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月下、ペルレイノ 前編

月の光がくも青白いのは、天が我々に見せる絶望だからか?
ならばこの水面は、絶望活劇の名を冠するキネマトグラフを投影するための銀幕スクリーンといった所であろうか。

キトカロスは、輝きとくすみをあざなえた銀髪をハローのように広げ、湖上を揺蕩たゆたっていた。そして、天上に御座おわします尊大なる絶望幻灯機を、薄目を開けながら、焦点が合うか合わないかといったところでぼうっと眺めているのである。
その双眸は、無量無辺なる大宇宙の闇と混沌ケイオスをスポイトで吸い取って滴下したように揺らめいていた。
キトカロスは閉瞼へいけんする。
今宵は凪であった。周囲には波風一つ立たず、視界に映るのは自身の瞼の裏側のみとなり、彼女は己の視覚・聴覚の一切を独り占めにしていた。加えて、湖面の浮力は彼女を重力の制約下からも解放せしめ、「私は何者の拘束支配をも受けぬ自由人である」と錯覚させた。
しかし、そのような姑息的な暗示も間もなく終了する。
キトカロスの脳裡のうりに去来したのは、或りし日の出来事。突如顕現した異邦人、侵攻を受ける祖国、虜獲される同胞と課された鉄の手錠であった。彼女は目元に皺を寄せながら忌々しき記憶のスペクタクル映像が流れ過ぎ去るのを耐え忍んだ。
……ペルレギアが侵略を受けてから幾許いくばくの時が経過したでしょうか。

「ペルレギア」は、雌性個体のみの半人半魚種「ティアラメンツ」で構成される惑星国家である。唯一君主を置かず、各部族の代表者による合議制の形式を取る小国であった。ところが去りし日、異邦人「レイノハート」の侵略攻撃を受け、降伏した。過般来、国名を「ペルレイノ」に改め、王を僭称する同人の独裁統治下に置かれているのである。

キトカロスは、その間に己と己が同胞の受けた虐待と迫害の数々を顧み、冷え切った心の深層で、静かに、然りとて赫奕かくやくと燃ゆる憤懣・激昂の情を自覚した。頭へ昇った血流は眼球に通う血管を充血させ、目の端を赤く、網の目のように浮き上がらせた。
……早く、一刻も早く、レイノハートを駆逐せねばなりません。手段を問うている暇などありません。ペルレギアを、ティアラメンツの尊厳を、その生き血を啜り尽くされる前に奪還せねば。
しかし、幾ら決意を固めたところで、レイノハートの単騎戦闘能力は傑出したものである。各個撃破・戦力分散せしめられた今のティアラメンツ達では、如何に戦力を掻き集めたところで最早烏合の衆であり、到底拮抗し得るものではない。
自然と早鐘を打っていた心臓が、平生の拍数レートを刻み出すのを待ってから、キトカロスは一呼吸をいた。

その時、湖面にキトカロスのものではない波紋が生じた。
「やぁ、我がろうたし涙滴――キトカロスよ。息災か?」
発せられた怜悧な声音は、さながら抜き身の白刃で脳天を貫いたかのように彼女の総身そうみを中枢から冷却せしめた。矢庭やにわに条件反射の作用する所により、撥条ばね仕掛けの如くバッと上体を起こすと、声の主をじっと見つめた。
異邦人、侵略者、独裁統治者――レイノハートである。
キトカロスは青紫色の唇を戦慄わななかせた。これより己が身に降りかかるであろう艱難辛苦を鋭敏に察知し、彼女の脳は動悸再開と全身筋緊張の自動命令を下知げじした。
「誠に心苦しい限りではあるが、貴殿の嘆きにより生ずる真珠を頂戴するため、御身を折檻しに参った」
レイノハートの言葉は、毒蛇の如くスルリと、彼女の胸の中までいとも容易く這入はいり込み、心臓にその牙を突き立て毒素トキシンを注入した。たちまち彼女の総身そうみは硬直した。内心に宿す抵抗意志とは裏腹に、それを優に超越する恐怖感情により肉体を屈服せしめられたという厳然たる事実を、キトカロスはまざまざと思い知ることとなった。
「先日、あれ程私の涙を蒐集して行かれたでしょう。まだ足らぬとでも?」
「無論である。あれしきの量では、我輩が完全無比なる究極種となるには遠く及ばぬのだ」
キトカロスをはじめティアラメンツの涙腺より分泌される涙は「真珠」そのものであり、その真珠を生体内に取り込んだ生物を不死化させる作用を有する。レイノハートの目的は他ならぬ「不死の追求」であった。そして、このペルレイノを謂わば「真珠養殖場」として壟断ろうだんし、人類未達の禁足地たる「不死」への到達を、一足飛びにて完遂してしまおうという目論見であった。

「時は有限である。キトカロスよ、儀を執り行う」
レイノハートの冷々然とした言動は、彼の唯我独尊的な精神性を反映しただけのものであり、その本質は放辟邪侈ほうへきじゃしな暴君に過ぎない。故に、元よりキトカロスの自由意思など顧慮する気はごうもないのである。
レイノハートがパチンと指一つ鳴らすと、キトカロスの直下よりブク……ブク……と無数の気泡がり上がり、アッという間に彼女を被膜加工コーティングめいて包囲した。
「何を……」
予期し得ぬ奇怪な事象を前に、キトカロスは反射的に動揺の声を漏らしたが、直ちにこれがレイノハートによる神妙不可思議なる幻術の一環であることを理解した。
恐るべきは、理解したところでどうすることもあたわぬレイノハートの幻術の強力無比さである。キトカロスの体表は気泡の被膜によりたちまち水から遮断され、浮力作用を喪失した。しかして、彼女の身体は一瞬にして水中へと「滑落」した。
キトカロスは術中より逃れようと藻掻いたものの、うに搔くための水から分離されているのだ。彼女は、その肉体に誇らしいまでの美しい尾鰭を備えているにも関わらず、己の領分たる水中に於いて自由を剥奪されてしまったのである。
湖底へ向けて対処不能な速度で水中を滑り落ちているキトカロスは、己の沈降深度と本来の湖の水深が合致しないことに気付いたが、それも全てレイノハートの奇術・幻術の類で了解が行った。
水深と意識深度が呼応するかの如く、肉体が湖面から遠ざかるにつれ、彼女の意識も急速に現実認識の顕在表層より遠ざかって行った。そしてついには、心身共に底無しの深淵へと沈降し切ったのである。


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