書』巻七十九上儒林列伝上の劉昆伝によると、江陵令に除せられ、火災が相次いだときに火に向かって叩頭すると雨が降って火が消えたという。このエピソードは『蒙求』にも「劉昆反火」として見える。続いて『後漢書』には、「徴拜議郎、稍遷侍中、弘農太守。……昆爲政三年、仁化大行、虎皆負子度河。(徴(め)されて議郎に拜せられ、稍(やうや)く侍中、弘農太守に遷る。……昆政を爲すこと三年、仁化大いに行はれ、虎も皆子を負ひて河を度(わた)る。)」とある。ついで、斑特の詩中では、「包丁」という『荘子』養生訓の有名な話が引かれている。その他、「寗戚」については、『蒙求』に「寗戚扣角」として見え、『呂氏春秋』貴直論直諫の高誘注に「寗戚衛人也。爲商旅宿於齊郭門之外。桓公夜出郊迎客。寗戚於其車下飯牛、疾商歌。桓公知其賢、擧以爲大夫也。(寗戚は衛の人なり。商旅と爲りて齊の郭門の外に宿る。桓公夜に郊に出でて客を迎ふ。寗戚其の車下に於いて牛を飯(やしな)ひ、疾く商歌す。桓公其の賢なるを知り、擧げて以て大夫と爲す。)」とあり、また「龔」は漢の龔遂のことで、『漢書』巻89循吏伝に「龔遂字少卿、山陽南平陽人也。……上以爲渤海太守。時遂年七十餘。……民有帶持刀劍者、使賣劍買牛、賣刀買犢。(龔遂字は少卿、山陽南平陽の人なり。……上以て渤海太守と爲す。時に遂年七十餘なり。……民に刀劍を帶持する者有らば、劍を賣りて牛を買ひ、刀を賣りて犢を買はしむ。)」とあり、これは『蒙求』にも「龔遂勸農」として見える。
 『史記』や『後漢書』などが主な典故の源であり(注25)、そのうちの少なからぬものが当時既に一般的であった幼学書『蒙求』(注26)にも見える。これは言ってみれば、誰でも知っているもの、つまり非常に察しやすい典故が多く用いられているということになる。

 それでは、典故や故事による正体の秘匿性を放棄した「寗茵」の目的とするところ、言い換えれば創作の意図は一体どこにあるのであろうか。それは恐らく諧謔或いは滑稽ということに求められよう。
 例えば、次のような表現がある。

茵曰、「管中窺豹、特見一斑兩斑。」寅曰、「大有微譏。又一發兩豝耳。」(茵曰く、「管中に豹を窺ひ、特(た)だ一斑二斑を見るのみ。」と。寅曰く、「大いに微譏有り。又一發兩豝なるのみ。」と。)

