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沈黙は神なり

1.沈黙の音

1966年の全米、日本でナンバーワンヒット曲となったサイモンとガーファンクルの「Sound Of Scilence」(沈黙の音)

Hellow darkness my old friend
やあ、暗闇くん 僕の懐かしき友よ

I've come to talk with you again
また君と話しに来たんだ

Because a vision softly creeping
何故って幻がそっとしのび込んできて

Left its seeds while I was sleeping
寝てる間にその種がまかれて

And the vision that was planted in my brain
その幻が僕の頭の中で大きくなって

Still remains
まだ残っているんだ

Within the sound of scilence
沈黙の音の中に

当時ヒット曲といえば、恋愛系がほとんどなのに、詩人でもあるポールサイモンの哲学的なこの深い内容の歌詞

私なりにこの1番の歌詞の言わんとするところを察すると

脳の中で幻の映像が映しだされ、その幻の映像の中で人生という体験をする。

その背後にはこの幻の人間社会を成り立たせている神なるものが沈黙の中に不動にして存在している。

こういう歌がアメリカでも日本でもNo1になること自体が一つのエポックでもあった。

沈黙こそが神に最も近いといわれる。

沈黙があるからこそ音を認識できる。

もしこの世界に音しかないとしたら、音を音として認識できない。

音がない沈黙があってこそ、沈黙の中で音として認識できるのである。

つまり音を音たらしめているのはその背後の沈黙ということになる。

耳を澄ますとよく言う。

よく聴こうと音に注意を向けるということは、背後の静寂に意識を向けるということでもある。

我々の目に見えるこの世界には気づこうと気づくまいと無数の音が四六時中発生していて、音のない無音の世界は宇宙空間にでも出ない限りありえない。

その音を音たらしめる深い静寂の中に、この音の充満する世界を成り立たせている神(その存在は確認できないが、すべての音を認識させている原因者)なる存在を想定するのはわかる気がする。

2.沈黙を意識した瞬間

それは奥日光にドライブで出かけ、車をおりて標高2000mぐらいの山頂に向かうロープウェイでの出来事だった。

静かに山頂めざして動くロープウェイの中で座りながら、あたりの深い森閑とした景色の映り変わりを見つめていた。

小さい頃から電車などの乗り物から次々に流れてゆく景色を見るのが好きだった。

この時、ロープウェイが山頂に近づくにつれ徐々に木々の種類も色も変わっていき森はますます静まり深まってゆく様を観ていた。

と、ふいに、なんと言ったらいいか、耳なりのように耳から微かにさきほどから確かに鳴っている音に気づいた。

流れる景色をみながら耳をさらに澄ましてゆくと、ますますその音、無の音と呼べばよいのか、それが意識され、さらにその音は何か懐かしい響きとともに得も言われぬ心地良さに変わっていった。

『ああ、知ってる知ってる!』と心の奥では叫んでいる。

『ああやっと会えた会えた!』

感動で打ち震え、目が潤んできて、思わず周りを見回したが、皆は外を見ていて別段変わった風もない。

この時の無音の心地よさは強烈に印象に残り、その後も何度か確認しては何なんだろう?といろいろ本などで調べたりした。

それが、エックハルト・トールの「The Power Of Now」という本に出会い、冒頭の「沈黙こそ神にもっとも近い」という言葉に出会い得心したしだいである。

それ以後は、その神に近づくため、あの時の得も言われぬ心地よさを求めての道のりであった。













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