伝承について。
私が秘伝と人々に呼ばれるものについて教える時、ある一定の基準がある。
それを乗り越えられれば、私は教えるようにしている。
そこに情もあるが、壁は確かに存在している。
壁を越えられると確信出来るならば、教えることは許されると思うが。
私が確信できないならば、私からは教えてはならない。
私の流派は情に厚い流派であるという話は、師から再三伝えられている話だ。
私が責任を持てると判断したならば、教えられるし、責任を持てないと判断したならば、教えられないとも言える。
私に情けをかけられたくないのであれば、私以外の人から習えば良い。
私の流派は、そういう流派だと思う。
また、壁を乗り越えるだけの実力があるのであれば、私の気持ちは関係ない。
私は乗り越え、責任を持つ人には、教える義務があると考えている。
そこに差別の心はない。
子供だろうと、老人だろうと、女だろうが男だろうが。
障害者だろうと、殺人鬼であろうと。
そんな俗物的なものは、流派には関係がない。
人としての業は乗るだろうが、+に転じることが出来る、力がある。
よって、套路がちゃんと出来ているか、出来ていないかが、根本的な問題である。
例えば。
流派の流れを汲む意思があるのであれば、呼吸法が重要になる。
流派の流れを汲む意思がないのであれば、呼吸法は必要ない。
単純に技を使うだけなら、息は単純に口から吐いて、鼻で吸うもので十分であり、声を出す必要を感じない。
私の目線で、もし私よりも流派が出来ているならば、私から教えられない事は何もない。
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