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生活と宇宙

ロシア宇宙主義についての文章を読んで、少し宇宙について考えるようになった。あるゲーム実況者がなにか落ち込んだときは宇宙を想像すると言った。あまりにも途方もない宇宙からしたら、自分は塵芥のようなもの。そう考えればなにもかもどうでもよくなる。宇宙と自身を合一しているようだし、宇宙を盾にしたニヒリズムともいえる。最終的な合一化に近いのがロシア宇宙主義であった。

人間として死に、意識が喪われて、死体として処理された肉体は徐々に崩壊していき、最終的に分解された塵になって宇宙をさまようのだろうと考えると、結局宇宙の成分として宇宙と一つになるのだな、と思う。宇宙と一つになることを拒否して、できるだけ長く生きながらえようとするこの意識だけが、もしかしたら宇宙の異物なのかもしれない。おれたちはなんなのだろう。笑い、悲しみ、愛し、憎むこのおれたちという意識はいったいなんなのだろう。

昔にくらべて作っていた曲をひっくり返して全然違うものに手直しできるようになってきた。あまり歳をとった感覚がまだないけれど、これは確実に歳をとったからできることだ。数年前はこねくり回した曲はだいたい結局没にしていたが、最近はこねくり周りしても形にできるようになった。リカバリーが上手くなった、というのはいかにも経験によるものじゃないか。確実に歳をとっている気がして少し落ち込む。別にいいのだけれど。

父親の耳が遠くなってきた。最近はおれと母の喋ったことを聞き返すようになった。父親も確実に歳をとっている。おれより確実な形で歳をとっている。歳をとることは死に近づくことだとありあり感じさせる。父親といれる時間も、もう少しだけになってきたのかもしれない。最近の父は登山が趣味で、ある日の食卓で遺骨は山にばら撒いて欲しいと言っていた。彼がいなくなるのはとても寂しい。これこそ身構えて、備えるべき巨大な喪失だ。そのときまでにうまく遺骨を山に撒ける大人にならなければならない。それをいま途方もなく感じている。


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