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義足で楽しく走るために(1) xXiborg Talk vol.3

この記事は2020年7月23日に行われたオンライントークイベント xXiborg Talk vol.3「義足で楽しく走るために ②山本篤自己紹介」の一部を記事化したものです。

登壇者

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山本篤
プロアスリート
所属 : 新日本住設(株)
競技 : 走り幅跳び / 100m
クラス : T63 (片大腿切断)
小学校では野球チームに入り、中学、高校ではバレー部に所属。高校 2 年の春休みに起こしたバイク事故により、左足の大腿部を切断。高校卒業後に進学した義肢装具士になるための専門学校で競技用義足に出合い、陸上を始める。本格的に競技をしようと、2004 年に大阪体育大学体育学部に入学し、陸上部に所属した。2008 年スズキ株式会社に入社。北京パラリンピックから 3 大会連続出場。2016 年 5 月には当時の世界記録を更新。リオ大会では走り幅跳びで銀メダル、4×100m リレーで銅メダルを獲得。2020 年東京パラリンピックで金メダルを目指し、2017 年 10 月にはプロ陸上選手となる。2018 年の冬季パラリンピックのスノーボード競技日本代表として出場。2019 年に行われた世界パラ陸上競技大会走り幅跳びで銅メダルを獲得し。2020 年東京パラリンピック出場が内定している。

遠藤謙
Xiborg 代表
静岡県出身。慶應義塾大学修士課程修了後、渡米。マサチューセッツ工科大学メディアラボバイオメカニクスグループにて、人間の身体能力の解析や下腿義足の開発に従事。2012 年博士取得。一方、マサチューセッツ工科大学 D-lab にて講師を勤め、途上国向けの義肢装具に関する講義を担当。現在、ソニーコンピュータサイエンス研究所アソシエイトリサーチャー。ロボット技術を用いた身体能力の拡張に関する研究に携わる。2012 年、MIT が出版する科学雑誌 Technology Review が選ぶ 35 才以下のイノベータ 35 人 (TR35) に選出された。2014 年ダボス会議ヤンググローバルリーダー。

モデレータ
為末大
Xiborg ランニングオフィサー
1978 年広島県生まれ。スプリント種目の世界大会で日本人として初めてメダルを獲得、3 度のオリンピックに出場。男子 400 メートルハードルの日本記録保持者 (2020 年 4 月現在)。現在は Sports × Technology に関するプロジェクトを行う株式会社 Deportare Partners の代表、「アスリートが社会に貢献する」ことをめざす一般社団法人アスリートソサエティの代表理事を務める。

走り出したきっかけ

為末大(以下、為末):
最初に走り出したきっかけって何でしょうか。

山本篤(以下、山本):
最初に走り出したのはリハビリの段階です。「スポーツをやりたい」とPT(Physical Therapist : 理学療法士)やドクターや義肢装具士に言っていたので、歩くだけじゃなくて少し走ったり、筋肉を取り戻すようなトレーニングもやらないといけないっていうことで日常用の義足で走っていた。その後に競技用の義足に出会って、本格的に陸上競技を始めました。

為末:
その頃の短距離の義足スプリンターってどんな感じだったんですか?

山本:
2000年のシドニーパラリンピックの時に日本人最初の義足のパラアスリートが出てきて、大腿義足だと古城選手、下腿義足だと鈴木徹選手がその頃から活躍されてた。僕自身切断したのが2000年ぐらいなので、その頃にはもうパラリンピックに出れるレベルの選手がいました。

為末:
周りの反応ってどうだったんですか。「走りたい」って言った時に良い事だねって感じか、ちょっとギョッとしたのか、、、。

山本:
義肢装具士や理学療法士の方は「ぜひやってみようよ」と言ってくれた。
ちょうどその時、2人のアメリカ人選手が日本でランニングクリニックをした。僕は行けなかったんですけど、義肢装具士の方が行ってくれて全部ビデオに収めてくれたんですね。
それを見て、こういうトレーニングをしたらいいんじゃないかっていう提案をしてくれたり。なんか義足で走るっていうのが一番最初に日本に入ってきたタイミングぐらいかなと思いましたね。義足の会社も競技用の海外輸入をやり始めた頃だったので、「走りたいんだったら使ってみる?」みたいな形で松本義肢製作所の方から、最初はレンタルっていうか、、、「これ使っていいよ」と使わしてもらっていました。

為末:
それって一般的でしたか?

