日中首脳外交~外務省の秘密指定解除文書を読む=日中国交正常化成る─田中訪中(9)(2002年9月)
1972年9月27日夜から28日未明にかけての日中外相会談で、共同声明の内容をめぐる交渉が事実上妥結したことを受け、田中角栄首相と周恩来首相は同日午後、田中訪中で最後(4回目)の首脳会談を行った。日本外務省が情報公開法に基づいて開示した外交文書から、日本側がこの会談で読み上げた台湾問題処理に関する文書の全文が初めて明らかになった。
■台湾問題で詰めの協議
「きょうは台湾問題を話し合いたい」-。会談の冒頭、周恩来はこう切り出した。「わたしは(第1次国共合作初期の)1924年に蒋介石(後の台湾総統)と知り合った。国民党とは2回合作した。また、2回戦った。私は50歳以上の国民党・政府の要人はよく知っている。きょうは秘密会談であるから、何でも言ってほしい」と周が述べたのに対し、会談に同席した大平正芳外相はまず、「いよいよ、あすから日台間の外交関係は解消される」と言明し、「日中国交正常化後の日台関係」と題する文書を読み上げた。
同文書の全文(すべて原文のまま)は以下の通り。日本外務省の記録には、大平がこの文書を「ゆっくりと読み上げ、周総理以下中国側は極めて真剣に聞いた」と注釈がある。
「日中国交正常化後の日台関係」
1 日中国交正常化の結果、現に台湾を支配している政府と我が国との外交関係は解消される。このことは当然のことではあるが明確にしておきたい。しかしながら、昨年、日台貿易が往復12億ドルを越えたこと、我が国から台湾へ約18万人、台湾から我が国へ約5万人の人々が往来したことなどにみられるとおり、日本政府としては、日台間に多方面にわたる交流が現に行われているという事実、また日本国民の間には台湾に対する同情があるという事実を無視することはできない。
2 日本政府としては、今後とも「二つの中国」の立場はとらず、「台湾独立運動」を支援する考えは全くないことはもとより、台湾に対し何等の野心ももっていない。この点については、日本政府を信頼してほしい。しかしながら、日中国交正常化後といえども、我が国と台湾との関係においては、次の諸問題が当分の間残ることが予想される。
(1)政府は在台湾邦人(現在在留邦人3900及び多数の日本人旅行者)の生命・財産の保護に努力しなければならない。
(2)我が国は自由民主体制をとっており、台湾と我が国との人の往来や貿易はじめ各種の民間交流については、政府としては、これが正常な日中関係をそこねない範囲内において行われるかぎり、これを抑圧できない。
(3)政府は民間レベルでの日台間の経済交流も(2)と同様容認せざるをえない。
(4)日台間の人の往来や貿易が続く限り、航空機や船舶の往来も(2)(3)と同様、これを認めざるをえない。
3 日中国交正常化後、台湾に在る我が方の大使館・総領事館はもちろん公的資格を失うが、前記の諸問題を処理するため、しばらくの間、その残務処理に必要な範囲内で継続せざるを得ない。またある一定期間の後、大使館・総領事館がすべて撤去された後に、何等かの形で民間レベルの事務所、コンタクト・ポイントを相互に設置する必要が生ずると考える。このことについて中国側の御理解を得たい。
4 なお、政府としては、日中国交正常化が実現した後の日台関係については、国会や新聞記者などに対し、上記の趣旨で、説明せざるをえないので、あらかじめ御了承願いたい。
■日本版"三つのノー"
外務省の会談記録には、橋本恕中国課長による注として「周総理以下中国側は、大平大臣あるいは田中総理が日台関係につき、何か難しいことを言い出すのではないかという顔をして、難しい顔で大平発言を聞いていた。しかし、大平発言が終ると、一様に安心したという表情となり、大平発言につき正面から認めるとは言わなかったが、分かっているから心配するなという表情で、うなずいた」とある。
