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日中首脳外交~外務省の秘密指定解除文書を読む=「台湾」と「米国」が焦点に―田中首相訪中(1)(2002年6月)

 今年9月で日中国交正常化から30年。先の瀋陽総領事館事件が日本政府を揺るがす大騒動になったことからも分かるように、対中関係は今も、日本外交にとって最大級のテーマだ。ここでは、昨年4月に施行された情報公開法に基づいて、日本外務省が秘密指定を解除して開示した過去の主要会談記録によって、日中首脳外交の足跡をたどる。
 日本側で公開された一連の文書は、国交正常化交渉に関する、これまでの"定説"が必ずしも事実でなかったことを示している。

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 1972年9月25日午前11時30分(北京時間)、田中角栄首相は日本航空の特別機で北京の空港に降り立ち、周恩来首相の出迎えを受けた。中華人民共和国(共産党政権)の成立から23年。日中の首脳が初めて握手を交わした。
 日本側ではこの年の7月7日、佐藤栄作首相の退陣を受けて、「日中復交」を掲げた田中内閣が発足。田中は首相就任からわずか2カ月半で、日中国交正常化交渉のため歴史的な訪中に踏み切った。「頭越し外交」として、日本に衝撃を与えたニクソン米大統領の訪中計画発表から1年2カ月がたっていた。
 一方、中国は当時、文化大革命の激動期にあった。かつての同盟国・ソ連との関係は、国境で武力衝突が起こるほどにまで悪化していた。
 前年の71年9月には、文革で毛沢東共産党主席に次ぐナンバー2にのし上がった林彪党副主席(国防相)の国外逃亡・墜死という大事件が起きて、指導部は建国以来最大級の激震に見舞われたが、外交面では、同年10月に台湾を駆逐する形で国連に加盟、72年2月にはニクソン訪中が実現と、相次いで大きな成果を上げた。国際社会における影響力を拡大し、ソ連の脅威に対抗する戦略の中で、次の"目標"は日本だった。

■「一気呵成にやりたい」

 田中は北京到着から3時間半後の午後3時から、天安門広場の西側に位置する人民大会堂で第1回首脳会談に臨んだ。日本側の主な出席者は田中と大平正芳外相、二階堂進官房長官。中国側からは周恩来のほか、姫鵬飛外相、廖承志外務省顧問(中日友好協会会長)、韓念龍外務次官が出席した。
 田中「日中国交正常化の機が熟した。今回の訪中をぜひとも成功させ、国交正常化を実現させたい。これまで国交正常化を阻んできたのは台湾との関係である。日中国交正常化の結果、自動的に消滅する関係(日台の外交関係)とは別に、現実に起こる問題に対処しなければならぬ。これをうまく処理しないと、(日本の)国内にゴタゴタが起こる。日中国交正常化を実現する時には、台湾に対する影響を十分考えてやるべきだ。
 国交正常化はまず共同声明でスタートし、国会の議決を要する(基本条約締結などの)問題は後回しにしたい」
 周恩来「田中総理の言う通り、国交正常化は一気呵成(かせい)にやりたい。国交正常化の基礎の上に、日中両国は世々代々、友好・平和関係を持つべきである。日中国交回復は両国民の利益であるばかりか、アジアの緊張緩和、世界平和に寄与するものである。また、日中関係は排他的なものであってはならない」
 この時点で既に、自民党の古井喜実衆院議員、公明党の竹入義勝委員長ら与野党の国会議員などを介して、水面下の交渉がかなり進んでいたこともあって、両首脳は田中訪中で一気に国交正常化を実現することに強い意欲を示した。
 しかし、日中の国交樹立に当たって、日本と「中華民国」(台湾の国民党政権)のそれまでの関係をどう見なすかという最大の難問は未解決だった。

■大平提案を拒否

 大平はまず、日本側の基本的立場を説明した。
 「国交正常化を成し遂げ、これをもって、日中両国の今後長きにわたる友好の第一歩としたい。また、国交正常化がわが国の内政の安定に寄与するよう願っている。この観点から二つの問題がある。
 一つは(52年に日本と台湾が締結した)日華平和条約の問題であり、中国側がこの条約を不法にして無効であるとの立場をとっていることも十分理解できる。しかし、この条約は国会の議決を得て、政府が批准したものであり、日本政府が中国側の見解に同意した場合、日本政府は過去20年間にわたって、国民と国会をだまし続けたという汚名を受けなければならない。そこで、日華平和条約は国交正常化の瞬間において、その任務を終了したということで、中国側のご理解を得たい。
 第二点は第三国との関係である。特に日米関係は日本の存立にとり、極めて重大である。また、米国は世界に多くの関係を持っているが、日本の政策によって、米国の政策に悪影響が及ぶことがないよう注意しなければならないと考える。つまり、日中国交正常化を、わが国としては対米関係を損ねないようにして実現したい。
 日中国交正常化後の日台関係については、日台の外交関係が切れた後の現実的な関係を、やることとやらないことのけじめをはっきりさせて処理したい」
 大平の説明は、同条約は合法かつ有効だったが、日中国交正常化と同時に、その役割を終えるという意味である。田中と大平の発言に周恩来はこう応じた。
 「今回の日中首脳会談の後、共同声明で国交正常化を行い、条約の形を取らぬという方式に賛成する。平和友好条約は国交樹立の後に締結したい。日中友好は排他的でないようにやりたい。
 戦争状態終結の問題は日本にとって面倒だとは思うが、大平大臣の提案に完全に同意することはできない。サンフランシスコ(講和)条約以後、今日まで戦争状態がないということになると、中国は(日本との戦争の)当事者であるにもかかわらず、その中に含まれていない」

