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予定調和

東京どうする?って東京知事選挙のキャッチフレーズがポップすぎて
なにか他人事にでも仕立て上げたいような〝悪意〟を深読みしてしまうんだよ。


文豪・坂口安吾と競輪との関係を、昨日今日と興味深く調べ漁っている。
こういう面白い考察も、ネット上に見つけてしまった。

これまで私はそれほど文学作品を読み漁ってきたわけではなく、せいぜい受験のときに知識として必要だったから名前を知っているといった程度だ。現国の授業で扱った文章なら読んだことがあるというレベル。文庫本をちょっと背伸びして買って感想を持つ程度まで読んだ作家というなら、せいぜい福永武彦、井上靖、川端康成…ぐらいではないかと思う。太宰治の「人間失格」さえ、まだちゃんと読んだことがないんだ(買ったことはあるが積ん読のままフェイドアウトさせてしまった)とカミングアウトすれば、私の無教養ぶりをお伝えするには十分だろう。教養がドレスコードだとすれば、全力で追い出されてしまいかねない。塩を撒かれるかもしれない。理系なんです!って絶叫して許しを乞うても許されまい。

ただ、坂口安吾に関しては…この齢、この人生経験を携えて出会ったからこそ好きになれた気がする。

「堕落論」のことを久しく、堕落について考察した上で戒めるような道徳書だとばかり思い込んでいたぐらいだから、まさに噴飯ものでしかない。実は真逆だったというオチなわけで失笑してしまう。少なくとも、流し読みしただけで「俺はこれを読んだ!」ってふうに、知識をただコレクター的な自尊心の道具にしてしまうような優等生アタマをぶらさげて読む本なんかではない。

教養人のどなたかが、キルケゴールの「死に至る病」のことを「ガンについて書かれた書物だと思い込んでたやつがいた」みたいに茶化しておられたけれど…まさにかの方と同類だと思う。東大になんか入れなくてよかった(苦笑)。

コレクター的な自尊心の道具ってことでいえば、なけなしのお小遣いで三島由紀夫の「金閣寺」を文庫本で買ったのが中学生のころ。

真髄などわかるわけなんかない。

本棚にそれを見つけた母親をハラハラさせてしまったようだが。残念でした。鳶は鷹なんて産めません(笑)。カエルの子はやはりカエルでした。
思想家に興味を持ちはじめたと思い込んだらしいけれど…ご心配なく。
言い換えれば思想に関心を示すぐらいの精神を当時から持っていたなら、東大に入れたかもね(苦笑)。

現代ならひょっとすると「優等生」でも東大に受かってしまうのかもしれない。

いまの子供がむかしに較べて、劣化したという気なんてさらさらない。
むしろ偏った受験(共通テストに顕著)や高校教育の問題だと捉えている。

私の世代であればおそらく東大に進めた人というのは、きっとただのガリ勉でしかなかった人なんていないと思う。勉強家であるかたわら、どこか不良的な素養があったのではないかと。とりわけ文系人に関しては。

競輪と坂口安吾


AERA dot. の山口謠司先生は、このように冒頭で書かれておられる。

坂口安吾(1906~1955)ほど、いろんな方面に興味を示し、幅広いジャンルで作品を発表していった人もいないのではないかと思われる。

『堕落論』『恋愛論』などの評論や社会時評「安吾巷談」、『白痴』『桜の森の満開の下』などの小説、『不連続殺人事件』『心霊殺人事件』などの推理小説、『風と光と二十の私と』『いずこへ』などの自伝小説、『道鏡』『女剣士』などの時代小説、税金滞納に腹を立てて国税庁に対する「差押エラレ日記」「負ケラレマセン勝ツマデハ」などの不払い闘争日記、『日本文化私観』などのエッセイ……しかもどれを読んでもおもしろい!

