見出し画像

ファイナルグライド#7

雑感:高岩山のモデルは…立山ゴンドラスキー場! と思った人は多いでしょうね。テイクオフして裏側、南面にこぼれなければいけないのがこのエリアの特徴です。でも、それだけじゃありません。立山だと西の平野に出したり、一本南の尾根に渡ったりしませんからね。高岩山は立山と小出の合成です。平野部のパイロンと南の尾根は小出の平野部パイロンと八海山パイロンに相当するつもりで書きました。
なお、慶太の対岸に渡る作戦、ずっと暖めていたものを、実は1996年日本選手権の第1ヒートで実行しました。しかし結果は惨敗(笑)リフライトの為に壮絶なペースでテイクオフまで走って戻る羽目になりました。おかげで第一ヒート後に55位という凄まじくビハインドな位置からのスタートになってしまいました(笑)。もちろん、この後まくりにまくって、総合では5位まで戻しましたけどね!

慶太の考え
 慶太には慶太なりの考えがあった。コンペの経験という点で言えば慶太はまるで素人といっていい。いくら良い指導者である内藤にそのコツを教わった所でコンペに勝つための飛び方が一朝一夕で身に付くと思ってはいなかった。そんな慶太がこのデビュー戦で出来る事は万策を尽くしてゴールすることだった。2年後の世界選手権に参加して、あまつさえ優勝しようなどという事を考えている自分が全力を尽くしてタスクを飛んで、それでもノービスリーグで勝つ事すら出来ないのであれば、それははなから目標が誤っていたという事なのだ。だから慶太は内藤が口を酸っぱくして競技の流れを説明をするのも半ばは聞き流していた。それよりも慶太にとってはこのエリアで今動いている空気の流れを少しでも読みとって、今日の空気の動きのリズムに自分を同調させていく事の方が重要であった。
 慶太は考えた。この谷は西に向かって開いているためにサーマルが上がり始めるのがいくらか遅い。しかし、平野部や尾根の先端の南斜面などは早くから日が当たるためにこのテイクオフ前よりも早くサーマルブローが上がり始める。テイクオフ前よりも早くサーマルが上がり始めそうなサーマルポイントでテイクオフからの滑空比で届きそうな場所は全部で三つ。そのうちの一カ所で今さっき最初のサーマルが地面を離れて斜面を駆け上がっていった。次のブローが上がるまでのタイミングをはかる為に慶太はちらりと時計を見た。慶太のスタイルはいつもこうであった。飛ぶ前にその日のサーマルコンディション、ポイント、タイミングに関する情報を集められるだけ集めて、そのシミュレーションに自分を同調させていく。そして飛び出してからはそのリズムに併せて自分のフライトを組み立てていくのである。こういう飛び方は経験が無ければなかなか出来るものでは無い。しかし、慶太にはそれは自然な行為であった。幼い日の紙飛行機での経験が慶太に風の振る舞いというものに興味を抱かせた。そして少年期の慶太は割と早い時期に、ありとあらゆる空気の振る舞いが実はすべて理由がある自然の活動だという理解を持つに至ったのである。他の学生にとってはただの木枯らしでも慶太にとってはそれは日本海側から吹き込んで雪を降らせた空気が山肌を駆け下りてきたものだった。普通そんな考え方は気象学者かスカイスポーツ経験者しかしない。しかもスカイスポーツ経験者の大半は自分がそのスポーツにのめり込んで初めてそういう考え方を身につけるものである。そういう意味では小学生の頃から絶えず空気の流れというものを観察し続けてきた慶太はこのテイクオフにいる誰よりも気象判断という意味では経験豊かであったのだ。もちろん慶太自身にはそんな認識はない。それに気象判断だけで勝てるほどコンペは甘くないと慶太自身も思っていた。そういう不安が重なって自分の機体をセットアップしながら、ふと自信を失いかけた所に内藤が声をかけてきた。内藤に言われるがままにキャノピーをゲートの前に運んでいる最中に2度目のブローがさっきの斜面を駆け上がっていった。さっきのブローから約9分、ブローそのものは今度はさっきよりいくらか長く続いた。他に目星をつけていたいくつかのポイントも空気が動き始めたようだ。後20分もすると対岸はかなり活発に活動が始まる。オーガナイザーもこの対岸の活動に目を付けたのだろう。