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日中首脳外交~外務省の秘密指定解除文書を読む=「戦争終結」で修正案─田中訪中(5)(2002年8月)

 田中角栄首相訪中2日目の1972年9月26日午後は、田中と周恩来首相の第2回首脳会談に続いて、大平正芳、姫鵬飛の両外相が2回目の会談を行った。焦点はやはり、「日中戦争がいつ終わったのか」という問題である。

■原案を焼き直し

 大平はこの会談で、共同声明に記す戦争状態終結の表現について新たな案を提示した。
「第1案は『中華人民共和国は、中国と日本国との間の戦争状態の終了をここに宣言する』というものであり、主語が中華人民共和国になっている点が特徴的である。このように、戦勝国だけが一方的に戦争状態の終了を宣言した例は、過去に連合国とドイツとの戦争状態終了として採用されたことがある。
 第2案は『日本国政府および中華人民共和国政府は、日本国と中国との間に、今後全面的な平和関係が存在することをここに宣言する』というものであり、いつ戦争が終了したかを明確にしないものである。この問題については双方に立場の違いがあるので、将来に向かって前向きな態度で処理することを考えたものである」
 大平は「中国は戦争状態の終了を宣言する」「日中は今後全面的な平和関係が存在することを宣言する」と二つの修正案を出したが、日中戦争は日華(日台)平和条約で法的に終結したとする前提は変わっていない。
 第1案は、日本側にとっては戦争はもう終わっているので、中国側が戦争終結にこだわるのであれば、一方的に終結を宣言すればよいとの考えに基づく。
 第2案は双方が宣言するものだが、宣言するのは「全面的な平和関係」の存在である。その要点は、大平自身が言ったように「いつ戦争が終了したかを明確にしない」ことにある。原案の焼き直しにすぎない。

■「何とか良い案を」

 当然ながら、姫鵬飛はこのいずれの提案にも同意しなかった。
 姫鵬飛「戦争状態の終了については、日本側の提示された案に基づいて再検討してみる。ただ、『本声明が公表される日に』戦争状態が終了する旨の時期の問題は重要である。つまり、この時から、本文の戦争状態以外の他の部分についても効力が発生することになる。例えば、日本が中華人民共和国を中国の唯一合法政府と認めるのも、この日からであろう」「戦争状態の終了の問題について、本日、二つの日本側案をいただいたが、中国側としては、時期の問題を極めて重視している。しかし、何とかして解決しなければならない問題である」
 大平「日本側としては、何とか国内的にデフェンドできる線でまとめたいと考えている」
 姫鵬飛「この点については、周総理もはっきり(日本側の困難は分かっていると)言明しているので、何とか良い案を考えたい」
 姫鵬飛はここでも、中国側の原則論を強調したが、強い拒絶はしていない。むしろ、「何とかして解決しなければならない問題である」「何とか良い案を考えたい」と、親身になって相談に乗っているといった感じだ。

■車中でも外相会談

 田中と大平は訪中3日目の27日、朝から北京郊外の万里の長城(八達嶺)と明の十三陵を参観した。しかし、北京滞在の時間は限られていたので、大平はその往復の車中でも、同乗した姫鵬飛外相と非公式に会談し、共同声明の内容について協議した。
 日本外務省の記録はその会談でのやり取りを次のように記述している。
【「軍国主義」についての表現】
 大平「今次田中総理の訪中は、日本国民全体を代表して、過去に対する反省の意を表明するものである。したがって、日本が全体として戦争を反省しているので、この意味での表現方法をとりたい」
 姫鵬飛「中国は日本の一部の軍国主義勢力と、大勢である一般の日本国民を区別して考えており、中国の考えはむしろ、日本に好意的である」
【戦争終結問題】
 姫鵬飛「戦争状態終結の時期として(日本側の第2案に)「今後」との表現があるが、この意味が不明である。日本側のお考えを聞きたい」
 大平「それとも『共同声明発表の日』との表現をとるか。帰ってから、よく考えてみよう」
 姫鵬飛「この点は、われわれ中国側も一番頭を痛めている点である」
【「反省」など言葉の問題】
 姫鵬飛「『反省』と『面倒』との表現方法は軽過ぎはしないか。(原注=大平と姫鵬飛との間で、「反省」のニュアンスについて双方で意見を述べ合う)
【共同声明発表の時期】
 姫鵬飛「共同声明を今晩、明朝中にも発表できるように努力したい。ニクソン(米大統領)の時のように(交渉が長引いて)上海で発表するようなことは避けたい」
 大平「お考えには賛成である」
 姫鵬飛は、27日夜か28日朝にも共同声明を発表できるようにしたいと述べており、日本側よりも中国の方があせっている印象を与える。この年2月にニクソンが訪中した時、共同コミュニケをめぐり土壇場でドタバタ劇があったことに、中国側はこりていたようだ。
 田中一行は29日には北京を離れ、上海へ赴くことになっていた。27日、田中や大平が万里の長城から北京市内に戻ったのは昼すぎなので、上海での"延長戦"を避けるためには、あと1日半の時間しか残っていなかった。

(注)引用した文書は、日本外務省の「大平外務大臣・姫鵬飛外交部長会談(要録)(1972年9月26日~27日)―日中国交正常化交渉記録―」(交渉当時の記録を78年5月、外務省中国課が整理したもの。当時は「無期限極秘」扱い)(2002年8月6日)

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