 ところで、安吾は、競輪にも興味を持っていた。
 しかし、賭け事としての競輪にではなく、競輪の「八百長」についてである。

https://dot.asahi.com/articles/-/86839?page=1 より引用

ただ最後の2行にだけには、ちょっと異議を申し立てたい。

「今日われ競輪す」という文章を青空文庫で読んだのだけれど、競輪の好き者でなければあの文章は書けないんじゃないか。安吾さん、穴狙いのために17点買いまで試していたりするんだから(笑)。買い目まで開陳されておられるのだ。なんてお茶目な方なんだろう。面白すぎるぞ。

これまた無教養な私は御用達の競輪場はてっきり伊東だとばかり思い込んでいたのだが、山口先生によると安吾さんは、わざわざ川崎競輪まで出かけていたようだ。後年、差しの戦果に対して異議を唱えたのは伊東の競輪場だったようだが、「今日われ競輪す」のほうは伊東に競輪場ができる前の文章だったらしい。

なお「今日われ競輪す」の結びはこんなふうだ。

 賭博というものは、それで生計をたてる性質のものではなく、遊びであり、その限りに於て、片隅に存在を許されることは、不当ではない。特に日本の国情として、世界的に観光国家として発展の必要があると、片隅の存在としての賭博は、片隅ながらも、国家的な配慮に於て行われる必要はあるだろう。
 そういう場合に最大の障碍となるのは、その賭博によって生計を立てる人種が介在することで、つまり、ボスというものの存在を許すかぎり、賭博は民衆の「遊び」として育てることはできないのである。
 賭博を単純に遊びとか保養というものに解する生活が確立すれば、もとより賭博の害もなく、競輪場の紛擾もなくなるだろう。モナコがなくなっても、自殺者の数はへらない。

「今日われ競輪す」より文末を引用

安吾さんさあ、残念なんだけど…国家的な配慮ってやつがなんだか戦後まもないころよりもきっとヘンテコになってるんですわ。ギャンブルはますます遊びの要素から離れて、生活の「一発逆転」を狙いし者のたまり場になっている。
大阪にカジノを作ろうとしている(あの構想がどうなったのかは知らない)。
私の父親はもう80歳を超えているが、大阪カジノがオープンするまで生きようという腹なのかもしれない。やめとけって思うけど。

演出的要素が入ってもそんなものだろって、つい思ってしまうんだな


八百長は許されないことだ。それに関してはまったくその通りだと思う。

ただ、ラインで隊列を組んで走るという性質をふまえるなら…何かしらの打算で、ゴール前で先輩に花を持たせたりといったことはあり得る。いまどきのケイリンからはかなりそういうものは排除されているかもしれないけれど、昭和の倫理観でいえばそうした「人間模様」を読むこともまた予想の妙味のひとつではあったかもしれない。

先日「代謝」(競争得点によって、技量の劣る選手を強制引退させる制度)をめぐるちょっとした話を投稿させていただいた。

実は竹元太志選手、別府でラストを1着で飾ったかに見えたけれど…そのあと弥彦(新潟県)のあっせんを受けたらしく、2024/6/25-6/27のオッズパーク杯を走っている。おそらくこれが本当にラストだろう。

初日
2日目
3日目

昨日知ったことなので、レースは3戦とも見ていない。
3日とも「大差」での7着だが、2日目に関してはバック(B)が記録されている。30歳台ぐらいの捲る(まくる)選手たちと競って、使う体力は半端なかったに違いない。打鐘後の1周、最後まで逃げ粘りを試みた意気込みには心から拍手を送りたい。

ーーー
八百長なんて言葉を持ち出すとどうもイメージが悪くなるけれど、お金さえからまなければ特に問題なんかにはなるまい。

プロレスなんかはその最たるもの(私は全日派でした)。
還暦をすぎたジャイアント馬場さんの十六文キックなんて、どう見たって交わすことができたはずだが、交わせるだろってほど緩慢な動きにもかかわらず、あれが決まり手になった試合はいくらでもあった。それでも観客は盛り上がる。レジェンドはいつまでもレジェンド。私だって、いちいち目くじらを立てたりはしない。

日本人というのは「予定調和が大好き」という精神性を持っている。強い者が勝つべくして勝つ — という構図を期待して観戦しているところがある。プロ野球でいえば、V9時代の巨人戦だってそうだ。八百長は入っていないにしても、いまの大谷選手を応援する精神性もまた然り。オリンピックではメダルに届きそうな選手ばかりをマスコミは取り上げる。

娯楽と政治とは違うんだけどな…


ちょっといただけないと思うのは、政治家をめぐる「予定調和」のほうだ。

政治は娯楽なんかではない。でも、東京都知事選あたりを見るに、おそらくマスコミの悪意?なんだろうけれど…なんだかプロレスでも観戦しているかのような気分になってしまうのだ。
あまり政治的な思想をnote上に持ち込みたくはないのだけど、あまり小池氏への印象はよくない。かといって蓮舫氏への印象も似たり寄ったりだ。