共同声明に関する交渉がせっかくまとまったのに、ここで日本側が何らかの形で台湾と公的関係を維持したいといったような話を持ち出せば、また面倒なことになる、と中国側は思ったようだが、それは杞憂だった。
日本政府はこの文書で、(1)「二つの中国」の立場は取らない(2)台湾独立を支持しない(3)台湾に「野心」を持たない-という"三つのノー"を表明して、中国側を安心させた。
「日本側では、台湾との間で『覚書事務所』のようなものを考えているのか。台湾が設置を承知するであろうか。日本側から主導的に、先に台湾に『事務所』を出した方が良いのではないか」-。意外なことに、大平の説明を聞き終えた周恩来は、日本が「主導的に」非公式の出先機関を台湾につくることを提案した。これが現在、台北と高雄に置かれている財団法人「交流協会」の事務所である。
■党議違反問題
周恩来「あす(29日)大平大臣が(共同声明に)調印後、記者会見で、日台外交関係が切れることを声明されると聞いたが、大いに歓迎する。田中・大平両首脳の信義に感謝する。中国も言ったことは必ず実行する。『言えば必ず信じ、行えば必ず果す』ということわざが中国にある。今後は日中間に新しい関係を樹立していきたい」
田中「われわれは異常な決心を固めて訪中した。あすの大平大臣の記者会見で、台湾問題は明確にする。責任を果たすためには、困難に打ち勝ち、実行していくという考えを堅持していきたい。日本の政治の責任者として、万全の配慮をし、事後処置についても最善の努力をしなければならぬことをご理解願いたい。あすの大平大臣の記者会見で、自民党内には党議違反の問題が起こってくる。しかし、私は総理であると同時に総裁であるから、結論をつけたいと考えている」
田中の言う党議とは、対中国交正常化の後も、台湾と「従来の関係」を維持するというものだ。日中と日台の国交が二者択一であることは自明だったが、党内の親台湾派は、この「従来の関係」は外交関係を意味すると主張していたので、大平が日台断交を発表すれば、「党議違反」と非難される可能性が大きかった。
■台湾と再び戦争状態に?
台湾当局の反応にも、若干の不安があった。
田中「台湾に対する日本側の現実的な措置については、事前に中国側にお知らせする。しかし、台湾は日中国交正常化後は戦争状態に戻ると言っているから、日本の総理としては困っている」
周「今回の共同声明につき、中国側で『戦争状態』の問題につき、表現を考えたのは、その点に配慮したからである。米国に対し、われわれも通報した」
大平「日台問題に関し、後でいろいろ問題が起こったら、中国側に連絡する」
日本は日華(日台)平和条約で、「中華民国」(台湾の蒋介石政権)を相手に日中戦争を終結させた、日中国交正常化と同時に、日華条約は破棄される。日本政府は、相手にする政権が変わっただけで、戦争が終結している状態に変わりはないという立場だが、台湾側はそうはいかない。法的には、同条約破棄により、日本との戦争終結は撤回され、戦争状態に戻ることになる。
日本側には、台湾における日本の権益に対し、蒋介石政権が何らかの報復措置を取るのではないかとの懸念があった。
■蒋介石は「スケール大きい」
周恩来はここで、蒋介石政権の主要人物に対する評価を披露した。「蒋介石は重病であるが、何応欽、張群の二人は扱いやすい。この二人は風向きを見て、方向を変えて行く人だ。谷正綱も口先だけの人で、バックに力はない。
張群は四川、何応欽と谷正綱は貴州の人だ。しかし、蒋父子(蒋介石と蒋経国)は彼らをあまり信用していない。なぜなら、彼らに権力を奪われるのではないかと心配しているからだ。沈昌煥は極端に走る人ではない。
