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日中首脳外交~外務省の秘密指定解除文書を読む=ソ連の核兵器使用を“予言”-トウ小平来日(3)(2005年9月)

 「ソ連は核兵器をいつか使う気になる」-。1978年10月に来日した中国のトウ小平副首相は福田赳夫首相との会談で、ソ連に対する警戒感をあらわにした。日中関係以外では、この会談の主題はソ連の脅威だった。

■世界中が平和祈願、「ソ連は別」

 10月23日の会談で、トウ小平は戦後日本の「軍縮」を絶賛した上で、「二つの超大国は毎日毎日、『軍縮』や『緊張緩和』を唱えながら、他方、緊張を激化させ、軍備を拡張し、戦争準備に拍車を掛けている」と米ソ両国を非難した。
 もっとも、トウは「どのように見ても、二つの超大国は毎日毎日、軍拡を行っている。米国のこの態度は衆目の見るところである。なおさら注意を要するのは、もう一つの超大国であるソ連が軍拡に力を入れ、戦争準備をしていることである」と続けており、重点は対ソ批判にあった。
 トウは米ソ間の軍縮交渉を全く評価していなかった。
 米英ソが中心となった部分的核実験禁止条約(63年)について、福田に「ソ連はこの条約を利用し、非常な勢いで米国に追い付こうとした」と語った。
 72年の戦略兵器制限条約(SALTI)に関しても「結果的には、米ソは引き続き軍拡を競い合うことになった。ソ連は特にそれを十分利用した」と指摘。米ソは当時、SALTIIの交渉を進めていたが、トウは「また軍拡競争になるものと思う」との見方を示した。
 トウの発言はどんどんエスカレートする。
「ソ連は一生懸命、核兵器を開発している以上、それをいつか使う気になる」
「中国、日本および世界の国々はすべて平和を願っている。しかし、ソ連政府は別である」
「気狂いがいつの日に気狂いになるかは予想できない。したがって、それに対して常に準備しておく必要がある」
 翌24日の日本各紙は、トウが福田との会談でソ連の軍備増強を非難したことを伝えた上で、「ソ連の反発が予想されるだけでなく、国内でも社会、共産両党、総評を中心とする革新陣営にとって新たな衝撃となることは必至だ」(毎日新聞)などと論評したが、実際には、トウの発言は日本で当時報じられたより、はるかに激烈で、ソ連を核戦争で世界平和を破壊する存在と決め付けていた。

■中越間の歴史認識問題

 23日の福田・トウ会談では、インドシナ問題も取り上げられた。
 ベトナム戦争で中国は同じ社会主義国の北ベトナム側を全面的に支援した。戦争中は外部に知られていなかったが、中国は単に北側へ物資を送っただけではなく、高射砲、工兵などの部隊を派遣して、事実上自ら参戦していた。
 トウ小平に言わせれば、中国は北ベトナムの対仏、対米戦争で「必要なものは、食べるものから着るもの、武器まで、すべて援助した。中国自身豊かでなく、困難を抱えながらも援助した」。
 トウによると、中国の対北ベトナム援助は「当時の価格で100億ドル、現在〔78年〕のドルの価値で換算すると、200億ドルを上回る」という。
「ベトナムは既に60年代から中国に対し友好的ではなかった。例えば、彼らの教科書の中でも、歴史的にベトナムは北から脅威を受けていたとして、暗に中国を非難した。このようなベトナムの態度は良くないとは思っていたが、引き続き援助を与えていた」
 トウはこうも指摘したが、現代の超大国に相当する存在だった中国の歴代王朝が近隣諸国にとって脅威となった時期のあることは歴史的な事実だ。
 島国の日本ですら、「元寇」があり、中国からの直接の軍事的脅威にさらされたことがあった。ベトナムなど中国と陸で接していた国々であれば、なおさらであり、トウのベトナム教科書批判は妥当とは言えない。

■越は「のぼせ上がっている」と警告

 中越間の“歴史認識問題”はともかく、78年当時の中国にとって、インドシナ問題で何より容認できなかったのは、ベトナムがソ連側に付いたことだった。
 逆にベトナム側からすれば、反ベトナム的なカンボジアのポル・ポト政権(75年成立)を中国が支援していることが許せなかったのだが、トウ小平は福田を前にして、ベトナムを次のようになじった。
「ベトナムがなぜソ連一辺倒になったかというと、それはベトナムがインドシナ連邦をつくりたいと考えているからである。インドシナ連邦をつくることが、ここ数年来のベトナムの念願であり、ラオスやカンボジアを統制しようとしている。その他の地域にも影響を及ぼそうとしている。ベトナムはソ連の挑発により、中国がインドシナ連邦実現の最大の障害であると吹き込まれている。ソ連はベトナムに影響を与え続け、このため、ベトナムは一歩一歩、ソ連に寝返っていった。それから、ベトナムは〔76年に〕南部を統一してから、少し頭がのぼせ上がっているということもある」
 会談記録によると、この問題では、トウが一方的に話しまくり、福田の方は会談の最後に「お話しをうかがい、大変参考になった」と述べただけだった。
 トウはベトナム非難の中で「ベトナムはカンボジアに侵攻しようとしている」と指摘し、実際にベトナム軍は79年1月、プノンペンを占領して、親中国のポル・ポト政権を打倒。中国は報復として、翌2月にベトナム北部に侵攻し、中越戦争が勃発することになる。

 (注)引用した文書は日本外務省中国課がまとめた「福田総理・トウ副総理会談記録(第一回目)」(1978年10月23日作成、無期限極秘扱い)。〔〕は筆者による注。敬称は略した。(2005年9月20日)

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