やたら参戦者が多いけれど、政治だけはドレスコードを守ってくれよと強く言いたい。政見放送にパフォーマンスはいらない。映像がこれほど扇情的になってしまうなら、それこそ書き物か音声だけに制限しろってほど酷い。アメリカだったら有りだとしても、日本人の心性にはこれ、もうストレスでしかないから(苦笑)。

たしかに内田裕也氏(故人)のロックンローラー魂で暴走気味の政権放送もひどかったし、泡沫候補の主張もどこかへんてこなものは多かったが…視覚的なもので煽られたってほどではなかったと思う。内田裕也が「パワー、トゥーザ、ピーポー」ってふうにアカペラで歌うぐらいは構わないし、ジョン・レノンの歌を持ち込んだことの精神性は理解できる(ちょっと媚びて場違いな感じはするが)。

というか、なんだか強い人たち(ユリコさんとレンホーさん)が「自画自賛」に徹しすぎてしまっているものだから、テレビやネットなどで見知りするにつけ、果てしなく疲れてしまう。都民の方は大変だよな…老婆心ながら心中お察しする。

マスコミが強い人たちを持ち上げることにご執心だから、きっと出来レースっぽい結果に落ち着くのだろう。さらには、どうせ出来レースになるんだ…といった庶民の諦めを誘い出すことがマスコミの狙いでもあるのだろう。
庶民とはまったく裏腹に、上級階級のパワーバランスでいえば現代ほど美味しい社会はないのだろうな。戦績とマスコミとの間のコンセンサスもきっとできているんだろう(うがったものの見方だろうか?)。そのあたりの感覚に関しては、私には縁遠すぎて想像をたくましくすることができなくて途方に暮れてしまう。

強い人はなぜ強いのか


競輪であればどうか。本当に強い選手しか「逃げ」の決まり手で勝つことはあるまい— 坂口安吾の言葉である(引用でなくちょっと言い換えている)。本当にその通りなのだ。さして強くない選手が逃げの決まり手で勝つレースがあったとすれば、それは番組(レースの構成メンバー)がコントロールされているか、さもなくば八百長的な要素を含んでいるはずだ。竹元選手の別府の「幻の」最終戦の1着はたぶん2着の秋永選手の温情が入っているけれど、それはある意味、人間の心を読むような物事だ。すべてのレースがガチ勝負でなくてもいいし、考えられない万車券を量産する目的でなければ全然OKだ。

土日にはJRAの中央競馬に流れる人が多い。おそらく派手な万車券が土日に多いような気がするのも…おそらくはなにかのコントロール(番組を組む人だったり、何かの権力だったり)が入ってくるがゆえのことだろう。安吾さんが伊東競輪のたかが1レースの判定に噛み付いた真意は、私の持ち合わせている材料だけでは真理を計りかねる。もう少し深堀りが必要なんだろうな。

番組屋は官僚なんだろうか…とにかく有利な内枠におさまり、予想屋(マスコミ)が◎をつけるユリコ。さらに○のついたレンホー、△のタモガミ。元どこかの市長さんとか元タレントさんとか…やはり経歴・知名度ありきなんだけど、一応、場合わせ的に▲や×の印がついた候補者もいるにはいる。で、無印にされた人たちをマスコミは(政見放送以外に)一切報じないわけだが、ドレスコードを守らない人や供託金を払い続けてばかりいる人は排除もやむを得ないとは思うけれど、真摯に言論・思想を持つ人でも勝ち目がない(というより、よほど積極的に情報収集しなければ、あるのかないのかさえ解り辛い原石を見つけ出せない)事態はどうなんだろう。
ゲート枠なんてあったものではない。
東京マラソンばりに50名ほどがいっせいに駆け出すというのだ(中には仮装して走る不埒者がいたりするのは前述したとおり)。
スタートがカオスでも心配ない。どのみち強い人が逃げ切りで勝つんだろうから。

ただ…荒廃していたはずの戦後まもなくから、昭和が「国民総中流」と呼ばれていた頃に至るまでの時代背景はたぶん研究するに値する(個人的には子供がわりと多く生まれていたことも一因だと思う)。オイルショックの混乱の渦中には、きっとのほほんとしたバブル期なんてものの想像すら持てなかったのではないかと。やりようによっては少しは良くなるのか? あのころの日本は「偶然」よかったのか、それとも政治の介入でよくなっていたのか?

なかなか難しい問題ではある。私の頭ではちょっと限界なんだけど…そうも言ってはいられないんだよな。

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