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ファイナルグライド#6

雑感:いよいよ競技開始です。ここまでは、パラグライダー経験の無い小説家でも取材しつつ書く事が出来そうな内容でしたが、ここから先は自分にしか書けない内容だと自負して書いていました。例によって多少盛ってはいますが、競技やってる時に選手はこんな事考えながら飛んでるんだ〜なんて想像しながら読んでください。
 
その日を境に内藤にとっても慶太にとっても目眩のするほど忙しい日々が始まった。昼間は二人で交互に講習をこなし、生徒が帰った後は倉庫の奥にある作業台でエリアル5の荒っぽい概念図を実際の形に作り上げるための型紙造りが夜遅くまで続けられた。夜半も過ぎてようやく休もうかという時間になると慶太は2001年度のルールブックを引っぱり出してポイントルールの勉強に専念する。一方内藤はというと、夜中に突然アイディアがわき出すとムクリと寝台から起き出して夜が白むまで机に向かうという生活が続いた。そして、慶太のデビュー戦である高岩山オープンの日がやってきた。
高岩山オープン
 高岩山オープンは2001シーズンのノービスリーグ第3戦に指定されていた。南北に連なる南アルプスの雄大な山脈から西に向かって延びた尾根がちょうどEの字を左右逆にしたように3本延びている。この三本の内、真ん中の尾根の中程に高岩山エリアのテイクオフはある。若干北西よりに振れて北に向かって開けたテイクオフにはよほど強い南風でも吹かない限り、谷を回り込んできた風がいくらか左サイド気味に吹き込んでくる。テイクオフ前の谷の底に日が当たるのが全くの平地に比べるといくらか遅いのでサーマル時間は12時から3時頃までといくらか短く、大きなタスクを組むのは難しいが、複雑な山岳地形を利用したダイナミックなスピードレースが可能な好エリアであった。
 慶太はテイクオフで、この大会のために内藤が用意してくれたオメガ5をセットアップしていた。高岩山オープンはノービスリーグに指定されているために市販モデルでしか参加する事が出来なかったのだ。2001年の改正ルールによってノービスリーグへの参加は製品無改造のグライダーでなければならない事になったことを知った内藤は、昔の馴染みの間を走り回って、ようやく慶太にオメガ5、自分用にノバのファラオを手配してきたのだった。
 この年、人々の話題に登る最新コンペ機というと、ノバの「ファラオ」、アドバンスの「オメガ5」、そしてダイナウイングの「レックス」の3機であった。ノバは着実に築き上げた伝統に乗っ取ってダイアゴナルリブを配した最新コンペモデル「ファラオ」を2000年秋に発表したばかりであった。それに先立つ事半年前、2000年春にデビューした「オメガ5」はオメガシリーズの伝統である旋回性を正統に継承した扱いやすいコンペモデルとして高い評価を得ていた。しかし今、長年に渡ってコンペシーンをリードしてきたこの2社を圧倒しそうな勢いを持っているのが1997年にアメリカで創業したダイナウイングであった。ダイナウイングはその短い歴史にも関わらず今や世界のパラグライダーシーンを席巻しつつあった。「オメガ5」「ファラオ」に対抗して新型機を準備していたUP、エアウエーブらのヨーロッパ勢はまさに新型機を出そうとした鼻先に「レックス」をぶつけられて設計の見直しを迫られていた。また、同じように新型機の出鼻をくじかれた韓国のイーデルは豊富なコンペパイロットの物量にものを言わせて、対レックス仕様のプロトを選手達に配って、さらに新しい機体の開発に要する時間を稼いでいた。これら、ヨーロッパ、アジアの対ダイナウイング包囲網を尻目に、ワールドカップシリーズ、日本のナショナルリーグともにダイナウイングは確実に優位を確保しつつあった。内藤が「ファラオ」と「オメガ5」を持ってスクールに帰ってきた時に慶太は内藤に尋ねた。今、コンペに勝とうと思ったら「レックス」なのになぜ「ファラオ」と「オメガ5」なのか。内藤はこう答えた。