 ここで寗茵は『世説新語』方正篇に「此郎亦管中窺豹、時見一斑。(此の郎亦管中より豹を窺ひて、時に一斑を見る。)」とある王献之が侮られた言葉を踏まえて自らの見識の狭さを述べたのである。しかし、豹を虎の言い換えと考えれば、「虎を見れば、特はまだら模様を一つ二つ見る。」となり、妖怪の正体に期せずして迫っていることにもなる。また、「管中窺豹特、見一斑兩斑」とすれば、寗茵が斑特らに模様があるのを見るという意味になろう。
 まさに一石二鳥といえる言葉であるが、ここで斑寅が、わざわざ「一發兩豝」というように、『詩経』召南「騶虞」に「彼茁者葭、壹發五豝、于嗟乎騶虞。(彼の茁たる者は葭、壹發五豝、于嗟乎(ああ)騶虞。)」とある言葉を踏まえて「一斑兩斑」と似た表現で答えているのは、一種の洒落であると言って良いだろう。
 更に、この「寗茵」においては、妖怪である斑寅斑特が口論して去って行くということで事件が収束するという、一連の作品中においても極めて珍しい現象が見られる。ここで、他の作品で妖怪との面会が終わりを告げる場面がどうなっているかを確認しておくと、例えば、「東陽夜怪録」では「忽聞遠寺撞鐘、則比膊鍧然、聲盡矣。注目略無所覩。但覺風雪透窓、臊穢拍鼻。惟窣颯如有動者、而厲聲呼問、絶無回答。(忽ち遠寺の鐘を撞けるを聞けば、則ち比膊鍧然として、聲盡く。注目するも略(ほ)ぼ覩る所無し。但だ風雪窓を透り、臊穢鼻を拍つを覺ゆ。惟だ窣颯として動く者有るが如くして、聲を厲しくして呼問すれども、絶えて回答する無し。)」(注27)であり、「独孤彦」では「語未卒、寺僧倶歸。二人見之、若有所懼、即馳去。數十歩已亡見矣。(語ること未だ卒らずして、寺僧倶に歸る。二人之を見て、懼るる所有るが若く、即ち馳せ去る。數十歩にして已に見ゆる亡(な)し。)」となっている。これらと比べれば、妖怪自身が撤退の理由を作ってしまう「寗茵」は特異であると言えよう。以下、「寗茵」における妖怪達の口論から退去までを見てみる。

特曰、「弟誇猛毅之躯、若値人如卞莊子、當爲韲粉矣。」寅曰、「兄誇壯勇之力、若値人如庖丁、當爲頭皮耳。」……〈寗茵が斑特の詩を誉める〉。寅怒拂衣而起曰、「寗生何黨此輩、自古即有班馬之才、豈有斑牛之才。……。」遂〔寅〕怒曰、「終不能搖尾於君門下。」乃長揖而去。特亦怒曰、「古人重者白眉、君今白額。豈敢要譽於人耶。何相怒如斯。」特遂告辭。(特曰く、「弟猛毅の躯を誇るも、若し人の卞莊子の如きに値はば、當に韲粉(せいふん)と爲るべし。」と。寅曰く、「兄壯勇の力を誇るも、若し人の庖丁の如きに値はば、當に頭皮と爲るべきのみ。」と。……寅怒り衣を拂ひて起ちて曰く、「寗生何ぞ此の輩に黨(くみ)するや。古より即ち班馬の才有るも、豈に斑牛の才有らんや。……。」と。遂に〔寅〕怒りて曰く、「終に尾を君が門下に搖(ふ)る能はず。」と。乃ち長揖して去る。特も亦怒りて曰く、「古人の重んずる者は白眉にして、君は今白額なり。豈に敢て譽を人に要(もと)めんや。何ぞ相ひ怒ること斯くの如きや。」と。特遂に辭を告ぐ。)

 卞荘子(注28)や包丁など、互いに相手の正体に関わる典故、或いは語彙を用いて罵り合うというのは、傍目には何とも間が抜けて見え、また斑寅の「終に尾を君が門下に搖る能はず。」は、ここでは立ち去る斑寅の威厳を表し得ず、「班馬の才」と班固・司馬遷を挙げた後で、司馬遷「報任少卿書」(注29)に見える典故を用いるとあっては、かえって笑いを誘う。このような登場人物達の織りなす会話の面白さこそが、「寗茵」における主題ではなかったのではなかろうか。
 さて、そのような戯文について考えるとき、多くの人々は韓愈が元和初期に著したらしい「毛穎伝」(注30)を想起することだろう。筆を擬人化し、洒落や典故を盛り込んで作られた「毛穎伝」は、六朝文人袁淑の「廬山公九錫文」(注31)や「雞九錫文」(注32)、「大蘭王九錫文」(注33)などの動物を擬人化した文を一つの祖型としている。そして、韓愈は諧謔味あふれるこの伝で使いふるされて捨てられる筆の姿と、同じくそういった人の姿を重ねて(注34)、いささかの風刺を込めて表現している。この姿勢は、「姚康成」や「元無有」と一脈通じるところがある。器物の妖怪はそもそも古くなり破れ捨てられた者が化けて出るもの(注35)であり、伝奇が先か韓愈が先という影響関係はひとまず置くとして、同じ発想の元に六朝以来の擬人化文を受け継ぐ形で登場したものであると言える。ここで、「毛穎伝」の諧謔性或いは面白さと、「寗茵」におけるそれとの相違点について考えるところを述べるならば、前者の場合は太史公に扮した韓愈の主張と直結したものである。いわば寓意の手段としての諧謔であり、伝の中の毛穎自身には滑稽な所など何もない。ところが後者においては、会話を繰り広げる登場人物にまず滑稽や諧謔がある。つまり、諧謔や滑稽はそれ自体が目的なのであり、「滑稽のための滑稽」或いは「諧謔のための諧謔」ということが出来る。読者にとって、「毛穎伝」は寓意と主張によって、韓愈自身を意識せずにはいられないものであり、一方の「寗茵」は登場人物に滑稽を感じればよく、作者が誰であるのかはひとまず意識する必要はない。