タスクブリーフィングが始まった。ブリーフィングを聞きながら慶太はオーガナイザーの発表したタスクに戸惑いを感じた。これは…長すぎる。安全マージンを取って飛んだら多分最終パイロンからのリターンでサーマルタイムは終わってしまう。いったいこのオーガナイザーはこのエリアが解っているのか?それともこのタスクでレースが出来るほどノービスリーグのレベルというのは高いのだろうか?慶太は不安を抱きながらテイクオフへと向かった。3度目のブローが上がっている。前のブローとの間隔はいくらか短く、ブローの存在を告げる木の葉のざわめきもいくらか長く続いた。「やるしかないか。」慶太は手早く準備を澄ませるとそのままゲートに入った。テイクオフ前のサーマルが十分に発達するのを待てば、上げるのは楽になる。しかし、サーマル活動が活発になるということはそれだけバレーウインドも強くなるということを意味する。バレーウインドが強くなった後では移動に要する時間も余分にかかるようになるために、ここで30分待つということは、単純に30分ゴールに着くのが遅れるというだけではすまないのだ。それを計算に入れると、他の選手はいざ知らず、少なくとも慶太がゴールにたどり着くためにはゲートオープンと同時にテイクオフしなければならない計算になる。内藤にはなにも告げなかった。内藤の意見を聞いて自分の判断に迷いを抱きたくなかったからだ。テイクオフの直前に名前を呼ばれて振り向くと、内藤が気の毒なほどに慌てた顔でこちらに何かを訴えようとしていた。にこりと笑顔で内藤に答えると慶太は力強くキャノピーをたち上げた。
コンペティターとレーサー
 いまやテイクオフに群がるすべての選手の視線はまっすぐに飛び続ける2機の機体に釘付けになっていた。テイクオフしたのは慶太だけでは無かったのである。慶太と一緒にテイクオフゾーンに入った女性パイロットは慶太の後を追うようにテイクオフして、これまたなんの躊躇もせずに慶太の後についてまっすぐ飛びつけているのだ。慶太のオメガ5と、その女性パイロットが操る赤いレックスとは微動だにせずにまっすぐに飛び、今ランディング上空を通り過ぎて谷を越えようとしていた。ゲート前に群がる選手達にざわめきが起こった。じっと慶太の飛んでいく方向をにらみ続けている内藤の耳にざわめきの断片が切れ切れに飛び込んでくる。
「あれ…対岸を狙ってるんじゃないか?」
「無理だよ、あそこはこの時間じゃあがらないんだ。」
「バカだよないきなり。」
そう言いながらも選手達の何人かはゲートの前でキャノピーを抱えながらいつでもテイクオフゾーンに入れるように軽い押し合いを始めていた。
 内藤は昔松田と国内戦を転戦していた頃にこの作戦について語り合った事があった。確かにこのエリアは対岸の南斜面のほうが早くサーマルが上がりはじめる。昼を回る頃になると対岸全体が谷の底から上がってくる河川敷のサーマルによって絶好のサーマル帯を作ってくれるのだ。だから単純にそれだけを考えたらゲートオープンした後にまっすぐに対岸のサーマルに向かう作戦が有効のように思える。しかし、現実はそうは作戦どおりにはうまくいかない。対岸のサーマルは実は暖まりやすい反面持続時間が短いのだ。この持続時間が安定するまで待っていると今度はテイクオフ前が上がり始めてしまうので、わざわざ対岸まで飛ぶ必要が無くなってしまう。そこまで話しあった所で松田はにやりと笑い。こう言い放ったものだった。
「そもそもそんな大ばくちを踏まなくてもエリアルを俺達が飛ばしてれば問題なく勝てる。
勝てる勝負でばくちに賭ける必要はないだろう?」
こんな一言からも内藤は松田の天才を感じとったものだった。松田はいつも決して必要以上の事はしないのだ。剣の達人が間合いだけで切っ先を交わすのに似て、ぎりぎりの所でトップを取る。ただ松田がそこら辺の小利口なコンペティターと違っていた所は、必要な時にはきっちりと大ばくちを打って、いつも勝ってくる事だった。けだし天性のコンペティターであったと言えるだろう。そして、今その弟が内藤の目の前でいきなりの大ばくちに出ている。松田ですら実行はしなかった大ばくちである。内藤は思った。こいつはレーサーなのか?それともただの無謀者なのか?
