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日中首脳外交~外務省の秘密指定解除文書を読む=「政治」論じていた田中・毛沢東会談-田中訪中(7)(2002年8月)

 1972年9月27日午後8時半から、北京訪問中の田中角栄首相と毛沢東中国共産党主席の会談が急きょ設定された。場所は故宮の西側に位置し、党・政府首脳の事務所や自宅がある同市中心部の中南海。日中最高首脳の初顔合わせという歴史的会談である

■公式記録は「不存在」

 田中・毛会談は田中が中南海の毛主席邸を訪ねる形で行われ、日本側から大平正芳外相と二階堂進官房長官、中国側からは周恩来首相、姫鵬飛外相、廖承志外務省顧問(中日友好協会会長)が同席した。会談時間は1時間余り。通訳は中国側のみで、日本外務省の官僚は一人も同席しなかった。
 日中戦争終結から27年にして、初めて両国のトップが会った重要な会談であるが、驚いたことに、日本政府はこの会談記録を保有していないとしている。筆者は外務省と内閣府に会談記録の開示を申請したが、回答はいずれも「不存在」だった。
 二階堂の説明を基に、日本の主要各紙が当時報じたところでは、田中・毛会談では次のようなやり取りがあった。
 毛 もうけんかは済みましたか。けんかをしないと、ダメです。
 田中 周総理と円満に話し合いました。
 毛 けんかをして初めて仲良くなれます。(廖承志の方を指して)彼は日本で生まれたので、今度帰る時に、ぜひ連れて行ってください。
 田中 廖承志先生は日本でも非常に有名です。もし参議院全国区の選挙に出馬されれば、必ず当選するでしょう。
 毛 田中首相はハワイの日米首脳会談の際、洋食は好まないと言われたそうですが、中国料理はどうですか。
 田中 大変なごちそうで、とても素晴らしかったです。このほか、マオタイ酒も中国茶も、大変結構でした。
 毛 マオタイ酒をあまり飲むと、良くないですよ。
 田中 マオタイ酒は60度といわれますが、とてもおいしいです。
 毛 誰が60度と言いましたか。マオタイ酒は70度ですよ。
(中国の歴史に話題が移る)
 毛 中国には古いものが多過ぎて、大変ですよ。あまり古いものに締め付けられているということは、良くないこともありますね。
(毛沢東が子供のころ、父に反抗した話をする)
 毛 日本は選挙があって大変ですね。
 田中 この25年間に11回も選挙がありました。街頭演説もしなければ、なかなか選挙に勝てないのです。
 毛 国会もあって大変ですね。
 田中 国会も言うことを聞かないし、選挙もやらなければなりません。
(その後、さらに懇談)
 田中 主席の末永きご健康をお祈りします。
 毛 リューマチで、足が少々弱くなりました
 二階堂は記者団に対し、会談で政治の話は出なかったと語った。毛沢東は帰り際に、6巻の「楚辞集注」を田中に贈呈した。また、田中が固辞したにもかかわらず、玄関の近くまで自ら見送ったという。

■「迷惑」発言に「若い人は不満」

 一方、当時、中国外務省アジア局長だった陸維釗の回想記によれば、会談は以下のようなものだった。
 毛沢東と握手した田中、大平、二階堂が口々に、お目にかかれて光栄ですと言うと、毛沢東は日本語で「ありがとう」と答えた。
 毛主席 わたしは大官僚主義者です。あなた方にお会いするのが遅くなってしまった。(大平の名前を褒めて)「天下太平」ですね。(それまでの交渉について)けんかはしましたか。少しはけんかをしなくては。この世にけんかしないことなどありません。けんかをして結果が出れば、けんかはしなくなりますよ。(田中に対し)あなた方のあの「迷惑をかけた」問題はどう解決したのですか。
 田中 中国の習慣に従って改めようと思います。
 毛 「迷惑をかけた」と言うだけでは、若い人は不満です。中国では、これは水がはねて女の子のスカートにかかった時に言うものです。(廖承志を指して)彼は日本籍です。あなた方がもし必要なら、連れて帰ってください。
 田中 廖先生は日本で非常に有名です。わたしは一昨日、もし彼が日本へ行って、議員の選挙に出れば、必ず当選すると周総理に言いました。
 毛 (廖承志に対し)それならば、君は日本に行って、議員になれば良い。
(四書五経の話になる)
 毛 「春秋」と「易経」以外は全部読みましたが、全く役に立ちません。一度だけ、父親に反抗した時に役に立ちました。父はいつも、わたしは親不孝だと言っていました。そこで、わたしは「書物に『父慈子孝』とある。父が『慈』であって、子は初めて『孝』になるのに、あんたは毎日、人をののしり、殴っているではないか」と言った。父は勉学をしたことがなく、字も読めませんでした。わたしは彼をばかにしていました。(本棚や机の上の本を指して)見てください。わたしは本の中毒にかかっています。本から離れられません。これは「稼軒」、あれは「楚辞」です。
(田中、大平、二階堂は立ち上がって、毛沢東の蔵書を見る)
 毛 (「楚辞集注」を指して)何のプレゼントもありませんが、これをお贈りします。
 田中 (深々とお辞儀をして)われわれ三人は必ず、しっかり勉強します。
(帰り際、毛沢東は田中に「道中ご無事で」と、田中は「毛主席の健康をお祈りします」と述べた)
 やはり、政治向きの話は出てこない。

