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ファイナルグライド#4

雑感:この作品の中で起こる様々な現象、実はかなり多くの部分、僕の実体験を少し(いや、かなりか?)盛って表現しています。書き込みが念入りで、いかにも細部まで頑張って表現しようとしている場面などは、実際僕が見た事ある、体験した事のある情景を一生懸命再現しようと試みている、なんて想像してもらっても良いかと思います。時々、非科学的な現象が実際に起こっているかのように描かれる事もありますが、実は空の上って結構そんな事に思いを馳せてしまうくらい不思議な事が起こったりします。そんな空の素晴らしさを表現するのも、この作品を書くにあたってのテーマでした。

積乱雲の中で
 積雲は地表を離れて上昇していく暖かい空気の泡が、次第に冷やされて、その中に含まれる水分を水蒸気という形で保持できなくなってできあがる。あの白い綿のような外観は実は非常に細かい水滴なのだ。ひとたび雲になった暖かい空気は水蒸気が水滴になるときに発生する潜熱を取り入れることができるので雲になる前よりも冷えていく度合いが小さくなる。この時、高度をあげるに従って空気の温度が下がっていく度合いが、雲が冷やされていく度合いよりも大きいと、時として雲は歯止めを失って成長し、積乱雲、通称入道雲へと成長する。空を飛ぶものにとって一番恐ろしいものは乱気流やニアミスなどでは無い。実はこの歯止めを失って暴走した上昇気流の成れの果て、積乱雲なのだ。
 慶太は雲底に近づく直前に自分の頭上にある雲の底が次第に薄暗くなっていくのに気が付いていた。ふと不安を感じてセンタリングを止め、雲のへりに機首を向けた慶太は頭上の雲がもうかなり危険な段階まで成長している事に気が付いた。センタリングをやめても実は上昇速度はまるで変わらなかったのだ。アルチバリオが狂ったように上昇音を告げている。慶太は両手を精いっぱい延ばしてフロントライザーからのびる一番外端のラインを勢い良く手繰り寄せた。慶太の翼の両翼端が犬の耳のようにパタリと折り畳まれた。翼面積が減少したために慶太の機体は沈下速度を増し、降下を始めるはずだった。しかし、雲の力はすでにそんな小手先の技が通用する状態ではなく、狂ったように上昇を告げていたアルチバリオの音がいくらか落ちついたにすぎなかった。そのとき、ふと自分の離脱してきた雲底を振り返った慶太は白いコンチェルトが雲のど真ん中でセンタリングをしているのを発見した。なんと言うことだ。宏子はこの雲が積乱雲に成長しつつある事に全く気づいていないのだった。
 慶太には一瞬の逡巡も許されなかった。宏子の機体はもう後わずかで雲底に達しようとしているのだ。雲に入ってしまう前に捕まえなければならない。慶太は機首を、いまやその下にあるすべてものを吸い付くそうとしているように見える積乱雲の直下に向けた。翼端を潰したままアクセルをストッパーいっぱいまで踏み込むと上昇はいくらか和らいだ。さすがに様子がおかしいと気が付いたのか宏子の機体がセンタリングを止めた。
「積乱雲だ!こっちに来い!」
まだ宏子の機体は遠かったが慶太は声の限りに叫んだ。声が届いたのか宏子のコンチェルトがこちらを向いた。
「うまいぞ!」
宏子の機体が近づいてきた。雲に包まれてしまう前になんとか合流できそうだ。
「積乱雲だ!雲の縁に逃げるぞぉ!」
ようやく声の届くところまで近づいてきた宏子に向かって慶太は声の限りに叫んだ。いまや雲底に達した二人の機体は薄白い靄にすっかり巻き込まれようとしていた。慶太は視界が無くなる前に宏子に叫んだ。
「翼端を潰すんだ!とにかく高度を落とせ!」
突然の事に恐慌に陥った宏子はAライザーから延びる一番外側のラインを掴むやいなや力の限りに引き下ろした。宏子の操作自体は決して間違ってはいなかった。ただほんのちょっと力が入りすぎていたのと宏子が掴んだAラインの位置がいくらか低かったために結果はいくらか慶太の期待したものと違うものとなった。引き下ろされたラインは勢い余ってAライザーそのものを引き下ろし、グライダーは前縁を大きく潰されて失速状態に入ったのだ。おまけに左右の引き加減が不均等だったのだろう。大きな悲鳴の声を残して宏子の機体はゆっくりと旋回しながら降下していった。この様を目の当たりにしながら慶太は不謹慎と思いながらも吹き出しそうになってしまった。あの威勢のいい娘が手も足も出ないで悲鳴と一緒に回りながら落ちていく。本人にしてみれば決死のダイビングといったところなのだろうが、実はあの手の失速は見た目ほど危険は無いのだ。むしろいまは雲底を飛び続ける事の方がよっぽど危な…!