■日本側に"同情"も

 「中華人民共和国の成立により、中華民国は消滅し、台湾も中華人民共和国の一部になった」と主張してきた中国側としては、日華条約に関する日本側の解釈をそのまま受け入れることはできなかった。
 日華条約は米国主導のサンフランシスコ講和条約(51年調印)に連動する形で結ばれたが、中国共産党政権はこうした戦後処理を認めていなかった。日中戦争で日本と戦ったのは中華民国であるが、49年10月以降は、中華人民共和国が中国を代表する唯一の合法政府なので、日本は中華人民共和国を相手として戦後処理をしなくてはならないというのが中国側の立場だった。
 もっとも、周恩来は「戦争状態終結の問題は日本にとって面倒だとは思う」と述べて、日本側が「日中」と「日台」の板挟みになって、苦境に陥っていることに"同情"も示している。
 また、日中国交正常化の結果、日本国内で「ゴタゴタ」が起きる可能性に言及した田中の発言からは、台湾との「従来の関係」を日中復交後も維持すべきだとする同党の党議決定が田中にとって、かなりの重荷となっていたことが読み取れる。
 日台関係をめぐっては、田中訪中の直前に、首相特使として台湾を訪問した椎名悦三郎自民党副総裁が「日中国交正常化以後も、日台の外交関係は維持される」という趣旨の発言をして、物議を醸した経緯があるので、なおさらである。
(もっとも、党の決定は「従来の関係」に外交関係は含まれないとも言っていないので、椎名は党議を無視して放言をしたわけではなかった。石井明東京大学教授の研究によると、椎名が携行した田中首相の蒋介石総統あて親書も、対中国交の方針は明記しているが、台湾との断交には言及していなかった)

■双方が米に配慮

 一方、米国に関しては、日中がいずれも配慮を見せているのが興味深い。
 日中国交正常化が日本の頭越しに行われた米中接近を事実上"後追い"するものだったことを考えれば、「日中国交正常化を、わが国としては対米関係を損ねないようにして実現したい」という大平の発言は奇異にも思える。
 周恩来も「日米関係には触れない。これは日本の問題である」「日米関係については皆様方にお任せする。内政干渉はしない」と、日本側に調子を合わせている。
 米国はニクソン訪中で中国と劇的な和解を果たしたものの、国交樹立にまでは至らなかった(米中国交樹立はカーター大統領時代の79年)。出遅れた「日中」が「米中」を追い越すことで、米国の疑念を招きはしないかとの懸念を日中の首脳がある程度共有していたことがうかがえる。
 なお、この第1回首脳会談で、国交正常化を実現する共同声明をめぐる具体的な交渉は大平、姫鵬飛の外相会談で行われることになった。

■「迷惑」発言で反発買う

 田中訪中初日の夜は人民大会堂で中国側主催の歓迎晩さん会が催され、周恩来と田中がそれぞれ、あいさつに立った。ここで飛び出したのが、有名な田中の「迷惑」発言だ。外交文書を解読するまでもない周知の事実だが、田中訪中の象徴的なエピソードなので、概略を記す。
 田中はあいさつで「過去数十年間にわたって、日中関係は遺憾ながら不幸な経過をたどってまいりました。この間、わが国が中国国民に多大なご迷惑をおかけしたことについて、私は改めて深い反省の意を表明するものであります」と語った。
 この中の「迷惑」を日本側は「麻煩(マーファン)」と訳した。「麻煩」は本来、「面倒」程度の軽い意味だ。中国人には、田中が過去の対中侵略について「面倒をかけた」と、さらりと触れただけですませようとしたと聞こえたであろう。
 しかも、田中は第1回首脳会談前の顔合わせの席でも、第2次大戦の時に日本は中国に「迷惑」をかけたと発言していた。
 晩さん会で田中より先にあいさつした周恩来は、この点を「1894年(日清戦争の開始)から半世紀にわたる日本軍国主義者の中国侵略によって、中国人民は極めてひどい災難を被り、日本人民も大きな被害を受けました」と表現した。
 「極めてひどい災難」と「たいへんな面倒」の違いは大きい。また、中国側が日本の対中侵略の起点を19世紀末というかなり早い時期に"設定"していることが分かる。
 田中のあいさつ中、中国側出席者は一区切りごとに拍手を送ったが、「迷惑」発言の部分では拍手をせず、不快感を示した。
 また、周恩来がこの日のあいさつで強調した「前のことを忘れずに、後の戒めとする(前事不忘、後事之師)」という言葉は、以後、日中間で歴史認識問題が表面化するたびに、中国側が引用することになる。
 焦点の戦争状態終結問題については、周恩来が「中華人民共和国成立後、中日両国の間で戦争状態の終結を公表していない」と述べ、この問題に直接言及したのに対し、田中は「第2次大戦後においても、なお不正常かつ不自然な状態が続いた」と婉曲な言い方にとどめた。

(注)引用した文書は日本外務省の「田中総理・周恩来総理会談記録(1972年9月25日~28日)―日中国交正常化交渉記録―」(交渉当時の記録を88年9月、外務省中国課が整理したもの。当時は「無期限極秘」扱い)
 なお、会談出席者の発言記録については、一部の固有名詞の特殊な表記(例えば、「ヴィエトナム」⇒「ベトナム」)や漢字、句読点などを、文意に影響しない範囲で一般的な表現に改めた。(2002年6月25日)

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