 総じて言うならば、「寗茵」という作品は、話の早い段階において、妖怪の正体を悟らせ、その後の三者のやりとりを軽い諧謔性を以て描こうとした極めて独創的な作品であったと言える。そしてそれは典故を用いた謎解き的言説の作品を継承しつつ、謎解きという目的を持った作品を成立させる手段としてではなく、それを用いる事の面白さ自体を目的とするという逆転の発想で言説を用いているということである。これは従来とは異なる新しいアイデアで作り上げられた作品であると言えよう。
 ここに、「先行する作品を参考として引き継ぎつつ、新鮮なアイデアを加えることで新たな作品イメージを作り上げる」という裴鉶の創作手法の一つの特徴を垣間見ることが出来る。例えば「韋自東」(注36)という作品は、有名な「杜子春伝」と同じ烈士池故事(注37)を引き継ぎ、道士の丹薬作りを助ける話であるが、前半には、

段將軍曰、「昔有二僧、居此山頂。……或問樵者説、其僧爲怪物所食、今絶踪二三年矣。又聞人説『有二夜叉於此山、亦無人敢窺焉。』」自東怒曰、「余操心在平侵暴。夜叉何纇而敢噬人。今夕、必挈夜叉首、至於門下。」(段將軍曰く、「昔二僧有り、此の山頂に居る。……或ひと樵者に問ふに説(い)ふ、『其の僧 怪物の食らふ所と爲り、今 踪絶へて二三年なり。』と。又た人の『二夜叉此の山に有るも、亦た人の敢て窺ふ無し。』と説(い)ふを聞く」と。自東 怒りて曰く、『余心を操るは侵暴を平ぐるに在り。夜叉 何ぞ纇(あやま)ちて敢て人を噬(くら)ふか。今夕、必ず夜叉の首を挈げて、門下に至らん。」と。)

と、義烈の士である韋自東が夜叉退治におもむくことが述べられる。また、

有道士出於稠人中。揖自東曰、「某有衷懇。欲披告於長者。可乎。」自東曰、「某一生濟人之急。何爲不可。」道士曰、「某棲心道門、懇志靈藥、非一朝一夕耳。……靈藥倘成、當有分惠。未知能一行否。」自東踴躍曰、「乃平生所願也。(道士の稠人中より出づる有り。自東に揖して曰く、「某衷懇する有り。長者に披告せんと欲す。可なるか。」と。自東曰く、「某が一生は人の急を濟ふなり。何爲れぞ可ならさせるか。」と。道士曰く、「某心を道門に棲はせ、靈藥を懇志(おも)ふこと、一朝一夕に非ざるのみ。……靈藥倘(も)し成らば、當に惠を分つ有るべし。未だ知らず能く一たび行くや否やを。」と。自東踴躍して曰く、「乃ち平生の願ふ所なり。」と。)

