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日中首脳外交~外務省の秘密指定解除文書を読む=日中国交正常化交渉、ついに妥結-田中訪中(8)(2002年9月7日)

 田中角栄首相訪中3日目の1972年9月27日夜、田中と毛沢東共産党主席の会談に同席した大平正芳外相は同会談終了直後の午後10時10分から、第3回外相会談に臨んだ。田中訪中時の政治レベルの会談で唯一の深夜折衝であり、日本側の会談記録には、冒頭に「(外相同士の)最終会談であり、最も重要なもの」と注記がある。

■焦点は戦争終結時期

 第3回外相会談では、姫鵬飛外相がまず、「本日(27日)午後の事務レベルでの話し合いにより、次の諸問題が残った」として、「日本側が与えた戦争損害に対する日本側の反省表明の問題」「戦争状態終結に関する問題」「戦争賠償についての表現の問題」などを挙げた。
 最大の難関は依然として、「日中戦争がいつ終わったのか」だった。
 中華人民共和国との国交正常化によって初めて両国の戦争状態が終わったと共同声明に明記すれば、「中華民国」として全中国を代表すると称していた台湾の蒋介石政権と結んだ日華平和条約(52年)が当初から無効だったことになるので、日本政府としては受け入れられない。
 このため、大平は前日の第1回外相会談で「日本国と中国との間の戦争状態の終了をここに確認する」という表現を盛り込んだ声明案を提示した。しかし、日華条約の有効性を認めない中国側は「本声明が公表される日に、戦争状態は終了する」との表現を主張。その後、中国側だけが戦争終結を宣言する案や、両国が「平和関係」の存在を宣言する案を大平が示したが、姫鵬飛はいずれの案にも同意していなかった。。

■「時制抜き」の奇策

 「戦争状態終結の問題についての中国側の考えをうかがいたい」と切り出した大平に、姫鵬飛は新たな案を提示した。
「この問題については、私は周恩来総理とともに長い時間をかけてあれこれ考えたが、その挙句考えついたのが次の方法である。つまり、共同声明の前文の中に『戦争状態終結』の字句を入れる、すなわち、声明前文の第1段にこの字句を入れるということである。
 すなわち、同前文第1段でうたわれている『両国人民はこれまで存在した不自然な状態…』の次に戦争状態の終結、中日国交正常化及び両国人民の願望の実現という三つの字句をすべて名詞形で挿入する。その結果、同箇所は『両国人民はこれまで存在した不自然な状態、…戦争状態の終結、中日国交正常化及び両国人民の願望の実現は中日両国関係史上に新たな一頁を開くであろう』という表現に修正される。
 上述のごとき方法を採ることにより、戦争状態の終結は時間上の制限を受けなくなり、中日双方とも、その問題についてそれぞれ異なった解釈を行いうる余地を生ずることとなる」
 この瞬間、日中国交正常化交渉は事実上妥結した。

■「不正常な状態」が終了

 戦争状態終結の表現を時制のない名詞形にして前文に入れるという中国側の提案を、大平は受け入れた。この妥協案に伴い、共同声明の本文で、声明発表を機に終了するのは「戦争状態」ではなく、「不正常な状態」とされた。これも中国側の案だった。
 日中共同声明の発表により、両国間の「戦争状態」が終わるとすれば、日華条約はもともと無効で、日本政府は国会と国民を欺いていたことになるが、「不正常な状態」が終了するのであれば、日華条約には何の影響も与えない。
 一方、中国側は共同声明の前文と本文の表現を総合して、声明発表をもって戦争状態が終了したと解釈できる。
 この「不正常な状態」という表現が中国側の提案だったことは、関係者の証言で既に知られていたが、肝心の「戦争状態」自体の扱いを含め、田中訪中時の交渉が妥結に至った詳しい経緯は、この会談記録が公開されるまで分かっていなかった。
 交渉の焦点だった戦争状態終結をどう表現するかの問題は、中国側が日本に大きく譲歩する形で、戦争終結の時期を故意にあいまいにする案を提示したことによって解決された。
 これまでは、「戦争状態」を「不正常な状態」に言い換えたことが交渉妥結の決め手になったといわれてきたが、実際の決定打は、戦争状態終結の表現を名詞形にする手法で、時制を"ごまかした"ことだった。
 大平は「戦争状態終結の問題については、中国側で日本側の意向をお含みいただき感謝する」と、姫鵬飛に謝意を伝えた。

