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遠き門

東大といえば、加賀藩ゆかりの赤門

東京大の本郷キャンパスに、東京大学のシンボルとも言われる赤門がある。この赤門は、正しくは旧加賀屋敷御守殿門というもので、文政10年(1827)年に建立された。元加賀藩上屋敷の御住居表御門だったものであった。文政10年(1827)徳川第11代将軍家斉の第21女、溶姫は、加賀藩第13代藩主前田斉泰に輿入れをしたが、赤門はこの時溶姫を迎えるため建てられたものであった。それが明治時代になって、元加賀藩上屋敷の辺りに東京大学が設立されることになり、赤門も一緒に東京大学の一部になった。

ところでわが家は、明治時代になるまで加賀藩士だったもので、本来わが家と東京大学とはその程度の縁しかないのだが、父から聞いたところ、もう少し縁があったらしい。東京大学としては、元加賀藩上屋敷に東京大学を設立することになって、加賀藩に対して多少はその恩義に報いるべきだと考えたのかどうか、元加賀藩の重臣の子弟に関しては、東京大学に迎えられることになっていたという。ただし、重臣の子弟であれば誰でもということではなかったと思うが、わが家にはその規定らしきものは伝わっていない。とにかく、父の祖父、つまり私の曽祖父が若いときに、青雲の志をもって東京大学に入学したというのだ。ところがその人が、よほど出来が悪かったのか、どうしても学業についていけなくて、詳しい年齢やキャラクターなどは知らないが、東京大学をドロップアウトしたというのだ。

東京大学を逃げ出した曽祖父が、家運を傾かせた元凶と!

わが家の恥でもあるのにもかかわらず、私の父の兄弟や、その子、その孫の人々にまで伝わっているので、東京大学をドロップアウトしたという話はどうやら本当らしい。ただ、中にはその人が病弱であったという説と、遊び人であったという説があるので、実際の詳しいことは分かっていない。しかしともかく、親戚中の人からは東京大学をドロップアウトしたこの人のせいで、わが家の家運が大きく傾いたと言われている。本当のところはよく分からないが、加賀藩で相当な大きさの屋敷を構えていたのは事実で、明治になって国際万国博への出展を目指して地場の伝統産業の育成に向けて大きな事業を興したと聞くが、わが家の面々が華々しく活躍というのはなくて、一族の多くは金沢を離れて大阪にたどり着き、やがては役人や普通の勤め人になっている。また近年は関西圏から首都圏に移る人も多く、一族の関西系のカラーもずいぶん薄くなった。

子供のころから、曽祖父が東京大学から逃げ出したという話を聞かされていたので、赤門というのはトラウマになりそうな赤い鬼瓦を頂いた何か恐ろしい門のように思っていたが、写真を見れば特別に感動もなく、ただの江戸時代に建てられた風情の門だった。しかしそうであるなら、東京大学を逃げ出した人が、わが家の家運を傾けさせたとわが家系の人々が固く信じているということが不自然で、何かきっと特別な理由があると思うのだ。私が父や母から聞いたことに、若干私の想像を加えた話になるが、この曽祖父の兄弟や親戚には社会的活躍した人もそこそこ多く、わが系統の狭い範囲の人だけが鳴かず飛ばずの人ばかりだとすると、これは曽祖父一人の問題ではなく、この集団全体がやや不甲斐ない人たちの集団と考える方が妥当なように思うのだ。






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