と、韋自東が道士に自発的に協力しするという形を取っている。更に、他の作品では「杜子春伝」において道士が「愼勿語。雖尊神惡鬼夜叉猛獸地獄、及君之親屬爲所困縛萬苦、皆非眞實。但當不動不語。(愼んで語ること勿かれ。尊神惡鬼夜叉猛獸地獄、及び君の親屬の困縛萬苦する所と爲ると雖も、皆な眞實に非ず。但だ當に動かず語らざるべし。)」と戒めるように、一晩声を出さないで丹炉を守ることが課せられるのに対して、「韋自東」では「道士約曰、『明晨五更初、請君仗劍、當洞門而立。見有怪物、但以劍撃之。』(道士約して曰く、『明晨五更の初、君に劍を仗(つゑ)つき、洞門に當りて立たんことを請ふ。怪物有るを見れば、但だ劍を以て之を撃て。』と。)」と、やって来るものを剣で倒して通さないことが役目となっている。そして、生まれ変わりの場面も存在せず、よって、子供が殺されるのを見かねて声を出して鼎が爆発するのではなく、
「自東詳詩意曰、『此道士之師。』遂釋劍而禮之。俄而突入、藥鼎爆烈。更無遺在。(自東詩意を詳かにして曰く、『此れ道士の師なり。』と。遂に劍を釋(お)きて之に禮す。俄にして突入し、藥鼎爆烈す。更に遺り在る無し。)」と、道士の師匠に化けた妖怪を通してしまったので失敗するという形を取っている。つまり、「韋自東」は、烈士池故事を全体を構成する要素の一つの核として用いており、「杜子春伝」の系譜に連なる他の作品とは趣を殊にしている。(注38)
 以上のように、裴鉶『伝奇』には、独創的とも言える創作性が垣間見えるのである。これは、『伝奇』の諸作品や他の同時期の作品を検討し、『伝奇』にみならず、晩唐における小説の創作性、作者の創作意識をいうものを明らかにするための、一つの指針となり得るものであろう。