「俺達には充分な時間が無いんだ。このノービスシリーズのラウンドだってただ漫然と飛ぶ訳にはいかない。これから作っていく機体がどんな操作性やテイストを持てばいいのか?そいつを掴まなきゃいけないんだ。そりゃレックスは良く飛ぶさ。けどあれはエリアル5とはコンセプトが根本的に違う。参考にはならないね。」
 慶太は内藤の言葉を思い出しながらもう一度セッティングの終わった翼を眺めた。この翼に秘められた過去10年以上に渡るノウハウを自分は掴み取れるだろうか?そして、同時にこの大会で十分に良い成績を残せるのだろうか?慶太と内藤の二人はこのノービスリーグで上半期に華々しい成績を残さなければならなかった。なぜなら2001年のルール改正によりナショナルリーグを戦うにはまずノービスリーグで成績を残してナショナルリーグに昇格しなければならなくなったからだ。慶太と内藤は前年度の実績を持っていないので、いきなりナショナルリーグを戦うわけにはいかなかった。そして、二人が下半期のナショナルリーグを戦うためには、通常どおりの手続きを踏んで年度末の最終ランキングの確定を待っていては駄目なのだ。上半期を終えた時点でノービスリーグには置いておけないほどの非凡な成績を残して特別昇格の申請をしなければ下半期の大会をナショナルリーグで戦う事は許されないのである。客観的に見るといくらか自信過剰気味な性格の慶太であったが、さすがにこれは荷が重かった。
「慶太!早くキャノピーを絞ってゲートの前にならべなきゃだめじゃないか。」
いつのまにか内藤がすぐ後ろまで来ていた。内藤はもうすっかりセットをすませた「ファラオ」をゲートの脇に置いてあった。
「あ、すいません。」
あわててキャノピーを絞り始める慶太の傍らに立って内藤は続けた。
「ここのテイクオフを見てごらん。多分いっぺんに出られる機体はせいぜい2機か3機だ。おまけにここのサーマルタイムは長いほうじゃない。タスクは十中八九スピードランだからゲートの脇の一番出やすい所にキャノピーを並べて置くんだ。」
 ここで言うスピードランとはパラグライダーの競技の内、タイムを計測するための一手法である。そもそもパラグライダーの競技はあらかじめオーガナイザーの定めた一定のコースを、サーマルを駆使して途中で降りてしまわないように距離を伸ばし、指定された距離を飛べた者の間でそれに要した時間を競うという内容だ。選手達の飛行を規制する地上の目標物をパイロンと言い、これには地上の交差点や建物、橋など識別しやすいものが指定される。選手達はそこへ行った証拠として指定された方向からその地上の目標物をコンパクトカメラで撮影してくるのだが、そのタイムを計測する方法にはいくつかの手法があり、そのうちの一つが今内藤の言ったスピードランなのである。スピードランとは個々の選手がそのコースに飛ぶのに要した時間を計って、最もタイムの短かったものを一位とする方法で、選手がテイクオフした瞬間からタイムを計り始める方法と、空中で指定されたスタートパイロンを撮影した所からカメラのデータパックを使ってタイムの計測をする方法との二通りがある。スピードランの場合テイクオフのタイミングが非常に重要になって来る上に、大体テイクオフの狭いエリアで採用される事の多いタスクなので、テイクオフに入るゲートの脇にキャノピーを置いておくことによってかなり競技を有利に戦えるのだ。
 慶太がキャノピーを置く頃にはゲートの周りはびっしりと隙間無くキャノピーで埋め尽くされていた。内藤は手早く自分のキャノピーを脇に寄せるとなんとか一機分入るか入らないかの空間を確保した。
「さあ、ぼんやりしてないでここにキャノピーを置くんだ。」
