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荒川遊園地

周辺の都民に馴染んでいた都電荒川線

少し前、といっても10年近く前のことだが、私は東京、荒川区の町屋というところに住んでいた。そのあと事情あって京都に移ったので、町の変貌が激しい東京のこともあって、今この町がどうなっているのかよく分からない。メトロの千代田線にあった町屋駅は東京駅へも15分程度と、都心へのアクセスもよく、また下町の風情を深く残していた町だったので、便利で生活のしやすいところだった。特に何があるという町ではないのだが、私には印象的な思い出があった。町屋には都電荒川線も走っていて、荒川線は都電最後の路線で、やがて消えていく路線だろうと思っていたら、都民の生活には便利で、しかもこの沿線に住んでいる人には不可欠な乗り物だった。それに最近の海外からの観光客の激増に伴って、改めて再評価されるような雰囲気があって、都電荒川線という時代を背負った名前だけではなく、「東京さくらトラム」という今風のニックネームも付けられて、東京の交通システムにも、路線近くに住んでいる都民の生活にも馴染んでいたように思う。

私の印象的な思い出とは、この荒川遊園地前駅の近くにある荒川遊園地だった。私が知っているのは、改修される以前の遊園地で、おそらく多少は変わっているだろうが、改修の案内ではほぼ同様のものができるように予定されていたように思う。荒川遊園地にはメリーゴーランドなどのあるのりもの広場やどうぶつ広場と呼ばれていた小さな動物園があった。正直それ以外は、子供のように遊んでいたわけではないのでほとんど記憶がない。

私がまず足を向けるのは、いつもどうぶつ広場

遊園地で私がいたのはほとんどどうぶつ広場だった。当時もミーアキャットやサル、クジャク、ポニー種の馬、牛など、いろんな動物がいたと思うのだが、個別にはなかなか思い出せない。というのも私が一番に気に入っていたのは、まだ幼い牛だった。牛が飼育されている檻はあるのだが、昼間は子供たちの手が届きそうなところで子牛と親しんでもらうためか、おそらく2畳か3畳ほどの柵で囲まれた小さなエリアに出して自由に遊ばせていた。子牛には名前が付けられていて、外に向けてひらがなで書かれた名札がかかっていた。都会では目の前で牛を見ることもほとんどないので、なぜか私は夢中でこの子牛を長い時間眺めていた。この遊園地は、都電荒川線で町屋からすぐだったので、よほど気に入ったのか、私は週に一度くらいの割合でこの子牛と顔を合わせていた。初めてどうぶつ広場に来てから一カ月ほどたったころ、子牛を見ていた私は、なぜか子牛が私のことを認識しているような気がして、子牛の方を見ながら、ふと名札に書かれていた子牛の名前を呼んでみた。すると子牛はゆっくりと体を回して、私のいるところまでやってきて、何が起こるのかと不安半ばで子牛を見ていると、子牛は私に向けてゆっくりと大きな舌を出した。そしてその舌をくるりと伸ばして、私の手に触れた。私はぴくっと本能的に手を引っ込めようとしたが、その前に子牛は舌を手のように自在に動かして、私の手を包むのだった。

それは驚き以外の何物でもなかったが、子牛は温かい舌で私の手を握り、親しみにあふれた眼差しを向けてくれた。私は荒川遊園地が改修のために休園するまで何度も遊園地を訪れた。その時は、まだ京都に移ることが決まっていたわけではなくて、可能性の一つとして認識していた程度だった。だから私としては、遊園地の改修がなったら、またあの子牛を訪ねようと漠然と考えていた。しかし、その後京都への引っ越しが決定的になり、現実的にはもはやあの子牛に会うことはなかった。しかし今も、ふと子牛のことを思い出すことがある。少なくともある期間、私と子牛の間には動物同士の確かなふれあいがあったことがこの手に感じるのだ。

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