注1:『新唐書』芸文志小説家類は「裴鉶傳奇三卷」として、「高駢從事」と注す。また『全唐文』巻805「天威径新鑿海派碑」及び小伝、『唐詩紀事』巻六十七の記述から、裴鉶は咸通中に当時安南[今のベトナム・ハノイ市]に居た高駢に仕え、乾符五年には成都節度使となっていたことがわかる。
注2:「崑崙奴」「聶隠娘」は共に『太平広記』巻194所収。
注3:羅燁撰『酔翁談録』は宋代小説話本の妖術類に「西山聶隠娘」を挙げる。他に「崔煒」「許棲巌」「裴航」「封陟」「崑崙奴」「張無頗」「孫恪」「薛昭」「鄭徳璘」「文簫」「虬髯客」などが、宋元代以降、話本や戯曲になっていたようである。
注4:『太平広記』巻434。尚、以下における「寗の本文の引用については、王夢鴎『唐人小説研究』(芸文印書館1971年12月)所収「傳奇校釈」を底本とする。
注5:『瀟湘録』は『伝奇』よりも後の成立。
注6:『太平広記』巻490。
注7:「張鋋」は、『紺珠集』や『孔氏六帖』にその断片が『宣室志』を出典として引かれているので注意が必要である。しかも例えば、『孔氏六帖』巻97に「六雄将軍」「滄浪君」「五豹将軍」「鉅鹿侯」「玄丘校尉」「巴西侯」、巻98に「洞玄先生」と、七則をその正体である各々の動物の項に一つずつ引き、それぞれについて「張涜(讀)宣室志」を出処として明記する。『紺珠集』も体裁は同様であり、少なくとも『宣室志』に有った話であることは間違いないと思われる。
注8:『太平広記』巻349。
注9:本文中に「前進士王洙、字學源、其先瑯琊人。元和十三年春擢第。」とある。
注10:『太平広記』では「茵曰。若管中窺豹。時見一斑。兩斑笑曰。大有微機。眞一發兩中。」となっている。王夢鴎の校注により改めた。又、王夢鴎は「豈用學牛刀」について、「上『學牛刀』之學、疑爲『擧』字。」とも注す。
注11:『太平広記』巻345。
注12:『太平広記』巻348。
注13:「吾之先、本盧氏。」の「盧」はおそらく「爐」を指すのであろう。
注14:『伝奇』よりも後の成書である『瀟湘録』所収の「馬挙」でも、「皆飾以珠玉」という「碁局」が兵法を説く老人に化けて、「余南山木強之人也。自幼好奇尚異。人人多以爲有韜玉含珠之譽。屡經戰爭。故盡識兵家之事。」と、「独孤彦」同様に身の上話をしている。
注15:原文では各々、「槖駝」「駁貓」「刺蝟」である。
注16:原文では、「堅僭位五年、鳳皇集於東闕、大赦其境内、百僚進位一級。初、堅之將爲赦也、與王猛・苻融密議於露堂、悉屏左右。堅親爲赦文、猛・融供進紙墨。有一大蒼蠅入自[片庸]間、鳴聲甚大、集於筆端、驅而復來。俄而長安街巷市里人相告曰、『官今大赦。』」とある。尚、ほぼ同じ話が『異苑』巻3に見え、こちらは晋の明帝のこととなっている。
注17:「寗茵」の本文中、斑特が先に登場して班寅を弟と呼び、班寅が遅れて登場して斑特を兄と呼ぶのは、十二支の配列と関わるか。
注18:「第五」は排行が5番目であること。「虬髯客伝」(『太平広記』巻193)に「臥客曰、『姓張。』對曰、『妾亦姓張、合是妹。』遽拜之、問『第幾。』曰、『第三。』……張氏遙呼曰、『李郎且來拜三兄。』」という例がある。
注19:『伝奇』にはもう一例、「特」の読み替えの例が見られる。それは「馬拯」(『太平広記』巻430)で、賓頭盧の土偶が「若教特進重張弩、過去將軍必損心。」と予言し、後に主人公は、道端に弓の罠を仕掛けている牛進という猟師と出会う。そこで「土偶詩下句(先の二句のこと)有驗矣。特進乃牛進也。」と言っている。尚、『玉篇』牛部に「特、徒得切。牡牛也。」とある。
注20:燕の昭王が楽毅に斉を討たせたとき、即墨を守っていた田単は、牛千頭を集め、角に兵器を縛り、尾に葦の束を結んで火を付け、燕の陣に放った故事。『史記』巻82田単伝には、「田単乃收城中得千餘牛、爲絳繒衣、畫以五綵龍文、束兵刃於其角、而灌脂束葦於尾、燒其端。鑿城數十穴、夜縱牛、壯士五千人隨其後。牛尾熱、怒而奔燕軍。」云々とある。
