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そば打ち職人という生き方

大分県杵築市の「杵築達磨」を訪れた。

現在は会員制となっている上、新規会員の募集は行われていない。
もう食べられないと諦めていたが、弟子である「ひろしま蕎麦人」の店主が一緒に行こう!と誘ってくれたのだ。

この話にはちょっと長い前フリがある。
高橋邦弘さんの師匠は「一茶庵」を開かれた故・片倉康雄さん。
元々会計士で、たった一週間ほど蕎麦店で働いただけなのに、大正15年(1926年)に新宿で「一茶庵」を開業する。
しかも機械打ち全盛で、手打ちよりも清潔な機械打ちのほうが上等とされていた風潮に反旗を翻した。
現在では、機械打ちよりも手打ちのほうが旨いのが常識と考える人が多いけれど、大正時代の常識は異なっていた。
片倉康雄さんがいなければ、手打ちの技は廃れていたかもしれない。

新宿の「一茶庵」は第二次世界大戦の影響で閉店したが、昭和29年(1954年)、当時の足利市長の要請を受け栃木県足利市で「一茶庵」を再開する。
その後はおそらく初めての体系的な手打ち技術を確立し、後進の指導に尽力され、日本そば大学講座を設立。
そこに昭和47年(1972年)高橋邦弘さんが入門する。
すぐに頭角を表し、師範代を務めるようになり、昭和50年(1975年)東京都南長崎で「翁」として独立された(その後「休屋」という蕎麦店が引き継いだが現在は閉店)。

昭和61年(1986年)に山梨県長坂へ移転してからも、長坂詣でと呼ばれるほどの人気を得ていた。
そして今から20年以上前、既に日本一の蕎麦打ちと呼ばれていた高橋邦弘さんが、広島県豊平町に店を出すという噂を聞いたのだ。
その話を聞いた時、僕はそんな馬鹿な!と思った。
当時の広島は、蕎麦不毛の地と呼ばれ、蕎麦店といえば出雲蕎麦「いいづか」、同じく出雲蕎麦の「大黒屋」とその親族が営む店くらいしかなかった。
出雲蕎麦は大好きだし旨いけれど、高橋邦弘さんの蕎麦とは味噌ラーメンと塩ラーメンくらい違う。
そんな土地に店を出すとはどういうことか?
当時の前田達郎豊平町長が三顧の礼で「豊平町に出店してほしい」とお願いに行くと、最初は弟子に出店させるつもりが、長坂の「翁」を弟子に譲り、平成13年(2001年)自ら出店された。
その店が「達磨雪花山房」だ。
僕の勝手な想像だが、高橋邦弘さんは師匠の片倉康雄さんが足利市長に請われて「一茶庵」を開いた故事に習ったのではないだろうか。

ちょうどその頃、友人たちが蕎麦打ちに凝っていて、庄原市九日市で不定期に蕎麦店を出していた高橋邦弘さんのお弟子さんに蕎麦打ちを習っていた。
彼を頼って店を予約し、平成14年(2002年)2月、当時試験営業中だった「達磨雪花山房」を訪れた。
その時、マイクロバスを運転してくれたのが「ひろしま蕎麦人」の店主だったのだ。
高橋邦弘さんは美術館のように立派な建物で歓待してくださった。

その後はざる蕎麦しか提供しなくなったが、その時は胡麻豆腐、鴨ロースの焼いたもの、出汁巻き玉子、蕎麦味噌を出してくださった。
お酒は燗酒が栃木県四季桜、冷酒が新潟県久保田だった。
高橋さん自ら接客してくださり、僕はざる蕎麦を四枚も食べた。
いま思い出しても楽しく、懐かしい思い出だ。

その後、行列店になってからも足を運び、イベント会場でも高橋邦弘さんの出店を狙って訪れ、何度も何度も蕎麦を食べた。
当然、その時々で微妙に異なったが「達磨」の味をしっかり記憶することができた。
また高橋邦弘さんが豊平町に来られてからは、弟子筋の店が増え、弟子ではない店も、弟子たちを超える蕎麦を出さなければならないと切磋琢磨し、広島市域のレベルが一気に向上した。
しかしその後、ご自身の体調を考慮し、平成27年(2015年)5月に豊平町の店を閉め、より暖かい大分県に移られた。

そこへ今回の話があった。
18年前と違うのは、当時サラリーマンだった友人がその後、高橋邦広さんに教えを請い、現在は「ひろしま蕎麦人」という蕎麦店の主になっていることだ。
今回は距離が遠いので運転はプロに任せたが、何人かは18年前と同じ顔ぶれだった。

