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日中首脳外交~外務省の秘密指定解除文書を読む=「侮辱」に激怒した周恩来─田中訪中(3)(2002年7月)

 「これはわれわれに対する侮辱である」―。田中角栄首相訪中の2日目(1972年9月26日)午後に行われた2回目の首脳会談で、周恩来首相は怒りをあらわにした。外務省条約局の高島益郎局長がこの日午前の外相会談で、戦争賠償問題に関する日本側の公式見解を説明したが、これが「侮辱」だと言うのだ。
 初日の宴会で中国側の不興を買った田中自身の「迷惑」発言と周恩来の高島批判で、日本側は交渉開始早々から守勢に立たされた。

■高島条約局長を非難
 
 「日華(日台)条約につき明確にしたい。これは蒋介石(台湾総統)の問題である。蒋が賠償を放棄したから、中国はこれを(改めて)放棄する必要がないという(日本側)外務省の考え方を聞いて驚いた。蒋は(46―49年の国共内戦に敗れて)台湾に逃げて行った後で、しかも、サンフランシスコ条約の後で、日本に賠償放棄を行った。他人の物で自分の面子を立てることはできない。戦争の損害は大陸が受けたものである」「われわれは賠償の苦しみを知っている。この苦しみを日本人民になめさせたくない。われわれは、田中首相が訪中し、国交正常化問題を解決すると言ったので、日中両国人民の友好のために、賠償放棄を考えた。しかし、蒋介石が放棄したから、もういいのだという考え方は受け入れられない。これはわれわれに対する侮辱である。田中、大平両首脳の考えを尊重するが、日本外務省の発言は両首脳の考えに背くものではないか」
 周恩来は午前中の外相会談で高島が行った説明を取り上げて、「侮辱」とまで非難した。
 日本側の会談記録に高島の名はないが、中国共産党中央文献研究室が編集した「周恩来伝」で部分的に引用されている中国側の会談記録は、周恩来の反論を次のように記している。「毛(沢東)主席は、日本人民に賠償を負担させてはならないと主張し、わたしはこれを日本の友人に伝えた。ところが、あなた方の条約局長である高島先生は逆に、こちら側の好意を理解せず、蒋介石が既に賠償はいらないと言ったと述べた。これはわれわれに対する侮辱である。高島先生の言い方はご両人(田中と大平)の精神に合致していない」

■中国側にわび入れる
 
 外交交渉において、相手側の一人に標的を絞り、名指しで攻撃するというのは異例なことだ。中国側の関係者や研究者はこれまで一貫して、高島がおかしな強硬意見を吐いたので、周恩来が激怒したと主張してきたが、前回詳述した通り、高島は日本政府の公式見解を記した文書を読み上げただけなので、周恩来が高島個人をやり玉に挙げたのは奇妙である。
 中国側には、事務方だけを攻撃することにより、田中らに政治レベルでの歩み寄りを促す狙いがあったのではなかろうか。
 周恩来弁公室主任(個人事務所の責任者)だった童小鵬の回想録によると、周恩来はこの日の首脳会談で「高島条約局長は中日関係正常化を破壊しに来たのか」とも語ったというが、事実とすれば、いかに交渉上の戦術とはいえ、やり過ぎの感がある。
 記録を見る限り、田中らは高島に何の助け船も出していない。中国外務省アジア局長として国交正常化交渉に参加した陸維◆(金ヘンにリットウ)回想記によれば、高島は翌27日、事務レベルの共同声明起草委員会でこの問題について弁明し、「誤解を招かないよう望む。中国が戦争賠償要求を放棄したことに、日本国民は深く感動している」と述べたという。結局、"わび"を入れさせられたわけである。
 田中は後に側近に対し、訪中の期間中、血圧が急上昇したり、食欲が減退したりしたと語っているが、それはこの第2回首脳会談の直後のことと思われる。
 なお、筆者は日本外務省に対し、共同声明起草委に関する文書の開示も申請したが、回答は「不存在」、つまり、「ない」とのことだった。
 
■「法匪」発言の謎

 これまで言い伝えられてきた高島発言の"神話"によれば、周恩来は高島を「法匪」(法律を乱用する悪人)呼ばわりしたことになっているが、日本側の首脳会談記録にも、中国側の公刊資料にも、そのようなくだりはない。
 「法匪」という単語が現代中国語で使われることは、極めて少ない。中国語インターネット・サイトの検索エンジンで調べてみても、高島発言に関する記述以外は、近代以前の例が幾つか出てくるだけである。
 周恩来の「法匪」発言説は、実は日本側、特に田中周辺から出たとの見方もある。
 田中は訪中終了後の記者会見で、「中国が日米に接近したことで、日米安保条約は意味がなくなったのではないか」という趣旨の質問に対して、以下のように答えている。「そこまで考えなくてもいいだろう。そこまで考えると、法匪と言われているように、すべてがピシーッと合っていないと、気がすまんような…。世の中はそんなものじゃないですよ(笑)これは大学の入学試験じゃないんだから」
 田中の常用語彙に「法匪」が含まれていたことが分かる。日中国交正常化をめぐる要人の公式発言で「法匪」が出てくるのは、田中のこの会見だけだ。
 田中もしくはその周辺が帰国後、「周恩来は、高島が『法匪』であるかのような言い方をした」と説明し、これが「周恩来は高島を『法匪』と呼んで非難した」と受け取られて、いつの間にか定説化してしまったのではないだろうか。

(注)引用した文書は、日本外務省の「田中総理・周恩来総理会談記録(1972年9月25日~28日)―日中国交正常化交渉記録―」(交渉当時の記録を88年9月、外務省中国課が整理したもの。当時は「無期限極秘」扱い)
 このほかに、中国共産党中央文献研究所編「周恩来伝」(98年、中央文献出版社)、童小鵬「風雨四十年」(第2巻)(96年、中央文献出版社)、中国外務省外交史研究室編「新中国外交風雲」(第3巻)(94年、世界知識出版社)。(2002年7月15日)

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