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日中首脳外交~外務省の秘密指定解除文書を読む=実態は“反ソ同盟”-田中訪中(6)

 1972年9月の日中国交正常化交渉は田中角栄首相が北京入りして3日目の27日午後、クライマックスを迎える。第3回首脳会談での田中、周恩来両首相の発言は「日中国交正常化は第三国に対するものではない」という対外的な説明とは裏腹に、両国の接近が事実上の“反ソ同盟”だったことを明確に示している。

■「中ソ同盟条約、ないも同然」

 この日の首脳会談は一言で言えば、田中と周恩来がソ連の悪口を競い合っているかのような内容である。
 第1回首脳会談で、周恩来はさっそく「台湾問題にソ連の介入を許さないという点で、日米中3国には共通の利益がある」と指摘して、ソ連への警戒心をあらわにした。また、第2回会談でも「ソ連に関しては、日中双方に意見があるが、(両国間の)条約やコミュニケには書きたくない」と自制的な態度を見せる一方で、「北方領土問題について毛沢東主席は、千島(列島)全体が日本の領土であると言った。だから、ソ連は怒った」という話をして、日ソの対立要因であるこの問題で日本を支持していることをアピールしていたが、第3回会談では、フルシチョフやブレジネフを名指して批判するなど、その対ソ非難は最高潮に達した。
 周恩来は、ソ連が提案し、中国が拒否した中ソ連合艦隊の創設問題やソ連側の原子力協定破棄、対中経済援助打ち切りなどを列挙した上で、こう述べた。
「フルシチョフは信用を重んじない人間だった。そこで、われわれは(64年のフルシチョフ失脚で党第1書記、後に党書記長となった)ブレジネフに期待をかけた。しかし、プレジネフの政策もフルシチョフと変らず、したがって、ソ連との話し合いは、うまくまとまらなかった」
 周はさらに、「中ソ友好同盟相互援助条約は、実際には存在しないも同然である」「中ソ友好同盟条約はないのと同じだ」と言い切った。

■「ソ連には首絞められた」

 周恩来によれば、中華人民共和国成立直後の1950年に周と毛沢東が訪ソして、中ソ友好同盟相互援助条約に調印した際、中国側は「モンゴルを中国の家庭に入れたい」と言ったが、ソ連に反対されたという。
 何と、新中国はソ連に対し、社会主義国としては先輩に当たるモンゴルを中国に“返還”するよう求めていたのだ。モンゴル独立の経緯や50年当時の国際情勢から言って、ソ連が中国の要求を断ったのは至極当然であり、周恩来の言い分は「逆恨み」と言うしかない。
 周恩来はまた、核戦争禁止を唱えるソ連の主張を「ペテン」呼ばわりしている。
 田中も負けてはいない。
「ソ連には第2次大戦後、首を絞められたので、日本人はソ連の言うことを額面通り受け取っていない」
「ソ連は日本との間で不可侵条約を結んでいながら(敗色濃厚となった日本の)首吊りの足を引っ張ったので、日本としては、ソ連を信用していない」
 これに対して、周は「われわれは、日本がソ連と話をするのは容易でない、四つの島を取り返すのは大変だと思っている」と、北方領土問題で重ねて日本側の立場に支持を表明した。

■「核の傘」容認、社会党の非武装論を批判

 次の話題は日本の安全保障政策だ。
 「日本軍国主義」復活に対する懸念の問題を提起した周恩来に、田中は自分の列島改造論を紹介した上で「軍国主義復活に使う金はない」と強調した。いかにも田中らしい説明の仕方である。
 日米安保条約に関して、周恩来は「すぐに廃棄できないことはよく分かっている」「日本が米国の核の傘の下にあるのでなければ、日本に発言権がなくなる」と、米国の「核の傘」まではっきりと容認して、日本の日米安保重視政策に理解を示した。
 また、田中が「相互信頼が大事だ。だから、日本に軍国主義が復活するとか、侵略主義が復活するとか考えないよう願いたい」と注文を付けると、周は「わたしは日本の社会党より開けている。社会党は『非武装』をやかましく言うから、日本が自衛力をもつのは当然ではないかと言ってやった」と述べ、社会党の非武装中立論を批判した。
 中国が日米と対立していた当時、日本の非武装中立論は中国にとって“有用”だったが、ソ連に対抗するため日米に接近してからは、有害無益な空論でしかなかったのだ。
 会談記録によると、田中は周恩来のこの発言に「それはどうも」とだけ答えた。中国自身が日ごろ「友好関係」を強調している社会党の悪口を、自民党トップの前で言い放つ周の態度に、田中は苦笑したのであろう。
 なお、尖閣諸島問題については、次のようなやり取りがあった。
 田中「尖閣諸島についてどう思うか?私のところに、いろいろ言ってくる人がいる」
 周「尖閣諸島問題については、今回は話したくない。今、これを話すのは良くない。石油が出るから、これが問題になった。石油が出なければ、台湾も米国も問題にしない」
 この問題は田中の方から切り出しているが、明確に領有権を主張したわけではない。国内の対中国交反対派・慎重派への“言い訳”のため、一応言及しただけといったところだろう。
 周恩来の回答は棚上げ論だ。「石油が出なければ…」の発言は、まるで他人事のような口振りである。国交正常化の邪魔になる問題はなるべく迂回するという判断だったとみられる。