主な問題は経国である。経国は小細工をやる人で、蒋介石の方がスケールは大きい。蒋介石は軍隊を誰にも渡さない。蒋介石が米国にも日本にも行かない理由は、ゴ・ディン・ディエム(暗殺された南ベトナム大統領)や李承晩(失脚した韓国大統領)の二の舞をしないようにしているからだ。
経国の弱点は、黄甫軍官学校(20年代にあった国民党の士官学校)出身者との関係が良くないことだ。彭孟緝駐日大使も黄甫軍官学校出身である。彭は台湾には帰りたくないと思っている。経国は陳大慶を除いては、黄甫軍官学校出身者を排斥している。
厳家淦が財政経済をあずかっている。台湾がうまくやっていくためには、二つの面で外国に頼らざるをえない。一つは軍事援助で、これは米国に頼らざるをえない。いま一つは貿易の面であり、これは厳家淦がやっているが、貿易なくしては台湾経済がやっていけないし、借款を受けねば、50万の軍隊を維持できない。また、大陸から渡来した200万~300万の人々と台湾人(外省人と本省人)との関係の問題もある。
台湾には、このような弱点がある。したがって、台湾にいる連中は、小さな波乱は起こすが、大きなことはできない。これを小細工と言う」
■蒋経国は見下す
田中訪中直前の9月中旬、自民党の椎名悦三郎副総裁が首相特使として訪台した際、蒋介石総統は「風邪で休養中」と称して会わず、副総統の厳家淦が応対したが、これはもちろん、不快感を示すための政治的な仮病であり、蒋介石は「重病」ではなかった。
周恩来の蒋介石に対する評価は高い。
第1次国共合作の下、蒋が校長だった黄甫軍官学校で周は政治部主任を務め、上司と部下の関係にあった。第2次国共合作につながった36年の西安事件で、張学良らに監禁された蒋に対し、共産党を代表して抗日のための内戦停止を説いたのも周だった。
国民党と共産党は共に蒋介石の指導下で抗日戦争を戦い、勝利を収めた。周は指導者としての蒋を熟知していた。
これと比べると、蒋介石の息子である蒋経国(当時の行政院長=首相。後の総統)の評価は著しく低い。「跡取りがこの程度の人物では、国民党政権の前途は暗い」と周恩来はみていたようだ。
しかし、実際には、蒋経国は75年に父が死去した後、台湾の経済を一層発展させ、晩年には一党支配を緩和して、民主化の基礎をつくった。88年に死去した蒋経国のこうした遺産を引き継ぎ、本省人として初めて総統となった李登輝は、それまで外省人優位だった政治の"台湾化"と民主化を進めた。李は自らの訪米や中台「二国論」で「大きな波乱」を巻き起こし、中国を狼狽させた。
■「政治力試される」
会談の最後には、次のようなやり取りがあった。
田中「台湾問題につき、問題は日本国内、特に自民党内に問題がある。私は訪中前、佐藤(栄作)前総理に決意を伝えた。彼は十分理解してくれた。台湾との関係については、わたしと大平との政治力が試される問題である。しかし、日中の長い歴史のためには、その程度の困難は覚悟している」
周「何か物事をやろうとすれば、必ず反対する者が現われる」
田中「わたしが中国との国交正常化を決意した最大の理由は、中国(共産党)が世界を全部共産党にしようなどとは考えておらず、大中国統一の理想を持っている党であって、国際共産主義の理念の下に行動しているのではないと考えたからである」
周「まず自分の国のことを立派にやっていくことが大事で、他国のことは他国自身が自分でやるべきだ。今後は日中関係をできるだけ緊密なものにしたい。まず、飛行機の相互乗り入れからやりたい」
田中「結構である」
「わたしと大平との政治力が試される」という田中の発言からは、彼の気負いが感じられる。自民党総裁選挙で福田赳夫を破って、総理・総裁となった当時の田中の政治力は強大だった。田中と大平が帰国直後、訪中の結果を報告した党の両院議員総会では、藤尾正行、渡辺美智雄、浜田幸一、中川一郎らが日台断交を「党議無視」と批判し、怒号が飛び交う事態となったが、結局、拍手多数で報告は了承された。
