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ファイナルグライド#5

雑感:この回までが、作者の中で、物語を始めるための状況説明、主人公とそれをとりまく人々の性格、関係性、起点となる過去の事件を紹介するパートでした。連載開始時点で、ここまで書いてあったので、手元のデータファイルのナンバリングは、ここまでが一つの001というファイルと出版元に送信したそれぞれ分割した001〜005のファイルとダブって存在します。で・も! 僕が書きたかったのはここから先、パラグライダー競技の中でアスリート達が繰り広げる、戦術、戦略、そして権謀術数の面白さでした。
ここで、ちょっとご意見を窺いたい。競技が始まってしまうと、もしかしたらパラグライダーを、あまり良く知らない人にはピンとこない、あるいは意味が判らないシーンが出てくるかも知れません。もし、これを読んでいる人で、ここが判らない! とかこの場面の意味を説明して欲しい! なんてものが有ったら是非コメントください。次の回の雑感にて解説します。あ! もちろん、それ以外のコメントも歓迎です。リアクションあると励みになりますから!


闇を抜けて
 ランディングはひとときのパニックが収まり講習生達は落ちつきを取り戻しかけていた。宏子は怪我の功名で積乱雲を逃れる事ができた。もっともランディングまで戻ってくる事はできずに、途中の空き地にランディングしたようだ。仲間がすでに現地へ行っていて無事は確認されている。どうやら彼女の無線機は電池切れだったらしい。他の講習生は全員迅速にランディングへ向かったので恐い思い一つせずにランディングすることができた。ビジターが一人ランディング手前にショートしていたが、今無事が確認された。消息が解らないのは宏子に危険を伝えたあとに雲に吸われてしまった慶太だけだ。内藤はスパイラルを切りながら雲の下に飛び出してくる慶太の姿を待ちわびてもう15分も雲底を睨み続けていた。もちろん定期的に慶太の無線機を呼び出していたのだが応答はなかった。どんなに不安であろうと、苛立とうと、こうなってしまっては内藤に出来ることは待つより他にありはしない。しかし、講習生の安否を気遣う内藤の意識のバックグラウンドで鳴り響いている慶太の行方不明を告げる警鐘は今や耳を聾するばかりに鳴り響き、内藤の心は粉々に引き裂かれる思いであった。もし慶太になにかあったらそのときはきっぱりとパラグライダーという仕事から手を引こう。本当は4年前のあの日、落ちていく松田になにもしてやれなかったあの時から俺はこの仕事から手を引くべきだったのかもしれない。しかし、内藤はきっぱりと止めてしまうにはあまりにもこのパラグライダーというスポーツを愛していた。慶太が雲底から姿を消してもう20分になろうとしている。平均上昇率5mで上昇しても、もう6000mに達してしまうだけの時間がたっている。内藤は最悪の事態を受け入れる覚悟を決めて最後にもう一度慶太に呼びかけるためにハンドマイクを取り上げた。
「内藤さん!聞こえますか慶太です!」 
突然慶太の声が無線機のスピーカーから飛び出してきた。
「こちら内藤!慶太君無事なのか?」
「今なんとか雲から抜けました。危なく冷凍マグロになる所でしたよ。」
「今どこにいるんだ?」
「わかりませんけど高度は4200m。近くに町が見えます。」
内藤は全身の緊張が潮が引くように遠のいていくのを感じながらハンドマイクに告げた。
「どこでもいいからとにかく地面におろして場所を連絡してくれよ。迎えにいくから。それから宏子ちゃんを助けてくれてありがとう。」
「お安い御用、と言いたいところですけど参りました。二度とご免ですね。」
そう告げると慶太はハンドマイクに添えた手を離し、腕に真っ白くこびりついた霜を払い落とした。粉々に砕けた真っ白い氷の破片達はきらきらと光をきらめかせながら慶太の背後に流れていった。慶太を先導してくれたあの機体の姿はどこにも無かった。
パイロットの正体
「他の機体だって!?」
内藤は慶太の話を聞いて思わず問い返した。
「そうなんですよ、まるでのんびり楽しんでるみたいに足を組んでゆったり飛んでいました。」
「どんな機体だった?」
内藤の問いに慶太は記憶をたどるかのように遠い所を見つめながら答えた。
「やたら細長くて、翼端が極端に後退してました、色は淡い紫かな?あ、翼の右側に修理したような縫い目が一つありました。危なそうな機体なのにパイロットはまるでのんびりしていて、そのくせグライダーはピクリとも動かないで安定しているんですよ。」
内藤は眉をひそめた。まさか?そんな事があるわけはない。あれを持ち出した者など居るわけがない。内藤はきびすを返すと事務所の奥に向かった。誰もそれを持ち出してはいなかった。倉庫の一番奥からそのまだあまり汚れていないザックを引っぱり出すと内藤はジッパーを開いて中の機体を取り出した。その藤色の機体はまるで今雲の中を飛んできたかのようにしっとりと湿り気を含んでいた。丸めてあるキャノピーを広げると外側から染み通るはずの無い中の方まで均等に湿り気を含んでいる。憑かれたようにキャノピーを広げる内藤の肩越しからキャノピーをのぞき見た慶太は無邪気な声で内藤に告げた。
