ドラマ版『パリピ孔明』第9話を観たので、三国志を語りたい


今回も『パリピ孔明』第9話の中で三国志ネタを感じた部分を挙げていきたいと思います。
第8話までの元ネタ列挙で出てきた部分はそちらを参照していただければと思います。
年号に関しては該当項目のwikipediaなどで調べていますが、元ネタエピソードなどはわりと記憶とノリで書いていますので、詳細の齟齬はご容赦いただくか、コメントなどでご指摘ください。

第9話に出てきた三国志ネタ

イーストサウス

前園ケイジのゴーストライターをやっている2人組のユニット名です。
イーストサウス、つまり東南。三国志で東南といえば、東南の風です。
本編でもこの後に言及がありましたが、三国志演義の赤壁の戦いにおいて、曹操軍の大軍と対峙した孫権・劉備同盟軍は火計を持って対抗しようとしますが、あいにく北西の風が吹く季節であり火計には逆風という状況でした。そこで孔明は、「祈祷によって東南の風を吹かせる」と言って祈祷台で祈りを捧げ、果たして東南の風が吹き火計は成功。孫権軍・劉備軍は勝利を収めたのでした。
なお、東南の風が吹いて火計が成功し曹操軍が敗れたのは正史にも書かれていますが、孔明が祈祷して風を吹かせたのは三国志演義のオリジナル設定です。
北西の風が吹く季節のため火計に対する油断があった曹操軍に対し、地元の天候を熟知した孫権軍がこの時期に一時的に東南の風が吹くことを知っていたため火計を用いたというのが実際の所ではないでしょうか。

「袁術がいくら皇帝の真似をしようと・・・」

漢王朝の皇帝の印である玉璽は、皇帝を傀儡とした董卓が首都を洛陽から長安に遷都したどさくさで紛失してしまいました。董卓によって火が放たれた洛陽の跡地でこれを見つけたのは、董卓討伐軍に参加していた孫堅でした。孫堅はこれを密かに持ち帰りましたが、別の戦いで死去。後を継いだ息子・孫策がこの玉璽を担保に袁術から兵を借り、江東平定の基盤としたという事は、第2話の元ネタ列挙において触れたとおりです。
さて、玉璽を手に入れた袁術ですが、もともと袁家は漢王朝で重要な役職を歴任してきた名家中の名家。北部で大勢力となった同じ袁家の袁紹よりも血筋としては格上とも言われています。
そんな袁術は、玉璽を手に入れたことで有頂天となり、自ら皇帝を名乗り「仲」という国を興したと宣言します。しかし、あまりにも唐突で根回しもなく、また圧政を敷いたため内外から強い反発にあいました。さらに袁術の病死により仲はわずか2年で消滅。正式な皇帝に即位したのではなく、皇帝を僭称したという扱いで落ち着いているようです。


「あの曹操ですら、恨みを晴らすために徐州の民を虐殺しました」

西暦193年頃、曹操は領土を獲得し安定した本拠地ができたため、徐州に住む父を呼び寄せることになりました。しかし、その道中に父親が殺されてしまい、それを強く恨んだ曹操は徐州に侵攻。民を含む大量の殺戮を行いました。曹操の父親を殺したのは、徐州の長の指図とも、一緒に運んでいた金品に目がくらんだ護衛の暴走とも言われていますが、どちらにしてもこの虐殺は、特に三国志演義においては序盤の曹操を描く強烈なエピソードとなっており、曹操=悪玉のイメージ定着に小さくない影響を与えていると思います。
なお、孔明の来歴としてこの時期の徐州にいた可能性があるとの説もあり、有能ながら曹操に仕官せず弱小の劉備を選んだ理由の一つでは?と言われたり、孔明を描く著作においてこの件を絡めるものを見かけたりしています。

