人と世界を信じられるようになりたい。
作り手が意図していないところに、人は心惹かれることが多いのではないかと思う。
僕が学生だった頃は、素人が文章や音声、動画などを発信するなんてあまり一般的じゃなかった。手軽なものとしてあったのは、せいぜいmixiの日記くらい。それもバズが起こるような影響力はあまりなく、どちらかというと内輪でやり取りをするのが主だったように思う。
今は、当時より誰でも手軽に発信ができるようになった。ちょっとした移動時間にTwitterに投稿したり、散歩中に音声を録ってそのままラジオトークに配信なんてことも珍しくない。
プレイヤーと観客の境目がなくなったことで、発信のスキルも全般的に高くなっているように感じる。
発信する日常にみんな慣れてきたのだ。
そうしていつからか、snsには綺麗に整備されたいい話が溢れるようになった。
最近、感動することが多い。
でもそれはけっして「綺麗に整備されたいい話」に対してではない。最後に「結局なんの話?」と自分で突っ込んで締めているようなブログだったり、話がまとまらなくて、制限時間を経過してるのに半分しか話せてないプレゼンだったり。
どれも半熟のまんま表に出てきてしまったようなものばかりだ。
そこには、その人の人間性や現在進行形の感情がこびりついている。当人はそこを伝えたい訳ではないのだろうけど、僕が最近心動かされていることの多くがそういった類のものだ。
僕はまず最初に感情的に物事を認知するので、そこに感情がこびりついていればいるほど、共鳴するのかもしれない。
そう思っているにもかかわらず、自分は「綺麗に整備されたいい話」をせっせと作ろうとしている。
それはなぜか。
一つは「素敵な文章をお書きですね。」と言われたい自意識だ。出すからには読まれたい。読まれるからには評価されたい。という思いが、半熟で納品なんてできないという気持ちを醸成している。
当の自分は半熟を好んでいるにも関わらず。
それだけではない。
根深いのはおそらくもう一つの方。
それは「自分の人間性や感情を好きになってくれる人なんていないだろう」というあきらめだ。
半熟のものを出した時点で、否応なしにこびりついてしまう己が人間性や感情。
ぼくの中にあるこんなもの、誰も見たくないし不快だろう。
好きになってくれなくてもいいから、せめて嫌いにはならないでほしい。
こう思っている臆病な自分が半熟状態の発信を怖がり、さらには人間関係においても深く人と繋がることを避ける精神を生んでいる。
大好きな映画監督の河瀬直美さんは、あるプレゼンをこう締めくくっていた。
「この世界は美しい。」
僕もそう思えるようになりたい。
世界とそこにいる人達を信じることができるようになりたい。
これを読んでいるってことは、投稿を最後まで読んでくれたってことだね。嬉しい!大好き!