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習近平氏はタクシーに乗ったのか─香港紙「特ダネ」で中国メディア大混乱(2013年4月)

 香港の代表的な中国系日刊紙である大公報が4月18日、習近平国家主席(共産党総書記)が主席就任前の3月1日にお忍びでタクシーに乗り、運転手と言葉を交わしていたという「特ダネ」を報じ、国営通信社の新華社を含む多くの本土メディアがこれを紹介した。ところが、大公報は同日夕、インターネットを通じて声明を出し、報道を撤回。新華社も関連報道を取り消すなど本土メディアは大混乱となった。報道の真偽はいまだに不明だが、習近平体制下の宣伝部門がメディアを十分統制できていない実態を露呈した形になった。
 
■執筆者は北京支社長
 
 騒ぎの発端は「習総書記が私の車に乗った」と題する記事。大公報は第6面すべてを使い、北京のタクシー運転手、郭立新さんの証言を伝えた。「習総書記」となっているのは、習氏が総書記に加え、国家主席を兼ねたのは3月14日だからである。
 証言によると、郭さんは3月1日午後7時すぎ、北京市中心部の鼓楼西大街付近で二人の男性を乗せ、釣魚台大酒店(ホテル)まで運んだ。鼓楼西大街は党・政府指導者のオフィスがある中南海に隣接する北海公園の北方に位置する。釣魚台大酒店は党・政府指導者が外国要人との会談などで使う釣魚台迎賓館の隣にある。
 「時事評論員」のあだ名があるという郭さんは乗客の一人と北京の大気汚染問題などについて談議。途中で「どこかで見たことがある顔だ」と思い、「習総書記に似ていると言われませんか」と聴いたところ、客は「私だと分かった運転手はあなたが初めてです」と答えた。
 郭さんがお忍びで民情を視察する庶民派スタイルをほめると、客は「みんな、もともと平等です。私も草の根出身です」と話した。客は郭さんの求めに応じ、ある領収書の裏に「一帆風順」(順風満帆)と書いたという。同紙はその写真も掲載した。
 習氏は昨年11月の総書記就任以来、党・政府内で質素倹約を呼び掛けるなど庶民派路線を打ち出しており、大公報はそれに沿って、習主席の庶民性と民情に対する関心の高さをアピールしようとしたとみられる。
 記事を書いたのは大公報北京支社の支社長と副編集長。支社長は新華社出身。副編集長は本社副主筆を兼ね、中国政治のコラムを執筆している。
 
■新華社も「確認」報道
 
 大公報の報道は中国本土メディアの注目を集め、多くの本土ニュースサイトが引用した。新華社はミニブログ「微博」で、北京市交通部門が「確かにそういうことがあった」と確認したと報じ、アモイ晩報(福建省)、合肥晩報(安徽省)などの夕刊各紙は「総書記、タクシーで民生について問う」などと大々的に伝えた。別の中国系香港紙・文匯報もネット上で報道した。
 ところが、新華社はその日の夕方、ネット上で「大公報の記事は虚偽の報道だった」とする記事を配信し、大公報自身もその直後、「虚偽の情報だった」として報道を撤回し、謝罪する声明を出した。
 大公報のように党中央宣伝部の指導下にある香港メディアが最高指導者の動静に関するニュースをでっち上げたとすれば、大変な事態だ。本土のニュースサイトは次々と関連報道を削除した。
 香港の中国系メディア関係者によると、大公報と文匯報は同日夜、いずれも本社で緊急会議を開き、対応を協議した。関係者は「中央宣伝部が撤回を指示したようだ」と述べた。
 ネット上ではその後、習主席にそっくりな男性の写真が出回り、「郭さんが会ったのはこの男性だった」との説が流れた。しかし、この男性の娘と称する浙江省の女性はネット上で「これは私の父ですが、父は今年、他の省・市には行っていません」と述べている。
 
■大公報、おとがめなし?
 
 中国系香港メディアの間では当初、問題の記事の信頼性について懐疑的な見方が多かった。だが、記事が虚偽だったとすると、以下のように多くの疑問が生じる。
 北京の政情や宣伝部門の内情を熟知する中国系香港紙のベテラン記者や編集幹部がなぜ、最高指導者に関する「特ダネ」を軽々しく執筆し、紙面に掲載したのか。大公報や文匯報の上層部は本土メディアからの「天下り」である。関係者の話では、両紙は原則として中央宣伝部の事前検閲を受けていないが、どのようなニュースを載せてよいのか、よくないのか、指導者に関する「特ダネ」をどう処理すべきかを知らないはずはない。
 なぜ北京市交通部門の当局者は大公報の報道を「確認」し、新華社がこれを報じたのか。最高指導者の情報について、でたらめなことを言う当局者がいるだろうか。中国最大の公式報道機関である新華社がそのようなでたらめを報じるだろうか。ネット報道なら、いいかげんでよいというわけでもあるまい。
 最高指導者に関するニュースでっち上げは「重罪」のはずだが、なぜ大公報の当事者や責任者はおとがめなしなのか。ほとぼりが冷めてから処分するのだろうか。
 
■香港親中派長老の見解
 
 今回の件について、香港親中派長老の呉康民氏は4月25日付の香港紙・東方日報に以下のような文章(要旨)を寄せた。呉氏はかつて中国全国人民代表大会(全人代、国会に相当)香港代表団の団長を務め、2011年に温家宝首相(当時)と単独で会見するほど中央との関係が深い。
「習近平が民情を知るためタクシーに乗ったというニュースの7、8割は事実だと思う。習は確かにお忍びでタクシーに乗ったということではないだろうか。一緒に乗ったのは警護要員だ。タクシーの後ろには警護の車両が付いていたのかもしれない。習もしくは中央の関係部門は、お忍びの話を言いふらされて、今後の外出活動に影響することを嫌ったのだろう」
 呉氏の文章を読んだ中国系香港メディアの関係者は「真相はだいたい、こんなところではないか」と話した。
 謎はまだ残るが、いずれもせよ、党中央書記局の劉雲山常務書記(幹事長に相当、党政治局常務委員)率いる宣伝部門としては、1月の南方週末事件に続く失態だ。この事件では、「憲政」実現を主張する中国広東省の有力週刊紙・南方週末新年号の記事が省党委宣伝部の指示で改ざんされて記者たちの猛反発を買い、一部の本土メディアが一時、これに同調した。劉書記は前中央宣伝部長で宣伝工作のベテランなのに、宣伝部門が本土メディアや中国系香港メディアをうまくコントロールできていないのは不可思議なことである。(2013年4月29日)
 
 
 

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