注21:『春秋』隠公11年の左氏伝には「夏、公會鄭伯于[來阝]、謀伐許也。鄭伯將伐許。五月甲辰、授兵於大宮。公孫閼與潁考叔爭車、潁考叔挟輈以走。子都拔棘以逐之、及大逵。弗及。子都怒。」と見える。
注22:『尚書』武成に「乃偃武修文、歸馬于華山之陽、放牛于桃林之野、示天下弗服。」とある。
注23:『史記』巻109李将軍伝に「〔李〕廣家與故潁陰侯孫屏野居藍田南山中射獵。……廣居右北平、……廣所居郡聞有虎、嘗自射之。及居右北平射虎、虎騰傷廣、廣亦竟射殺之。」とある。また李白「白馬篇」に「弓摧南山虎、手接太行猱。」ともある。さらに『晋書』巻58周処伝にも「〔父老〕答曰、南山白額猛獸、長橋下蛟、并子爲三矣。……處乃入山射殺猛獸。」云々とあり、これは『蒙求』に「周處三害」として見える。
注24:周楞伽『裴鉶傳奇』(前出)や石海陽らの『唐宋傳奇』(華夏出版社1995年12月)は、後漢の劉昆のこととしているが、王夢鴎『唐人小説校釋(上)』(正中書局1983年3月)では、「劉琨、晉書卷六二。此謂石虎(季龍)畏劉琨也。」と注す。ここでは前者に従った。
注25:これまで挙げたもののほかに、『春秋』荘公30年左氏伝などに見える、捨てられて虎に育てられた春秋楚の大夫「鬪穀於菟」や、『後漢書』班超伝の「燕頷虎頭」、同じく『後漢書』楊彪伝にみえる「舐犢」などがある。
注26:天宝5年の李良「薦蒙求表」や、玄宗期の人である李華の序から、世に出るとたちまち広まったことが窺える。
注27:「比膊鍧然」は、王夢鴎『唐人小説校釋(上)』(前掲)では「比膊、並肩而坐者。鍧然、猶哄然、轟然。一哄而散之状。」と注す。また「絶無回答」は、『太平広記』では「絶無由答」であるが、王夢鴎氏は同書において、「絶無由答、由、疑爲『回』字之訛。」と注す。ここではこれに従って改めた。
注28:春秋・魯の大夫。『史記』巻70張儀列伝附陳軫伝に「陳軫對曰、亦嘗有以夫卞荘子、刺虎聞於王者乎。……有頃、兩虎果闘、大者傷、小者死。荘子從傷者而刺之、一擧果有雙虎之功」とある。
注29:『漢書』巻62司馬遷伝、また『文選』巻41。『漢書』には「猛虎處深山、百獸震恐、及其在穽檻之中、搖尾而求食、積威約之漸也。」とある。
注30:『韓昌黎文集』巻八所収。「讀韓愈所著毛穎傳後題」(『柳河東集』巻21)や「與楊晦之書」(『柳河東集』巻33)などの柳宗元の文章は元和5年に記されており、韓愈が「毛穎伝」を著したのはそれ以前で、柳宗元が永州謫遷になった元和元年以降と見られる。山崎純一「『毛穎伝』――韓愈と笑いの文学――」(『執着と恬淡の文学』笠間書院1980年2月)などに詳しい。
注31:『初学記』巻29、『芸文類聚』巻94。
注32:『芸文類聚』巻91。
注33:『初学記』巻29。
注34:結びの「太史公曰く、……秦之滅諸侯、穎與有功。商不酬勞、以老見疎、秦眞少思哉。」などにそれが現れている。
注35:『郭季産集異記』(『古小説鈎沈』本)5に「日暮、忽見一著烏袴褶來。……劉因執縛、刀斫數下、變爲一枕。乃是先祖時枕也。」とある。これ以降、唐代に見られる器物の妖怪はその殆どが古いもの、或いは壊れて捨てられたものである。
注36:『太平広記』巻356。
注37:「杜子春伝」は『太平広記』巻16所収。烈士池故事は『大唐西域記』巻七婆羅痆斯国に見える。類話としては他に、『酉陽雑俎』続集巻四「顧玄績」、『河東記』所収「蕭洞玄」(『太平広記』巻44)がある。
注38:「杜子春伝」とその類話をめぐる論考は数多いが、その中で曺述燮「物語の變轉と『韋自東』の創作性」(「東方學」第86輯、1993年7月)では、烈士地故事の中国化という流れで捉えつつ、ここの作品の特徴が整理されて述べられており、「韋自東」について「ある種の話はそれを書き留める作者の意図によっては、短時間内にこのように甚だしくその内容を新たにするものであることを示してくれる顕著な例だといえよう。」と纏められている。

※一部漢数字を算用数字に改めた。論文なので、元は当然本名名義です。

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