風を呼ぶための祈祷

オーナー小林が言う通り、三国志演義の赤壁の戦いにおいて孔明が行った祈祷を再現してるようです。「風」については上述のイーストサウスの項もご参照下さい。
ちなみに、孫権軍の軍師周瑜は孔明の能力を認めつつも、曹操軍を退けた後の障害になりかねないと危惧し、火計が成功したら孔明を暗殺するつもりだったようです。孔明はそれを察知し逃走経路を確保するために、大掛かりな祈祷台を設け人払いをして祈祷したとされています。

「君は姜維かな?いや、魏延かな」

仲間に入れてくれと言ったKABEの友人ダイナーに対して言ったオーナー小林のセリフです。
姜維は孔明が魏に攻め込む北伐の中で対峙した魏の若い武将です。
孔明は姜維の才能に目を止め、策略と説得をもって蜀軍に迎え入れました。
姜維はその後孔明の指揮下で働いただけでなく、孔明の死後も蜀を支えました。
魏延は赤壁の戦いで孫権軍と共に曹操軍に打ち勝った劉備軍が、直後の荊州攻略の過程で仲間にした武将です。採用に際し、孔明は魏延の人相から裏切りを懸念しましたが、劉備がこの意見を退け採用しました。その後魏延はその武勇で戦果を挙げ、孔明の懸念を払拭する働きを見せましたが、劉備の死後は孔明の指揮に意見することも増えました。
三国志演義では孔明の死後、果たして謀反の動きを見せる魏延。しかし、生前から策を練っていた孔明の指示により魏延は斬殺されました。
ダイナーが前園陣営(魏)からEIKO陣営(蜀)に降った姜維ではなく、魏延に例えることでいずれEIKO陣営を裏切ろうとすることを暗に示そうとしているのかもしれません。

棒打ち100回の刑

負けると口にしたKABEに対して孔明が言ったセリフです。
元ネタは三国志演義の赤壁の戦いにおける苦肉の計です。
曹操軍への攻撃を火計とすることに決めた孫権軍の軍師周瑜ですが、曹操軍の船団に火を放つために孫権軍の古参で老将の黄蓋を偽装降伏させることにしました。そこで、周瑜と黄蓋は軍議での意見の食い違いから大喧嘩を始め、「こんな腰抜け軍師では孫権軍は負ける」と侮辱した黄蓋に対し、周瑜は斬首を命じます。これまでの貢献度から斬首はさすがに周りの武将から止められますが、その代わりに命じた刑が棒打ち100回でした。棒で叩かれる老将の姿に同情して手加減する刑務官に替わって周瑜自ら棒打ちをする念の入れ用です。
この様子を、この少し前に孫権軍に寝返ってきた蔡中、蔡和の二人の武将が見ていました。
実は蔡中と蔡和は曹操の命を受けて寝返ってきたスパイでした。周瑜はそれを見抜き、あえて黄蓋の棒打ちの様子を見せていました。蔡中、蔡和はそうとも知らずに、この時の様子を曹操に伝えました。黄蓋からの降伏の書状だけでは半ば疑っていた曹操も、この報告を耳にして黄蓋の降伏の船を船団に迎え入れました。かくして黄蓋は自らの船に火を付け曹操の船団に突っ込み、折からの東南の風にあおられた業火が曹操軍を焼き払うのでした。
これが三国志演義の苦肉の計もしくは苦肉の策の概要です。
現代では苦し紛れの策略のような意味で使われがちなこの言葉ですが、本来は自ら(自分の身体に限らず、財産、身内や部下の命を含む)を傷つけ相手を油断させる計略の意味です。

今回も、孔明とKABEが仲違いをする。孔明がKABEを追放する。その様子を前園の手下が見ている。KABEが前園側に寝返る。という辺りが踏襲されています。

おわりに

今回も三国志ネタが絡んだ孔明の計略が仕込まれていました。
次回は早くも最終回。第9話の仕込みがどう炸裂するのか楽しみです。

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