「あれ、内藤さん、これと同じ機体ですよ僕が見たの。」
内藤は答える言葉を失った。同じもなにもこの機体は世界に一つしかない。そして足を組みながら鼻歌まじりでこの機体を操れる人間もまた一人しかいなかったのだ。自分をとりまく世界が急速に遠のいていくようなめまいに襲われながら内藤は松田典昌のこよなく愛したエリアル4を呆然と見おろしていた。地面に広げたキャノピーの左の下面には天国で乗る機体がなかったら困るだろうと、あの事故の後に内藤の修理した後が残っている。飛んでいる時にはこの跡がキャノピーの右下面に見える事だろう。内藤の耳には慶太の話しかけてくる声がまるで別の世界からの呼びかけのように遠くから届いていた。
 その夜内藤は夢を見た。夢の中で松田は意気揚々と機体を操っていた。内藤がいくら追いかけていってもその都度松田はひらりと高度を稼いですっと次のサーマルに走ってしまう。内藤は半ばむきになって松田を追いかけていた。松田になんとか追いついて一言謝りたかったのだ。しかし、もう少しで声が届くと思う度に松田は笑いながら内藤を置いてきぼりにしてしまう。内藤は自分が何を謝ろうとしているのか今一つ釈然としなかった。ただひどく重要な事を松田に詫びねばならないのだがそれが思い出せないのだ。さんざん追いかけたあげくにようやく同じサーマルに入り込んだ内藤に松田が声をかけてきた。
「内藤おまえってやつはひどいぜ。この4年おまえの俺への思い出といったら俺の落ちていく所ばかりじゃないか。」
そういうなり松田はひらりとグライダーを旋回させるとするすると高度を稼いでどこかへ消えてしまった。松田の姿が消えた瞬間すべての記憶がどっと内藤の頭の中に流れ込んできた。松田はもうこの世にはいない、そして、きっともうこの夢の中にも現れはしないだろう。そんな気がした。頬を何か熱いものが伝っていくのを感じて内藤は目を覚ました。 真っ暗な部屋の天井を背景に松田の操っていた機体の残像がうっすらと内藤の視野に残っていた。もう一度目を閉じると内藤の瞼の裏にその美しい機体の姿がもう一度鮮やかに蘇った。何一として無駄が無いシェイプ、自然な翼端の後退、そして一見ランダムなラインの取り出し。その姿は内藤の夢見る理想のパラグライダーそのままの姿であった。内藤はそのイメージをしっかりと脳裏の内に焼き付けた。
ファーストグライド
 荷物をまとめた慶太はきれいに片づけた事務所を見回して一つ溜息をついた。テーブルの上には宏子の買ってきたお詫びのビールが1ダースそのまま封も開けずに置いてある。考えてみれば無茶な話だった。いきなり現れた海の物とも山の物ともしれない若者をどこのお人好しが世界戦にまで連れていってくれるというのか、おまけにその若造ときたら勝手に雲に吸われて手も足も出ないまま心配ばかりかけてるんだからお話にならない。昨日は強がって明るく振る舞ってはみたものの慶太の心は挫折感に苛まれていた。こんな有り様で兄の遺志を次ごうなどと良く考えられたものだ。事務所を出ようとした慶太はもう一度振り返って足を止めた。そうして再びきびすを返して内藤の机に歩み寄ると机の上に置いた置き手紙を取り上げた。これだけ世話になったあげくにあんな騒動を起こして手紙一通で立ち去るのはやはりあまりに不義理が過ぎる。手紙を上着の内ポケットにしまったところでいきなり背後から内藤の声が聞こえた。
「おはよう慶太君!」
どぎまぎして振り返ると内藤が満面に笑みをたたえて立っていた。内藤は慶太が口を開くよりも早く机を回り込みながら言った。
「ちょっとこの図面を見てくれないか、今朝1時間で書いたものなんであまりきれいなものじゃないけど。」
内藤が机の上に広げた紙にはいっぱいにパラグライダーの三面図が描かれていた。それは慶太が今まで見たこともないほど美しい形を持った不思議な翼であった。図面の余白には所構わず色々な数値や計算式が書き込まれ、右下の隅には赤いマーカーに取り囲まれて黒いマジックで書かれた文字があった。慶太の目はそのマーカーで描かれた5つの文字を確かめるようにゆっくりと目で追った。
「エリアル5」
そこにはこう書いてあった。
「…なら良いんだけど、もしここにいて手伝ってくれるなら給料ぐらいは出せるようにしようと思ってるんだが、どう思う?」
呆然としていた慶太は内藤の言葉の大半を聞き漏らした。
「え?何の話ですか?」
きょとんとして聞き返す慶太に内藤は根気強く説明を繰り返した。
「エリアル4はもう作らない。これは昨日も言った通りだ。もっとすごいものを作る事にしたんだよ、2003年のベルナーオーバーランドの世界選手権に向けて。だから慶太君にも約束を守ってほしい。2003年までに世界戦の出場権を獲得するのが当面の君の義務だ。」
事態のあまりの急展開に慶太は混乱するばかりであった。ただ、確かな事は何か計り知れない運命の不思議によって慶太の計画は今重大な一歩を踏みだそうとしているという事だった。

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