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『残響』への感想

朧さんの第十回中城ふみ子賞佳作受賞作、『残響』50首を拝読した。先行して拝読することができていた短歌研究2022年11月号掲載の12首抄でも、

台風のやうなつむじの赤ちやんは疑ひもなくわたしに笑ふ

ぼろぼろの紙袋からはみ出した工具が見える買ひ物袋

漆黒の目をしてゐたと思ふとき乳房の奥の滝は流れる

骨を撒く場所に迷つてゐる母の孫を知らないままのよこがほ

など、どの歌を読んでも独特の描写を与えられた対象へ託された主体の世界観にゆっくりと心を抉られるようであったが、この12首抄を読み終えて感じるのは、やはり50首を読んでみたい、という更なる欲であった。

果たして今回公開された50首は、そんな読者の欲を満たし余りある一連であったように思う。

地下鉄で出会った男性や亡くなった隣人をレンズとして、40代の女性である主体の、家族や性といった一体性と距離の双方を抱えた存在、そして亡き父への認識が様々な視点を通じ再構築される様が、無理なく、しかし生々しく立体的に心に流れ込んで来るようであった。

カップ麺みたいにきみもやはらかくなつてよ冬の朝焼けが来る

パートナーへの暗喩と読んだ。一連の主体が抱える揺らぎの一端に迫ったような歌に思える。〈カップ麺〉と〈冬の朝焼け〉の並列自体が魅力的だが、そこに託された主体の諦念とも憤りともつかない感情の巨大さ。

道端にギョニソの皮が落ちてゐてなんて綺麗なゆふぐれだらう

この一連にあってあえてギョニソと呼ばれた魚肉ソーセージからは仄かに退廃的な空気が漂う。ギョニソの皮は、避妊具の喩のようでもあり、しかしそのことが無用な生々しさを生むこともなく、淡々と詠いきられているようだ。

性欲も母性もピンク色でせう手に入らないものは眩しい

切実な呟きのような一首。〈性欲と母性〉が並列されているある種の強さとともに、それらへ一種の処女性を纏う〈ピンク色〉が託されているという独特の捻れを感じた。

えいゑんの春のひかりに避妊具の減らない薬箱を仕舞つた

避妊をしていないのか、それとも性行為をしていないのかは読みきれないが、いずれにしても初句、二句と三句、四句の間で歌が越えているギャップが鋭く、心地よい。

居場所など諦めたのに両膝を父にもらつた愛と抱へる

自らの膝を抱え、座っている主体の姿が想起される。幼い頃、父の膝の上に座った記憶が景の裏側にあるように思われた。存在への愛情とかつて自らへ注がれた愛情の両方が、その存在を喪失することで寧ろ深まる様が、この両膝に託されていると思った。タイトルである『残響』と響き合うような一首。

自分もしばしば50首を編むが、その50首が担ぐことのできる世界の広さを、いまだに掴んではいない。ただ、掴んでいないながらに感じているのは、冒頭から最後の50首目まで読者を連れていくために、多くの一連がそのテンションに緩急を備えているということ。そうした視点でこの『残響』を捉えようとすると、寧ろ逆の印象なのであった。フラットな抒情が淡々と流れ込んで来るようで、その流れに身を委ねたくなるような読み味がある。例えばエリック・サティのピアノ独奏曲のような。但しその流れの淵は、泥も岩も呑んだ骨太な流れのようにも思える。このように書いてそのことが、本作が受賞した賞が冠する歌人が生きた、十勝平野を流れる河川のようだと、ふと思ったりした。

生きてゐる理由が欲しい水曜のメトロは川をふたつ渡つて


朧さん、改めて受賞おめでとうございます。


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