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自意識にまみれた自分が敵を作り出していたんだ。

あかの他人が敵に見えてしまうときがある。

ここでいうあかの他人とは、まさしく見ず知らずの人のことだ。
自分に悪意があるのではないか。危害を加えようとしているのではないか。
もちろんそんな筈がない。他人は自分に悪意があるどころか、存在すら認識してないだろう。判ってはいるがそのように感じてしまう。

朝会社に向かっていると、多くの通行人という名のあかの他人とすれ違う。
敵ばっかりだ。
この人たちが全員知り合いならいいのに。
通行人が全員知り合いなら今日1日ご機嫌でいられるのに。

また僕は「所属」の意識がとても薄い。
だから、同じ会社・同じ部署・同級生・同じコミュニティのメンバーという括りで「ひとたち」を愛することができない。ひとたちになってしまった時点で通行人と一緒になってしまう。ひとたちは敵になりうる。
だから僕は人の集まりに参加するときはいつも、個と個のつながりを増やそうとする。個と個が広がっていかないと場が通行人の集団と同じになってしまうから。

昨日、参加しているコミュニティ「コルクラボ」の定例の集まりがあった。
今回は他のコミュニティとの合同開催なので、初対面の人がいつもより多い。僕はいつものように個と個を広げるべく動き回っていた。
個を広げる行為はとても楽しい。

定例会では必ず集合写真を撮る。
写真に集まるべく、参加者が一か所に固まる。
そこですぅーっと居心地の悪さが込みあげてくる。その居心地の悪さはあまりに唐突に訪れすぎて、気持ちの源はなんだろう、と内省する猶予を与えてくれない。気持ちをなかったことにしていったんその場をやり過ごす。
写真を撮り終わると懇親会が始まるので、居心地の悪さからは解放されてふたたび個を広げる楽しみに興じることができる。

あとで考えてみると、集合写真を撮るために集まる集団のことを、僕はたぶん通行人と認識しているのだと思う。集合写真は所属意識を形にしたものだから。

一体この謎の敵判定はなぜ起こるのだろう。

それは多分、自分に自信がないからだ。
みんなに受け入れてもらえないのではないかという恐れが、防御反応として敵を作り出しているんだと思う。だから「みんな」を諦めて、一人一人に受け入れてもらっていることを確認して回ってるんだ。

過剰な自意識が敵を作り出している。
当然、人はそれほど自分のことを意識していない。にもかかわらず勝手に注目の的に仕立て上げ、怯えている。でも、敵対し防御したところで受け入れられる訳でもない。普通に考えれば当たり前の話だ。

にもかかわらず怯えずにはいられないのは、それだけ僕が人を好きだからなんだと思う。好きだから突き放されるのが怖いんだ。

突き放されたくないから敵対するなんて本末転倒である。

大好きであるはずの人を敵対するのはもうやめよう。
身を守ったところで、僕は僕以上にはなれないのだから。

これを読んでいるってことは、投稿を最後まで読んでくれたってことだね。嬉しい!大好き!