山本:
あんまり一般的ではない。義肢装具士の方が熱心で、たまたまクリニックがある事を知って積極的に行ってくれたので、そういう情報を得れたりだとか、、、。
僕の「走ってみよう」に対して、積極的なアプローチをしてくれる方が周りにたくさんいたのでもうすごく恵まれていたのかなと思います。

為末:
これって最初の頃って義足の形は、もうちょっと棒みたいな感じ?

山本:
そうですね、アルファベット「J」の形でした。今みたいに後ろに出ているような形ってほとんどなくて、その一択でした。

為末:
膝はあったんですか、当時?

山本:
膝は日常用で強度が高い「3R55」っていう Ottobockの膝を使ってました。今もその膝はあるんですけど、競技用として使ってる選手はいない。でも当時はこれが主流で、80%ぐらいの選手がその膝でしたね。

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Ottobock 3R55 多軸油圧膝継手

為末:
最初からいきなり走れたんですか?
それともどこかで走れた!っていう瞬間があったのか、、、。

山本:
なんとなくピョンピョンすることは最初から出来ました。日常用の義足はほぼ跳ねないけど、競技用は力を入れるとちょっとたわんでポンっと跳ねる感覚が少しある。これすごく軽いし走りやすいなと思った。日常用義足は運動靴を履いて走るので、末端に重い物が付くと振り子がすごく重たくなってしまう。
競技用の義足は運動靴みたいなものが貼ってあるだけですごく軽くて足が振り回しやすかった。これだったら早く走れそうな気がするっていう感じでした。けど、一番最初にその義足を履いて出た試合は、50mぐらいですっ転びました。笑

為末:
それでゴールしてたら何秒ぐらいだったんですか?

山本:
ちょっと分かんないすね。日常用で80m 17秒ぐらいだった。本格的に陸上を始めて、半年ぐらいで出た記録は100m 17秒36でしたね。

為末:
だいぶ早くなったねー、そうすると。

山本:
そうですね、12秒06まできて、、、。何段階かありましたけど、一気にジャンプアップできたのは3ヶ月ぐらい。ずっともも上げをして膝関節をトレーニングしたら、一気に14秒00まで。5月に試合があって9月の大会の時には14秒06までいったので、そこで一気にブレイクした感じでした。

為末:
僕が初めて会ったのって、パリかどこかのグランプリでしたよね?

山本:
そうです、2007年のゴールデングランプリでした。

為末:
このプロセスの中で嬉しかったこととか、ちょっと大変だったことがありますか?

山本:
一つは親がすごく協力してくれたので嬉しかった。一番最初は義肢装具の会社が義足を貸してくれたこともあって費用はかからなかったんですけど、試合に出るときに国内大会で1回遠征10何万かかるし、海外に行ったら30万円ぐらい。その辺りは最初はすごく大変だったなって思います。
でもすごく良かった点は、僕がいろんな大会に出ることによって海外の選手と交流も増えて海外からの招待とかもあって。あのパリの大会もそうなんですけど、渡航費出してくれて賞金も出ますみたいな。日本でも海外でもほとんどない中で、一般の中で全部招待で賞金貰えるっていうのはものすごく衝撃的でした。勝ちたいって欲も強くなったし、当時学生だったのでお金をもらうことに対してすごく喜びもあって。そんなにたくさんは稼げなかったんですけど、試合で遠征をして稼げるんだっていう体験ができたってのはもうすごく良かったですね。
でもまあ一番苦労したのはやっぱり、義足を購入するっていうところ。どんどん自分が強くなるにしたがって、カテゴリーを変えたり消耗が激しくなったりで義足を変えないといけない、、、。最初の頃は、2年3年4年ぐらいまでは大丈夫だった時もあったけど、今はもう一年に一本ずつぐらい消耗してしまう。スポンサーもついた後は問題なく購入できるようになったけど、最初の頃は大変でしたね。

次の記事:義足で楽しく走るために(2)xXiborg Talk vol.3をご覧ください。

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日時:2020年9月22日(火・祝)13:00〜16:00
会場:静岡県草薙総合運動場このはなアリーナ
参加費:無料

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