 見えない巨人の拳が慶太の機体の下面を突き上げた。アルチバリオの変調音が金切り声をあげて急激な上昇を慶太に告げる。積乱雲本来の殺人的な上昇域に慶太の機体が侵入したのだ。宏子に気を取られていた慶太は一瞬対応が遅れた。反動で翼の半分がいともたやすくたたき潰される。乱気流に翻弄されて慶太の機体はスピンに入った。瞬時にして慶太の目の前で左右のライザーが2回半ねじれた。気が付くと慶太は機体の進行方向と全く逆のほうを向きながら振り回されていた。反射的に両の手でライザーを掴み、押し広げるようにライザーのねじれを取りながら慶太はかつて感じた事の無いほどの恐怖に襲われていた。激しいフラットスピンに見舞われているはずの今、慶太のアルチバリオは全くなにごとも無いかのように上昇音を発しているのだ。「逃げなければ!」慶太の頭の中に警報が最大音量で鳴り響いた。慶太はライザーを元通りに戻すなりブレークコードのトグルを手に2回巻き付けて思いきり腰まで引き下ろした。旋回は止まり慶太の体は一瞬虚空に投げ出された。次の瞬間背中から投げ出される様に落ちていくのを予想した慶太の感覚は見事に裏切られた。機体を形作るのに不可欠な対気速度を失って機体は頭上で大暴れに暴れているにも関わらず上昇は止まっていないのだ。先ほどまでの狂ったような悲鳴とは違うものの、着実なリズムで慶太のバリオは避けがたい破滅へ向けてのリズムを奏でていた。高度計の数字は今や2000mを越えていた。全身から血の気が引いていった。歯の根があわずにどうしようもない震えが全身を襲う。寒くて震えているのか恐怖で震えているのか慶太自身にも解らなかった。パニックに陥りかけた意識を力尽くで現実に引き戻しながら慶太は現状を再検討した。垂直方向への脱出はキャノピーのカットアウェイの他には手段が残されてはいないだろう。カットアウェイとはキャノピーをパイロットの手元で切り放す事を言う。自由落下して危地を脱したらエマージェンシーパラシュートを開いて地上に降りるのだが、パラグライダーのパイロットが持っているエマージェンシーパラシュートはスカイダイビングのパラシュートとは物が違うので自由落下している状態から開いた瞬間の衝撃に耐えてくれるという保証は全く無い。それ以前に全く経験の無い素人がいきなりスカイダイビングまがいの事をしてまともにパラシュートを投げられるかどうかが怪しいのだ。この選択は考えられない。では今できることはなにか?慶太はブレークコードを引き込んでいた手をゆっくりと緩めると機体を失速から回復させた。激しい反動と共にキャノピーは再び頭上にあの見慣れた翼型を取り戻した。アルチバリオが再び神経質な金切り声をあげると同時に慶太はアクセルを限界まで踏み込んだ。高度障害が発生し始める4000mオーバーの世界に達するまではまだ少し時間がある。その間に水平方向に移動すればあるいは上昇の弱い所までたどり着けるかもしれないのだ。普通に飛んでいても四方八方からこづき回されるような乱気流の中、アクセルを踏み込んで進むのはひどく難しかった。しかしやらなければ避けがたい上昇とその終わりには低酸素症と低温による避けがたい死が待っている。なにひとつ変わらぬ景色の中をひたすら進みながら慶太は眼前の灰色の壁を凝視しつづけた。雲底に比べてあたりはすっかり暗くなっており、アルチバリオの液晶画面を判読するのにも困難を感じるほどであった。