 レーサーはコンペティターとは違う。コンペティターの目的は競技に勝つ事だから2位に1点でも差があればそれ以上の事はしなくてもいい。しかしレーサーは違う。レーサーは自分のタイムをいかに縮めるかが目的なのだ。だから2位の成績などは眼中にない。それぞれのヒートで自分のタイムをいかに縮めるかだけが彼らの生き甲斐なのだ。
 テイクオフのざわめきが一層大きくなった。2機のグライダーは完全にランディングを通り越してまっすぐに対岸のサーマルポイントに向かっている。テイクオフに群がっている選手達は彼らの狙いを察して混乱しているのだ。気の早い者は早くもテイクオフゾーンの中でセットアップを始めている。その中に現在ノービスリーグのトップを行く浜田の姿も見える。内藤は慶太の向かっている対岸のサーマルポイントを注視していた。問題の斜面にはまだ空気の動いている気配はない。良い兆候だ。口惜しいかな内藤は対岸のサーマルの間隔を計ってなかったので次にサーマルブローの上がるタイミングは判らないが、今からブローが上がってるようでは慶太が着く頃にはすでにサーマルブローは通り過ぎた後になってしまう。内藤は慶太がちゃんとタイミングを計った上でこの行動に出ている事を神に祈った。その時どよめきが一段と大きくなり、にわかにゲートの辺りが騒がしくなった。慶太の機体が一瞬ゆらりと揺れた後にぐぐっと持ち上げられたように見えたのである。次に起こったいくつかの事は総て同じ瞬間の出来事であった。片翼を持ち上げられると同時に慶太のオメガ5はそこまでのエアスピードを生かして一気にハイバンクターンにはいった。テイクオフゾーンの浜田はナンバーを告げるなり一気にキャノピーをたち上げた。ゾーン内ですでにセッティングを終えている何人かの選手達もこれに続くべく一斉にゼッケンナンバーを口々に叫び始め、ゲートの前にたむろする数十人の選手達は狭いゲートに我勝ちに入ろうとひどい押し合いを始めた。テイクオフゾーンは誰もが固唾を飲んで見守る緊張した雰囲気から一気に火事場のような騒ぎに陥ってしまったのである。
 「所詮ノービスリーグか。」内藤は思った。このゲートに殺到している選手達の中に慶太のやった事の本当の意味を理解しているものが果たしているだろうか?もちろんいるまい。知っていれば今ゲートに入ろうとは思わないはずだ。かれら自身が口々に語ったようにまだ対岸のサーマルの持続時間は短いのだ。内藤は後ろから押してくる選手達に先をゆずりながらひとまずほっとしながら慶太の動向を見守っていた。慶太とすぐ後に慶太と同じサーマルに飛びこんだ赤いレックスとは順調に高度を稼いでいた。テイクオフした浜田達はいまやっとランディング上空にさしかかった所だった。慶太はとりあえず第一の難関は突破した。
「気づいているのだろうか?いやここまで読んで対岸に賭けたのならば当然読んでるはずだ。」
内藤は思った。慶太は意表をついた作戦で圧倒的優位をねらえるポジションでレースをスタートした。しかし最も難しい局面は実はこの次の瞬間に訪れるのである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?