■「復交は自民党に頼る」

 しかし、中国外務省と党中央文献研究室が編集した「毛沢東外交文選」は、毛沢東の田中に対する談話の一部として、次の発言を収録している。表題は「中日復交問題はやはり、自民党の政府に頼って解決する」とある。
 「あなた方がこうして北京に来て、全世界が戦々恐々としている。主にソ連と米国、この二つの大国だ。あなた方がこそこそ何をしているのだろうと思って、彼らはあまり安心していない。
 米国はまだましだが、それでも、少し気分が良くないだろう。つまり、彼ら(ニクソン大統領ら)は今年2月に(中国に)来たが、国交はまだ結んでいない。あなた方は彼らの前に走り出た。(米国の指導者たちは)心中、あまり気分が良くないだろう。
 数十年、100年合意できなくてもよいし、数日で問題を解決してもよい。
 現在、互いにこの必要がある。これもニクソン大統領がわたしに言ったことだ。彼は互いに必要なのではないかと聞き、わたしはそうだと言った。わたしは右派と結託しており、不名誉なことだと言った。あなた方(米国)の国には二つの党があり、民主党は比較的開明的で、共和党は比較的右だという。民主党は大してことがない、わたしは買っていないし、興味もないと言った。わたしはニクソンに対し、あなたの選挙の時、わたしはあなたに1票を投じた、まだご存じないのかと言った。
 今回、われわれはあなたに投票した。まさにあなたが言うように、あなたのこの自民党が主力にならねば、中日復交問題をどうして解決できようか。
 われわれが専ら右派と結託していると非難する人もいる。(しかし)あなた方日本で野党が解決できない問題、中日復交問題はやはり、自民党の政府に頼る、とわたしは言っている」

■「権力者」を重視

 毛沢東はこの会談で、かなり微妙な政治問題に触れていた。
 毛の米国に関する発言からは、中国が当時、日米が対中政策で必ずしも一致していなかったことを十分踏まえた上で、両国と接していたことが読み取れる。こうした本音が言えるのは、ナンバーワンの毛沢東ならではだ。日米が手玉に取られていたかのようにも思える。
 日米の野党に対する毛沢東の評価も興味深い。社会主義国の指導者が本音では、主義主張にかかわらず、権力を持つ者との関係を重視することがよく分かる。
 特に当時の日本の場合、共産党を除く野党には親中国派が多く、各党の指導者は競うように訪中して、公明党の竹入委員長のように水面下の交渉で重要な役割を果たした例もあったのだが、中国指導部にとっては“お使い”として便利といった程度の存在だったようだ。中国が竹入の役割を特に重視したのも、時の最高権力者である田中と緊密な関係にあったからであろう。
 中国側は国交正常化も、自民党最大派閥の田中派、その流れをくむ竹下派、橋本派の実力者(橋本派では野中広務元幹事長ら)との個人的パイプを特別に重んじる方針をとっているが、日本側では、特定の社会主義国指導者と私的な関係を構築する、こうした“キッシンジャー方式”には批判的な声が多くなっている。

■満身創痍だった毛・周

 田中・毛沢東会談は、公式記録の全文がいまだに、公開されていない。しかし、「毛沢東外交文選」が引用した毛の発言以外にも、当時、中国外務省顧問として国交正常化交渉に参加した張香山(党中央対外連絡部、中央宣伝部の副部長、中日友好協会副会長などを歴任)は月刊誌「論座」(朝日新聞社)の97年12月号に掲載されたインタビューで「田中首相は確か、毛主席との会見で『もし、閣議で反対する閣僚が2、3人いても罷免できる。首相にはこういう権限がある』と述べた」と証言しており、かなり生臭い話が出たのは間違いない。
 また、大平は中国から帰国後、地元・香川県の四国新聞の取材に応じ、「(毛沢東自身が)あまり健康体じゃないので、遠からず神様のお迎えに来ると言ってましたね」と述べている。
 田中と大平は当時、それぞれ54歳、62歳だったが、毛沢東は既に78歳。1年前の71年9月に林彪事件が起きた後、特に衰えが目立つようになり、同年11月には、呼吸困難で一時意識不明の重体に陥っていた。
 周恩来も74歳で、田中訪中の4カ月前にがんを患っていることが分かっており、中国側の両首脳は身体面では満身創痍の状態だった。
 なお、田中・毛会談は、国交正常化交渉がヤマを越えたため設定されたといわれてきたが、日本外務省の記録を読む限り、この時点では、交渉はまだ妥結していない。
 最大の懸案である戦争状態終結問題の決着は、この日深夜の第3回外相会談に持ち越された。

(注)引用した文書は「大平外務大臣・姫鵬飛外交部長会談(要録)(1972年9月26日~27日)―日中国交正常化交渉記録―」(交渉当時の記録を78年5月、外務省中国課が整理したもの。当時は「無期限極秘」扱い)。
 このほかに、中国外務省外交史研究室編「新中国外交風雲」(第3巻)(94年、世界知識出版社)、中国外務省・中国共産党中央文献研究室編「毛沢東外交文選」(94年、中央文献出版社・世界知識出版社)(2002年8月28日)

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