■「賠償請求」を放棄

 高島益郎外務省条約局長の発言で一時紛糾した戦争賠償問題も、あっさり片付いた。
 姫「本問題について中国側で検討した表現方法は次の通りである。すなわち、『中華人民共和国政府は、中日両国人民の友好のために、日本国に対し、戦争賠償の請求を放棄することを宣言する』。かかる表現についての日本側の考えをうかがいたい」
 大平「日本側はこの表現に同意できると考える。これは中国側の好意によるものであると考えている」
 戦争状態終結の問題と同様、「請求権」の放棄とすると、日華条約無効論につながる。しかし、中華人民共和国が「請求」を放棄するのならば、単に請求しないというだけで、法的権利とは関係なく、日本側も受け入れることができた。
 大平は帰国直後、自民党の会議で訪中結果の報告を行った際、「中国側が請求権という言葉にこだわると、困るところだった」と、本音を漏らしている。
 日本側の「反省」問題では、中国側は当初、「日本国政府は、過去において日本軍国主義が中国人民に戦争の損害をもたらしたことを深く反省する」との表現を提案。その後、「日本側は過去において、日本が戦争を通じて中国人民にもたらした重大な損害の責任を深く反省する」と改めたが、いずれにせよ、「謝罪」は求めなかった。
 「責任を深く反省する」の部分が日本語として不自然だったため、大平が後段を「重大な損害を与えたことについての責任を痛感し、反省する」と言い換える対案を出して、この問題も決着した。
(ただ、共同声明では「深く反省する」とされた)

■実は事前に妥結?

 大平「ありがとう。種々迷惑を掛けて申し訳なかつた」
 姫「迷惑とは思っていない。これは日中両国による共同作業である。共同声明全体としては、これで一応まとまったこととなる」
 第3回外相会談が終わったのは午前零時半で、日付は既に28日になっていた。外相会談での合意に基づき、声明文が同日未明、事務レベルの起草委員会で作成された。
 大平・姫鵬飛会談の記録公開により、共同声明をめぐる交渉の詳細が判明したが、いまだに不可思議なのは田中・毛沢東会談のタイミング。交渉が事実上まとまったのを受けて、中国側がこの会談を設定したというのがこれまでの定説だが、外相会談記録によれば、妥結は田中・毛会談の後である。
 田中・周恩来の第3回首脳会談が終わった27日午後6時半ごろから、田中・毛会談が急きょ決まった同8時ごろの間に、中国側が何らかの形で譲歩案を日本側に伝え、実質的に妥結していた可能性もある。
 しかし、日本外務省は田中・毛会談や起草委の記録はないとしており、中国側は一連の会談の記録をほとんど公開していないので、公文書に基づく、これ以上の事実究明は困難な状況だ。

《日中共同声明の「戦争状態終結」関係部分》

【前文】両国国民は、両国間にこれまで存在していた不正常な状態に終止符を打つことを切望している。戦争状態の終結と日中国交の正常化という両国国民の願望の実現は、両国関係の歴史に新たな一頁を開くこととなろう。

【本文】日本国と中華人民共和国との間のこれまでの不正常な状態は、この共同声明が発出される日に終了する。

(注)引用した文書は「大平外務大臣・姫鵬飛外交部長会談(要録)(1972年9月26日~27日)―日中国交正常化交渉記録―」(交渉当時の記録を78年5月、外務省中国課が整理したもの。当時は「無期限極秘」扱い)(2002年9月7日)

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