■「台湾」は後回し

 日米への接近という外交政策の大転換で、中国が最も大きく“迂回”したのは台湾問題だった。
 周恩来はこの問題に関して、田中に次のように説明した。
「中国と米国との間で、最も合意し難いのはベトナム問題についてである。ニクソン(米大統領)訪中の際の最大の問題はベトナム問題であった。蒋介石(台湾総統)の問題は、いずれ解決できる。今はインドシナが問題である」
「われわれは、インドシナ問題を第1に、台湾問題は第2に考えている。台湾解放は中国の国内の問題だから、しばらく後でもよいと思う」
 米国はジョンソン政権時代の65年からベトナム戦争に本格的に介入したが、戦いは泥沼状態に陥り、ニクソン政権は部隊撤収の道を探っていた。
 中国は同じ社会主義国の北ベトナムを支援していた。当時は極秘にされていたが、中国は北ベトナム領内に高射砲、工兵、輸送などの部隊を派遣して、実質的に自ら参戦していた。
 戦争の相手と無原則に手を結ぶわけにはいかない。米中間で「ベトナム」は早急に対応を迫られていた問題だった。
 これに対して、「台湾解放」は後回しにしても、「しばらく後」には必ず実現できると、周恩来は考えていたようだ。台湾の“後ろ盾”である日米と手を結べば、「解放」は容易になると思ったのだろう。
 実際には、21世紀に入っても、台湾問題は未解決で、台湾独立派の勢力拡大により、中国のとっては、むしろ情勢が悪化している。72年当時の中国指導部はこの点で、見通しを大きく誤ったと言わざるを得ない。
 また、キッシンジャー米大統領補佐官(国家安全保障担当)の秘密訪中とニクソン訪中の直後、周恩来が自らハノイを訪れて、対米接近政策について説明するなど、中国は北ベトナムに気を遣っていたが、同国指導部は「敵」と勝手に握手した中国に不満を持ち、中越関係は徐々に悪化。79年には、中国軍がベトナムに侵攻する事態となる。

■日朝関係改善も議題に

 第3回首脳会談では日本と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の関係も話し合われた。
 周恩来は異なる政治体制の「平和共存」について語った際、日朝関係改善を田中に勧めた。
「体制の異なる国の間で平和共存は可能である。南北朝鮮は話し合いを開始し、外からの干渉を排して、会談することに(72年7月4日の南北共同声明で)合意した。朝鮮半島の情勢は緩和の方向に向いている。ソ連はこれに批判的で、体制の相異がある南北朝鮮の統一がどうして可能になるのかと言っている。ソ連は統一問題につき、北朝鮮と同じ立場ではない。しかし、北朝鮮はだいぶん以前からソ連の支援を受けていない。日本と北朝鮮の関係は二つの国の間の問題である。しかし、日本と北朝鮮の関係について言わせていただくなら、日本政府は今回の日中首脳会談を手始めに、北朝鮮との関係についても改善を図られてはいかがかと存ずる。これは極東の緊張緩和に役立つと思う」
 田中は「日本では、中ソが一枚岩であるとの前提に立っていた。それは、中ソ友好同盟条約や、北朝鮮とソ連・中国との条約を考慮してのことである。しかし、中ソが一枚岩でないことが、日本人にも理解されてきた」とした上で、「南北朝鮮が自主的に統一を図ることを支持する。しかし、ソ連の企てにより、朝鮮統一がなされるのではないかという不安が日本国民の中にある。周首相が言う通り、実態は、北朝鮮がソ連の言うままになっていないということであれば、わが国が北朝鮮との関係を改善することはアジアの平和にとって良いことだと思う」と答え、前向きの姿勢を示した。
 もっとも、田中がその後、日朝関係改善のため積極的に動いたという話は聞かない。
 中朝関係は60年代後半、ソ連に対する見方の違いや中国の文化大革命の影響で一時悪化したが、69年以降は修復され、周恩来は70年4月、12年ぶりに北朝鮮を公式訪問した。
 周恩来は北ベトナムと同様、北朝鮮にもキッシンジャー秘密訪中とニクソン訪中の直後に赴き、対米政策について説明。北朝鮮は北ベトナムと異なり、“中国離れ”はせず、75年に金日成が国家主席として初めて公式に訪中するなど、良好な関係を保った。

(注)引用した文書は日本外務省の「田中総理・周恩来総理会談記録(1972年9月25日~28日)―日中国交正常化交渉記録―」(交渉当時の記録を88年9月、外務省中国課が整理したもの。当時は「無期限極秘」扱い)(2002年8月24日)

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