見出し画像

heavely house

ネタニヤフは休戦合意してもラファに侵攻するつもりらしい。マジで終わってる。政治家のエゴや駆け引きでひとが死ぬのは終わってる。そういったクソくだらないことで、やはりおれたち市民は犠牲になり得るのだ。

5月になんとなくなってしまった。正直3,4月に南北合意も破棄されて、総選挙もあった朝鮮半島でなにかしら起こるんじゃないかと身構えていたが、特になにもなく、素人目というものはこんなものなんだな、と感じさせられた。軍事偵察衛星打ち上げ後になにかあるのかもしれないし、またなにもないのかもしれない。緊張が解かれない限りずっと身構えることにまたなるんだろう。なにも起きていないのにこう身構えるのはほとんど狂気だ。

パソコンの前で求人をみてはポチポチ応募をおくって、その選考に落ちる日々。職業訓練校の支給金もいよいよ底をつきそうだ。ほとんど使ってないつもりだったが、ロングピース代にどんどん消えていっている。就職活動中のつなぎであることを許してくれるバイト、DJ、ネームはないけどリミキサーとか、言ってくれればなんでもやります。新しく精神疾患者向けの就労支援サービスも見つけたので、アポをとった。こんなにもギリギリなのに全然ギリギリに感じないのは、子供部屋暮らしの怠惰なADHDならではだと思う。

ポール・オースターが死んだ。直近で「最後の物たちの国で」を読んでいたので、少し驚きだった。なにもかも機能せず治安も最悪で、昨日あったものが今日はないような街の物語で、最悪の解像度があまりにも高くひどく胸に刺さった。カミュの「ペスト」なんかそれに近そうだけれど、よりいまひどいことが起きている場所/これからひどいことが起きる場所への想像力に溢れていた。これは空想の話ではない気がする。こういう物語を読んでおくことは、何かが起きたときの心の避難訓練のようなもので、その意味で近々「マリウポリの20日間」も観に行こうと思っている。こうも常に身構えて、これからありうる喪失を考えるなら、その未来の想像力を養わなければならない気がする。ひどい現実を安全地帯から眺めて終わりではなく、此方の河で起こる未来のトレーニングとしてこれらの作品を消化したい。(また、実際イランがイスラエルを攻撃したのは、個人的にはそうした有事のときの心のトレーニングになった。幸い死者もでない程度の抑制が効いてたのがよかった。そのときに自分の曲を聴いてみて、どの曲がそうしたときに有効なのかよくわかった)


ときどき世界情勢がバーチャルに思えてくることがある。現実に起きていることなのに、おれのしょうもない生活と乖離しすぎている。現実感がないかというと、むしろアポカリプスはビンビンに予感させるので現実感はひりつくくらい感じる。ただ、眼前の生活はそうした世界すべてがひっくり返るような事態に大して、あまりにも矮小かつ陳腐で無力だ。おれのできる範囲と世界があまりにも遠すぎる。この生活は別に嫌いじゃないし、この生活が許されていることが平和そのものだとも思うけれど、おれはなんら世界に影響を及ぼさない塵芥にすぎない。祈り。おれができることは祈りなのか。それとも塵芥なりのプロテストなのか。天にいます私たちの父よ。みこころが天で行われるように地でも行われますように。(マタイの福音書6章10節)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?