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日中首脳外交~外務省の秘密指定解除文書を読む=戦後日本の「軍縮」を絶賛-トウ小平来日(1)(2005年8月)

 1978年10月、中国のトウ小平副首相(共産党副主席)が日中平和友好条約の批准書交換式に出席するため、日本を公式訪問した。トウは党や政府の最高ポストには就いていなかったが、事実上は華国鋒党主席(首相)をしのぐ実力者。中国の最高指導者が来日したのは史上初めてのことだった。72年に国交を正常化した日中関係は、貿易、航空、海運などの諸協定を結んだ上で、同条約を締結して基礎を固め、新たな段階に入った。
 文化大革命(66-76年)の混乱を抜け出したばかりで、対外的にはソ連との対立が続いていた当時の中国は、経済協力や対ソ戦略の面で日本への期待が大きく、その後日中関係を揺るがすことになる歴史問題はまだ表面化していなかった。今では考えられない日中政治関係の「古き良き時代」である。
 
■皮肉なめぐり合わせ
 
 78年10月22日夕、トウ小平は公賓として、特別機で羽田空港に到着した。日本通として有名な全国人民代表大会(全人代=国会)の廖承志常務副委員長(中日友好協会会長)、黄華外相らが同行していた。日本側は、園田直外相が外交慣例を無視し、特別機の中まで入り込んでトウ一行を出迎えるという大歓迎ぶりだった。
 翌23日午前、首相官邸で園田と黄華が日の丸と五星紅旗を背に平和友好条約の批准書を交換、福田赳夫首相とトウ小平が見守った。
 中国指導部が敵視していた佐藤栄作首相が退陣した72年、田中角栄が「日中」をテコに自民党総裁選挙で福田を破って首相に就任、実際に国交正常化を実現させた。その福田が首相として、中国との関係を強固にする基本条約を結んだのであるから、皮肉なめぐり合わせと言える。
 
■日中戦争は「不幸な挿話」
 
 この日の午後、福田とトウ小平は首相官邸で会談した。ポスト毛沢東(76年死去)の時代になってから、初の日中トップ会談である。
 もともと親台湾派とみられていた福田はそれまで、「三角大福中」といわれた日本政界の実力者たちの中で中国指導者との接触が最も少なく、トウとは初対面だった。
 「『パンダ』というたばこは、いかがですか」-。日本外務省の記録によると、会談の冒頭で愛煙家のトウはこう言って、「熊猫」と書かれたたばこを福田に渡した。中国語で「謝謝(シエシエ)」と福田。トウは園田や安倍晋太郎官房長官にも、たばこを勧めた。
 会談で両首脳がまず触れたのは日中関係の歴史だった。
 福田「日中両国は2000年にわたる友好協力の歴史を持っているが、今世紀に至り、不幸な事件が続き、深く遺憾なことであったと反省している」
 トウ「われわれは終始一貫して、中日両国間には2000年にわたる交流の歴史があると言ってきた。この間の不幸な何十年かは、歴史の流れの中の不幸な挿話にすぎない」
 ここで言う日中間の「不幸」とは日本の対中侵略にほかならないが、会談で「侵略」や「謝罪」といった言葉をめぐるやり取りはなかった。日本の歴史教科書が日中間で政治問題化するのは、これから4年後のことだ。
 
■「貴国だけが本当にやった」
 
 トウ小平はむしろ、戦後日本の防衛政策を絶賛した。
「(第2次大戦終結から)この34年間を振り返ると、本当の緊張緩和は一時として見られなかったし、正真正銘の軍備縮小も見られなかった。ただ、軍縮については、貴国だけがそれを本当にやった。しかし、貴国も自分の手中に自衛力を持たねばならなかった」
 日本が大戦で敗北して陸海軍を解体され、戦後はかつてのような大規模な軍隊を持たなかったことを「軍縮」と言えるのかどうかは疑問だが、トウはこれを高く評価した。その一方で、日本にも「自衛力」が必要であることを明確に認めた。
 中国は当時、華僑の国外追放など反中国的な姿勢を強めるベトナムとの関係が急速に悪化しており、同国の背後にいるソ連への警戒感を一層強めていた。中国にとって、日本の「自衛力」は対ソ戦略上、必要不可欠な要素になっていた。
 
 (注)引用した文書は日本外務省中国課がまとめた「福田総理・トウ副総理会談記録(第一回目)」(1978年10月23日作成、無期限極秘扱い)。
 会談出席者の発言については、一部の固有名詞の特殊な表記(例えば、「ヴィエトナム」⇒「ベトナム」)や漢字、句読点などを、文意に影響しない範囲で一般的な表現に改めた。敬称は略した。(2005年8月15日)

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