■日華条約「終了」
最後の首脳会談が行われた28日、中国共産党中央は政治局会議で日中共同声明案を承認。翌29日午前10時20分から人民大会堂で共同声明の調印式が行われ、田中、大平、周恩来、姫鵬飛の4人が声明に調印し、これにより、日中の国交は正常化された。
その後、大平が記者会見し、「日華平和条約は存続の意義を失い、終了したものと認められる、というのが日本政府の見解である」と述べ、台湾との断交を宣言した。
台湾当局はこの日深夜になって、ようやく対日断交の外務省声明を出した。しかし、声明は「田中政府の誤った政策は日本国民の蒋総統の恩徳への感謝の気持ちに何の影響もなく、わが政府がすべての日本の反共民衆と友誼を永らく継続していくことを固く信じる」として、断交後も民間交流を続ける方針を明らかにした。
■またも「迷惑」発言
なお、歴史認識問題について、30日に上海から帰国して記者会見した田中はこう語った。「両国には長い歴史がある。日本が戦争したということで大変迷惑を掛けたが、中国が日本を攻めてきたことはないかと研究してみたら、実際にあつた。3万人くらいが南シナ海から押し渡ってきた。しかし、台風に遭って(笑)日本に至らず、本土に帰ったのは400~500人であった、とこう書物は教えている(笑)。また、フビライの元寇というのがあった。日中間にはいろいろなことがあった。過去というよりも、みんな新しいスタートに一点を絞ろう、ということだった」
ここでも「迷惑」という言葉を使っており、田中がその実、北京での「迷惑」発言を反省していなかったことが分かる。さらに、13世紀の元寇を例に挙げて、中国が過去に日本を侵略した事実があることを強調したのは「侵略はお互い様」との趣旨なのであろうが、今ならば、中国側の猛烈な反発を招きそうな発言である。
■真の意義は「対米」に
また、台湾問題について、共同声明には「中華人民共和国政府は、台湾が中華人民共和国の領土の不可分の一部であることを重ねて表明する。日本国政府は、この中華人民共和国政府の立場を十分理解し、尊重し、ポツダム宣言第8項に基づく立場を堅持する」と記されたが、大平は帰国後、月刊誌とのインタビューで「日本は…台湾は中華人民共和国の領土であるとは言っていなんだよ。中国に帰属すべき領土があるというだけです。今までとちっとも変わらない」と“解説”した。
ニクソン訪中時の上海コミュニケの記述は「台湾海峡の両側のすべての中国人が、中国は一つであり、台湾は中国の一部分であると考えていることを米国は認識(acknowledge)する」。日本と同様、台湾が中国の一部であることを直接は認めていない。
台湾問題に関する日米のこうした“あいまい”な立場は変わっておらず、中国は今も、このあいまいさを少しでも小さくすることを外交上の重要課題としている。
大平は同じインタビューで、当時まだ中国と国交を樹立していなかった米国は、日本が先を急ぎすぎると考えたのではないかとの問いに対し、「そんな遠慮をすることはないよ。米国の鼻息をうかがう必要は一つもない。もうそこまで日本は来ているんです」と自信を持って答えている。
大平や田中は、高度成長で大きく拡大した経済力を背景に、日本は米国からある程度独立した外交を進められるようになったと判断していたとみられる。日本側にとって、日中国交正常化の本質的な意義は「対ソ」よりも「対米」にあったのかもしれない。
(注)引用した文書は日本外務省の「田中総理・周恩来総理会談記録(1972年9月25日~28日)-日中国交正常化交渉記録-」(交渉当時の記録を88年9月、外務省中国課が整理したもの。当時は「無期限極秘」扱い)(2002年9月30日)
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