顔を上げて慶太の様子を見た内藤は言い様のない不安に捕らえられた。どうしたというのだろう。どうしてこの若者は本来ならば緊張して四方八方に気を張りつめていなければおかしいようなこの状況でぼんやりと辺りを眺めているのだ。心なしかいつもよりも動作が鈍いような気さえする。あの晩の夢にある種の啓示を感じて慶太とともにあきらめかけた夢を追おうとしたのは間違いだったのだろうか?内藤は心の中の声で天国の松田に語りかけた。「なあ松田、あれはおまえじゃ無かったのか?おまえは今でもかわいい弟の事を守ってるんじゃないのか?」内藤の雑念を吹き払うようにタスクブリーフィングの始まりを告げるアナウンスが聞こえた。
 ナショナルリーグへの昇格を夢見る60人あまりの若者達を前にオーガナイザーの発表したタスクは42キロあまりのスピードランであった。テイクオフ後にもう一本北にある尾根の付け根にある山小屋を撮影して、そのまま尾根を西に4㎞下り、山麓の工場の煙突を回り込む。今度はコースを南に転じてテイクオフよりも一本南にある尾根の上にあるS字カーブを撮影したら、一気に北に12㎞離れた平地にある池のほとりの小屋を撮影してテイクオフ前のゴールへリターンするという内容だ。
 ノービスリーグには厳しすぎる。内藤は思った。もうすぐサーマルが上がり始めそうな兆候はあるがテイクオフ前はまだ十分に暖まっていない。11時の時点でこれだから15分後にゲートを開けても実際に競技が始められるのは12時近くになるだろう。3時間のサーマルタイムで42㎞を飛ぶための平均速度は約14㎞。決して速くは無いが引っ張っていく技量の高いパイロットが居ないとノービスリーグの平均速度はまだかなり低いと見ていい。それでもあるいは最終パイロンまでは回れるかもしれない。しかし、強くなっているはずの南風に逆らって飛び、尾根の北斜面に張り付かなければならないリターンは決して易しくは無い。内藤はタスクボードを撮影すると慶太とタスクの読み合わせをしながら自分の読みを慶太に説明した。慶太は相変わらず内藤の話を聞いているのか聞いていないのか辺りをきょろきょろ見回している。
 選手がテイクオフの前にしなければならない事はたくさんある。ゲートへ戻ってハーネスをセットアップしていると15分などあっと言う間に過ぎてしまう。久しぶりの大会で機材の取り回しにちょっと手こずった内藤が、やっとセットアップを終えて顔を上げたのとゲートが開くのは同時であった。キャノピーを持ってゲートの前の人垣に割り込んだ内藤は頭をハンマーで殴られたようなショックを受けた。慶太がもうゲートの中に入ってテイクオフの準備をしているのである。つられて入ったのかもう一人女性パイロットが準備をしているが、他の誰一人としてゲートに入る気配は無い。このエリアはもう少しテイクオフ前が暖まってからテイクオフして、高度を温存したうえで尾根の南側にこぼれて高度を稼ぐのがセオリーなのだ。説明していないわけでは無いのになぜ!
「慶太!」
内藤は叫んだ。さすがに帰ってこいとは言えない。が振り向いた慶太に内藤はしきりに首を振って帰ってこいというジェスチュアをした。その仕草が滑稽だったのか慶太はにこっと笑うと前を向いて一気にキャノピーを立ち上げた。内藤は思わず目をつぶった。ああ、どうか慶太がテイクオフを失敗しますように。もしテイクオフしてしまったら何とか幸運に恵まれて南斜面にこぼれられますように!目をつぶっている内藤の耳に周囲のパイロット達のどよめきが聞こえた。もしや南にこぼれられたのか?目をあけた内藤は信じられないものを見る思いだった。慶太の白いオメガ5は斜面に張り付くという事をまったくせずにまっすぐに正面に向かって順調に高度を落としながら飛んでいくのだ。内藤の狼狽ぶりに周囲からくすくすと笑いの声が聞こえたが内藤はそれどころでは無かった。慶太の姿を見送りながらただ呆然と立ち尽くすばかりであった。

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