辺り一面を濃灰色の壁に囲まれて慶太にはもはや前後左右はおろか上下の区別すら判然とはしなかった。方向を定めてくれるものはハーネスにくくりつけた小さなコンパス一つだけ、これがなければ同じ所をぐるぐる回っていても全く気づかない。やがて高度は4000mを越えた。ライザーからは風に煽られて後ろにたなびくように氷柱ができ始めている。しかし、ようやく慶太の前の雲の壁が明るくなってきた。慶太は寒さにもうろうとする意識をなんとか駆り立ててこの明るい壁に向かってアクセルを踏み続けた。そして、実に突然に慶太の周辺からまとわりつくような雲の壁が取り払われた。暗さになれた慶太の目にはとうてい直視できない陽光に照らされた世界に慶太は飛び出したのだ。慶太は太陽の光というものがこうも暖かくありがたい物であったかを今更のように思い知った。そして、眩しさに目をしばたかせながら周囲を見回した慶太は驚きに息を飲んだ。
 慶太は考えた。もしかして自分はもう死んでしまっていて、ここは天国なのではないだろうか?慶太がそう考えるのも無理は無かった。慶太の飛び出したその空間は積乱雲の一角に深く穿たれた雲の織りなす深い峡谷の底だったのだ。真上から差し込む太陽の光に照らされて雲の壁は白い輝きを放っている。サングラス無しではきっと直視できないだろう。
雲のなかでは気づかなかったが慶太の体も真っ白な霜に全身覆われていた。慶太の両脇にそびえる雲の壁は慶太のいる位置からでも雄に1000mの高さはあるだろうか。峡谷の底では雲の切れ端が沸騰する蒸気のように沸々とわき上がっている。慶太のすぐ右手の雲の壁には太陽に照らされて慶太の姿と機体の一部が影を落としていた。そしてその影を取り囲んで小さな七色の光が真円を描いて取り囲んでいた。ブロッケン現象である。自分をとりまく世界の恐ろしくも壮大な美しさに慶太は一瞬我を忘れかけた。とその時、慶太の影を浮かび上がらせたブロッケンの中をもう一つの影がすっと横切った。まさか?と思って太陽をふり仰いだ慶太は太陽の中に一機のパラグライダーが飛んでいるのを発見した。太陽と重なって詳細は見て取れないが細身の翼型に鋭く切れ上がった翼端が目に見えて後退している独特の機体だった。パイロットはこの状況だというのにまるでのんびりとフライトを楽しんでいるかのように足首の所で両足をくんでいた。慶太は自分を取り戻してそのパイロットの後を追った。そのパイロットはまるで慶太を誘導しているかのようにゆっくりと、しかし、確信ありげに雲の一角を目指して飛んでいった。しかしいつまで経っても慶太にとっては逆光になるところを飛び続けるために、それが一体何者なのか慶太には皆目検討がつかなかった。雲の壁に近づいたその機体は確信ありげにまっしぐらに雲の壁に飛び込もうとしている。
「待ってくれ!」
慶太は雲の中に姿を消そうとしているそのパイロットに向かって叫んだ。その声が届いたのか、そのパイロットは別れを告げるかのように慶太の方を振り向いた。しかしパイロットが振り返るよりも早く慶太とパイロットとの間に濃い雲の固まりが吹き付けて、慶太の視界は再び濃灰色の闇の中に閉ざされた。

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