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卓上に用意された料理はまず、野菜の白和え。
白菜、キュウリ、大根、菜の花などの上に白和えの衣がかけてあるが、とても滑らかで大豆の味が濃い。
こちらのお酒は冷酒が二種類、以前と同じ栃木県四季桜と、新潟県鶴齢だ。
18年前の伏線があるので、僕はその時と同じ四季桜を選んだ。

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18年振りに食べた蕎麦味噌の味は同じ印象。
蕎麦の実のプチプチが心地良く、味噌辛くないけれど、口に残る甘さもない。
ほんのり緑色な見た目もいい。
相変わらず旨い蕎麦味噌だった。

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ざる蕎麦は、店に到着してからお弟子さんが水回しし、高橋邦広さん自ら延ばして、切ってくださった。
元々蕎麦打ちのやり過ぎで腰を痛め、曲がったままになっておられたが「仕事し過ぎて頚椎をやっちゃってね」と首が動かせないようだった。
歩くのも難しそうなのに、台の前に立つと姿勢がピタッと決まり、全盛期のような鬼神の如きスピードではないけれど、ゆっくりと丁寧に仕上げてくださった。

その間、約20分。
20人くらいの大人が沈黙してその所作を見守った。
蕎麦が打ち上がった時には誰ともなく拍手が起き、高橋邦弘さんは「恥ずかしいからやめろよ」というように苦笑いしながら手を振った。
高橋邦弘さんが打った蕎麦は、最盛期のように完璧に揃ってはいなかったけれど、高加水でモチモチ感があり、蕎麦そのものの質が高く上品な風味があり、二八ならではの喉越しと上品さがあった。
近年の蕎麦の旨さは素材の占める割合が非常に大きくなっており、それを先導したのが正に高橋邦広さんなのだ。
蕎麦そのものの質が高く、二八のこの配合で旨い蕎麦を厳選しているのだから、少々のことでは崩れない。
逆に僕がいつも言うように、ある程度バラつきがあったほうが旨いと感じるほどだ。
蕎麦ツユはこの地の水に合わせて少し変化されていて、醤油の辛さや酸味が丸くなり、そのままでも飲めるくらいなのに、蕎麦湯でしっかり伸びる旨いツユだった。

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それからもう一枚、大分県に移転してから出し始めた田舎ざるを出してもらった。
ざる蕎麦は丸抜きだが、こちらは甘皮の挽きぐるみと思われる。
高橋邦弘さんの蕎麦は、日本酒に例えるならば速醸の大吟醸。
大吟醸にアルコール添加するように、小麦粉も少し加える。
そのほうが完成度が高いからだ。
しかし、田舎蕎麦を出すというのは、そんな酒蔵が生もと造りの純米を始めたというのに近い。

僕は「70歳を越えて新しいことにチャレンジするのか!」と心の中で舌を巻いた。
自ら確立した蕎麦の理論体系を真っ向から否定する蕎麦で、正直、どう評価していいのかわからなくて、混乱してしまった。
確認していないが、おそらくこれも二八だろう。
メッシュも細かく、ゴリゴリの田舎蕎麦ではなく、上品さがある。
でも僕は、高橋邦広さんの「現状に満足せず、さらに先へ」という姿勢に打たれた。
「あと10年くらいやったら理想の田舎ができる」そんな声が聞こえたような気がした。

追記:昔を知る人に教えてもらったが、山梨県長坂時代には田舎を出していた時期あったようなので、正確には復活ということになるようだ。

久しぶりにお会いしたのでご挨拶すると、新しい名刺をくださった。
そこには「そば打ち、高橋邦広」と書かれていた。
彼の弟子は全国に数千人もいる。
達磨グループの総帥と書いてもいいし、なんなら大きな組織を作ってトップに座ってもいい。
そもそも身体を壊しているのに自分で蕎麦を打つ必要はあるのか。
弟子に打たせても文句を言う人はいない。
しかし自ら蕎麦を打つ。
この矜持が「そば打ち」という肩書に集約されていると感じた。
自分は一生、そば打ち職人ということだろう。

食べ終わった食器を下げると、不自由な身体で当たり前のように洗い物をされていた。
旨い蕎麦を食べたとか、そんな浅薄な話ではない。
生き方として、ものすごく尊い姿に僕は出会った。

帰りのバスで「ひろしま蕎麦人」の店主は泣いていた。
旦那さん(と彼は呼ぶ)はあんな身体でも最善を尽くして蕎麦を打ってくれたと。
自分が考える完璧な料理が作られなくなれば引退するというのは料理人として正しいのかもしれない。
しかし、職人とは生き方だから引退がないのだ。
高橋邦弘さんは現在進行系のそば打ち職人だった。

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